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Ray の誕生日なのでおめたん LINE をすると、絢瑛と入籍したと返事が来た。おめでとう!

この一週間で、大野くんから「プロポーズしました!」と連絡があり、美穂子からも入籍したという知らせが届いた。少し前には加藤真悟も結婚した。いわゆる「結婚ラッシュ」的な波が少し下の代で起きている。とりあえず「式でも何でも力になれることがあれば言ってくれ!」と話している。

かつて一緒に夜通し酒を飲んだり、他愛もない話で笑い転げていた友人たちが、それぞれの生活を選び取り、人生の新しい局面を迎えていく。その報告を受け取るたび、友達が遠くへ行ってしまうような寂しさがあるけれど(そんなことは全くないはずなのだけど)人生はこういうモラトリアムの終わりをひとつずつ引き受けながら、それを自分の皮膚になじませるようにして年輪を重ねていくものなのだと思う。というか、こういう寂しさや切なさも含めて味わえる人生でよかった。みんな、どうか幸せになってくれ!

夜、高円寺駅に着くと、台湾から遊びに来ているエリアルから「ラーメンを食べたい」と連絡が入ったので、北口のロータリーで待ち合わせることに。

エリアルを待つ間、ロータリーでキガさんというチリ人と出会い、何故か意気投合して一緒にシャボン玉を飛ばして遊ぶというピースな時間を過ごす。キガさんが『HUNTER×HUNTER』の暗黒大陸編をスペイン語訳で読んでいると言うので、ほんまかいなと思って少し突っ込んだ質問をしてみると、僕なんかより遥かに内容の理解が深くて(というか僕は暗黒大陸編について何も理解していないのだが)ただただ脱帽した。完全に侮っていた。非礼を詫び、自分に無自覚な偏見があることを反省する。


エリアルと合流して「どんなラーメンが食べたいの?」と尋ねると、絶賛『ちいかわ』にハマっている彼女は目を輝かせながら、

『郎』が食べてみたいです」

と、不穏なリクエストを口にする。

試しに別のラーメン屋を候補に挙げて煙に巻こうとしたが、エリアルのキラキラした眼差しには抗えず、腹を括って南口の「らーめん大」へと向かうことにした。思いがけず二郎(インスパイア)に駆け込む土曜日の24時半。しびれる。

着丼。御多分に洩れず普通サイズでもかなりの量で、モデルのようにスリムなエリアルは食べきれないのではないかとハラハラしたが、まったくの杞憂だった。エリアルは箸を止めず、山盛りの野菜も麺もペロリと平らげてしまった。またしても侮っていた。申し訳ない。

僕は感心しつつ、店のおっちゃんに「彼女は台湾から来たのだ」という話をすると、おっちゃんは嬉しそうに目を細めていた。エリアルもなんだか誇らしそうだった。ニンニクと醤油の匂いが充満する狭い店内に、あたたかい満足感が漂っていた。


夜風の吹く帰り道、「初めての二郎はどうだった?」と聞いてみると、エリアルは晴れやかな顔で、

「疲れました」

と笑っていた。

久しぶりに、納期の迫った仕事をひとつも抱えずに迎えた金曜の夜だ。(もしこれを読んでいる人で、僕に何かを依頼している方がいたらごめんなさい。見なかったことにしてください。)

あまりの開放感に浮かれてしまい、夕方から新宿を歩いて目についた雀荘に入って東風戦を四回打った。それから高円寺まで戻り、中華屋「福来門」(南口の方)で上海炒麺を平らげ、餃子をつつきながら深夜までダラダラと居座る。

何か新しい活字を頭に入れる気になれず、あてもなく Kindle ライブラリをスクロールしていると、昔何かのセールで買ったまま放置していた中島らもの『今夜、すべてのバーで』が目に留まった。いまやすっかり酒客としての生活からは遠ざかってしまったけれど、今夜の気分にはちょうどいい。

読み始めてすぐに、アルコール依存症で特別病棟に入院している主人公(中島らも)の年齢が三十五歳だと知り、思わず腰を抜かした。こいつ僕より若いのかよ。

以前この本を読んだのは、確か中学生か高校生の頃だ。少なくとも僕がまだ酒の味を知らなかった頃のはずで、恐らく二十年以上も前のことだと思う。当時は「とんでもなく破天荒なオッサンの話」として面白がっていたはずなのに、今や「まだ若いのに、こんなところまでいってしまったのか……」と、作中に登場する医師や看護士たちと全く同じ目線で痛々しく感慨に耽ってしまった。歳を重ねると、この手の不意打ちを食らうことが増えていく。

新宿バルト9で、アンナとエリアルと『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観てきた。台湾から観光に来ているエリアルは、四日前に台湾で翻訳版を観ており、早くも二回目の鑑賞だという。狂気。

(新宿、めちゃくちゃ上映してた)


映画の内容は完全に原作通り。うさぎのラップパートがアニメーションならではの表現で手厚く作り込まれていたのがよかった。観ていて気持ちよかった。

物語について。これは漫画を読んでいたときも思ったのだけれど、ちいかわが身内の不正義を見逃してしまうのを「優しい心」や「物分かりのいい態度」として描くのは、いかにも閉鎖的な村社会の醜悪さを表しているように思う。

人魚を食べた真犯人がヒトハとフタバであるという決定的な真相を掴んでおきながら、ちいかわはそれを明るみに出さず、事実を隠蔽して黙り込む。そしてあろうことか、犯人を差し出せと迫るセイレーンをみんなで攻撃して追い払い(その過程で身内は連帯・結束し)、「めでたしめでたし」と一件落着にしてしまう。

「自分たちの身内の空気や関係性を守ること」を最優先し、波風を立てない保身や隠蔽が、いつの間にか「優しさ」へとすり替わっていく。そしてそれをノスタルジックな音楽と美しい情景で包み込んでなんとなくいいかんじにして癒やしてしまうのは、なかなかにグロテスクじゃないか。


少し視点を変えて? もう一つ。

救いのない過酷な世界の中に愛くるしいキャラクターを放り込んで、その報われない生き様や困惑する姿を眺めて喜んでしまうのは、間違いなく嗜虐的な快楽の一つだ。「ちいかわ」という作品が、人間のそういう「可愛いものが困っている姿を見たい」という加害欲求、いわゆる「キュートアグレッション」を巧みに刺激してくるコンテンツであることは、あまり疑いの余地がないと思う。(この「嗜虐的な快楽」と、日々の理不尽な労働に耐える自分自身をちいかわ達に見立てて宥める「自傷的なケア」の奇妙な共存こそが「ちいかわ」という作品の最大の特徴。)

気にかかるのは、これを「深い話だ」「考えさせられる」と大真面目に頷き合っている世間の空気感だ。自分たちが俗な欲望(ポルノ)を消費しているという事実から、無意識に目を背けているように見える。これは、AVを観てシコっているだけなのに、そのシナリオや演出に難解な解釈を持ち出して「これは人間の生々しい本質に迫った芸術作品だ」などと語ったりすることで己の欲望を公然化しようとする(僕がよくやっていることです)心理に似ていると思う。

別に、ちいかわを深イイ話だとほめそやすのも、AVを芸術として捉えるのも個人の自由だし、それ自体を否定するつもりはないのだけれど、ただ、本質的にはかなり生臭くていやらしい人間の欲求に根ざしたポルノ的な消費だよね、というところは確認しておきたい。それをみんなして哲学的な寓話としてありがたがっている光景はちょっと不気味じゃないかいと思っているのだけど、しかしそうでもして安心しようとする姿もまたすごく人間らしい心理な気がする。

NiEW のオフィスで打ち合わせをした後、そのまま会議室を借りて作業させてもらっていると、柴田さんがかわいい漫画を持ってきてくれた。

『別冊よすみ(第二集)』


『別冊よすみ』は、SORAJIMA という出版社の中に作られた漫画編集部「よすみ」が発行している紙の作品集だ。

パラパラとページをめくってみると、そこに載っていたのはいわゆる典型的な商業漫画の形式からは少し浮いた、なんともいえない人間の「分かりづらさ」や生活のざらつきをそのまま残したような作品ばかりだった。漫画家だけではなく、歌人やエッセイスト、劇作家といった人たちが、カルチャーの境目を軽々越境してきたようなかんじでコラムや短歌を寄せていたりする。

世の中のあらゆるものが「わかりやすさ」にどんどん回収されていく中で、こういう不器用なものに触れると、無性に頼もしく、愛おしく、救われるような気持ちになる。

その後、柴田さんに身の上話なものを聞いてもらったりしたのだけど、そういった雑談も含めて、今日は救われるような時間が多かったと思う。つまりめちゃくちゃいい一日だった。


29歳の「よすみ」編集長インタビュー 演劇、批評畑から漫画編集部を立ち上げた意思(NiIEW)

ABCラジオ「こたけ正義感の聞けば無罪」を聴いていたら、ゲストに大島育宙が出ていて、自著『なぜあなたの感想はふつうなのか 独自の視点で語る技術』について喋っていた。

大島が言うには「感想を話す」というのは別に映画や小説といった話題に限った話ではないらしい。友達とご飯を食べに行ったときとか、誰かからちょっとしたお土産をもらったときのような場面での会話のことも想定しているのだという。そういうコミュニケーションにおいて「感想を話す技術」をどんどん活用していってほしい、感想を語る術がないと人間は「悪口か謙遜に逃げてしまうから」と話していた。この本に何が書かれているのか知らないが、この指摘についてはマジでその通りだなと思い、というか思い当たる節がありすぎて、皿洗いの手を止めてしまった。そして流れるような手つきで当該書籍をポチった。


感想といえば、今日青木宏治さんの ZINE 『Open Be-in 運動』を読んでいて、いいなと思う一節を見つけた。

表現はよき受け手がいるところでのみ、育つ。制作者としてやりたいことはなくても、美術を愛するもの達は多くいるだろう。良き受け手になろう。ここがいいとか悪いとか偉そうに話すのもそれはそれで一興だが、それよりもむしろ、見たままのプロセスをそのまま伝えてあげると、きっと作家の何かの役に立つだろう。最初は何がなんだか分からなかった、とか、ここに注目して見て、こんな風に感じ、解釈した、とか。作家の意図とは正反対に解釈している場合でも、何の問題もない。作家は伝え方について反省をするだろうから。電子メールでのアンケートにおいて、作家から返信が返って来ると、鑑賞者は見落としていた部分の指摘を受けたりできて、互いにとって有益。ただし、アートは生易しいものではないため、作品や感想の交流の中で互いが互いを深く傷つけあう場合もある。ネガティブな印象を作品から受けた場合のアンケート実践はどうするべきか。罵詈雑言飛ばしたいのだが、ぐっとこらえたまま、いまだ答えは見つからない。良き受け手への道は険しい。とはいえ、没交渉の死んだ沈黙こそが、文化振興にとっての最大の敵。この認識からはじめよう。

「ここがいいとか悪いとか偉そうに話すのもそれはそれで一興だが、それよりもむしろ、見たままのプロセスをそのまま伝えてあげる」というのが、最近の僕に対する大きな指南のように思えた。

ここ数日僕は Chooning にフジロックの感想を書きかけて止まっていたり、最近見た映画だと『FUJIKO』や『急に具合が悪くなる』『海辺の一日』あたりについても書きたいと思いつつ、しかしなかなか書き出せずにいた。が、「見たままのプロセスをそのまま伝えるように書く」と想像したとき、ああなんかスルスル書けそうだなという気がしたのだ。

明日からスルスル書くぞ、書くぞ。

夜、高円寺駅北口のロータリーに「フリー哲学」と書かれた看板を出してる男性がいた。

彼の前には小太りの明らかな酔っ払いのオッチャンが立っていて、フリー哲学の人はそのオッチャンの話に大きく頷きながらめちゃくちゃ丁寧に話を聞いているようだった。というか、フリー哲学などと書いてあるからそれは辛うじて「傾聴の姿勢」に見えたものの、看板がなければ気のよさそうな人が酔っ払いに絡まれているようにしか見えなかっただろう。

看板の脇には「自由に読んでください」的な本が並べられており、覗き込んでみると、少し気になっていた本屋メガホンの『ケアをクィアする』が置かれていた。僕は酔っ払いに絡まれないように細心の注意を払いながらにじり寄っていき「これ、読んでいいすか」と声をかけてみたのだった。が、なんやかんやあって気づけば酔っ払いのおっちゃんも含めて僕たち三人は一時間もその場で話し込んでしまった。


別れ際、フリー哲学の人こと青木さんから『Open Be-in 運動』と題された ZINE をもらった。そしていま向かいのデニーズに入り、ドリンクを飲みながらページをめくっているのだが、ちょっとその内容に圧倒されてしまっている。

ここに書かれているのは、青木さんがなぜ路上に立ち「フリー哲学」なんてものを始めるに至ったのかという、剥き出しで切実な生の告白だ。

43歳、非正規雇用の極貧生活、孤独。中年になってアートを商品として売る才能もなく、かといって趣味と割り切ることもできない。葛藤の果てに青木さんが行き着いたのは、表現活動を「政治化=社会運動化」することだった。そうして表現という行為そのものを社会の中に無理やりにでも位置づけ、この生きづらい世界で己のアートを生き残らせるための試みを行なっているのだという。

かつてブルーハーツの狂おしいステージやビート文学に救われた青木さんにとって、表現とは個人の最も奥深い部分を曝け出す「切実な自己解放」そのものだった。けれど、今の社会には本当の自分を開示し、本音を受け止めてもらえる場が圧倒的に足りない。だからこそ、青木さんは自分の足で路上に立ち続けたり、こうした ZINE を作ったりしている。

ページには、青木さんが日常のあらゆる隙間に仕掛けようとしている、驚くほど具体的で泥臭い実践のアイデアがびっしりと並んでいる。それらはどれも、効率や生産性を求める社会の中で孤独に押し込められ、声を失ってしまった人々の「存在」と「声」を取り戻すための切実な抵抗の希望のように見えた。