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Uboat とその友人たちと麻雀を打っていて、

「子どもに『こんなものに興味を持たせたい』とかあります?」

と誰かが尋ねた時、Uboat が間髪入れずに、

「それは子どもに『どんな呪いをかけたいか』って話やな」

と切り返していて痺れた。ほんまやな。

僕が使っている「小杉湯となり」というコワーキングスペースには、会員が自由に飲めるフリードリンクのサービスがある。

そこで、僕がカップに三分の一ほどコーヒーを注ぎ、さらに迷いなく冷水を注ぎ足して薄めていると、後ろに並んでいた人にギョッとされることがある。めざといスタッフに見つかったときなどは、「ごめんなさい、コーヒー濃すぎましたか……?」と申し訳なさそうな顔で心配されてしまったりする。


コーヒーの水割り、いわゆる「アメリカン」をよく飲むようになったのは、今年の六月に韓国で生活をしてからだ。

韓国はコーヒーの国である。僕が暮らしていたのはソウルから電車で一時間以上揺られた郊外の町だったが、そんな町ですら徒歩圏内に十数軒のコーヒーショップが乱立していた。

こういう店で町の人が飲むのは「アイスアメリカーノ」と決まっており、僕もそれに倣うようにしていた。気候が二十五度前後に差し掛かる初夏の頃、散歩して火照った身体にあの冷たい液体を流し込むのは最高の涼だった。薄いアメリカンだからこそ、大きなサイズでがぶがぶと煽っても、カフェインの悪酔いを起こさずに済む。そうやって気になるカフェをハシゴしていると、この町をいくらでも歩いていけるような気した。


コーヒーを水で割るのは、アイスコーヒーに限った話ではない。当時、お世話になっていたホームステイ先では、毎朝ホストファミリーのお婆さんが朝食と一緒にドリップコーヒーを用意してくれた。大きなサーバーからカップへ注いでくれるのだが、お婆さんはそのまま僕に渡すのではなく、そこに当然のような顔でお湯をなみなみと足してから手渡してくれるのだ。日本の喫茶店で出てくるアメリカンを、さらに半分に割ったくらいの薄さである。

「これではコーヒーの香りがついた白湯では……」と困惑したが、それを啜りながらお婆さんの話を聞いていると、コーヒーの風味だけがスイスイと僕の喉を通っていく。まるで水と同じように体の中にすーっと吸い込まれていくようだ。引っかかるノイズが何ひとつない。気づけば何杯もおかわりしてしまっていて、数日経った頃にはその頼りない薄味がすっかりクセになっていた。


滞在中、日曜日にはなるべく近所の教会に足を運ぶようにしていた。信徒にはなり損ねたが、十代の頃にミッションスクールで叩き込まれた聖書や讃美歌の素養は、海外の旅先で思いがけず役に立つことがある。教会に行けばタダで食事がもらえるし、地元の人たちとも親しくなりやすい。

ある日、教会の食堂で顔なじみになった男性と立ち話をしていると、彼は慣れた手つきでコーヒーメーカーからカップへ数センチほど注ぎ、軽く匂いを嗅ぐと、隣に置かれた寸胴のステンレスキーパーからコックをクイッとひねって躊躇なく水を注ぎ足した。僕との会話を途切れさせず、あまりにも自然に行われたその一連の動作に、僕は思わず言葉を忘れて見入ってしまった。

以来、僕もその所作を真似するようになったのだが、その日の気分に合わせた味をサッと作るのはカンタンではない。そもそも、ベースとなるコーヒーの濃さが日によって変わる。だから、まずカップの底に少しだけコーヒーを注ぎ、一口舐めて味を確かめてから、コーヒーや水を注ぎ足す。慣れれば香りを嗅ぐだけで判別できるのだろうが、その域は遥か先だ。

もちろん味だけではなく、所作としての美しさも求めたい。僕が見た男性の仕草には「粋」を感じさせるものがあった。コツは、ゆっくりと、しかし迷いなく行うことだ。あまり丁寧に味を調整している感じが出るとダサい。印象としては、雑然とした動作なのだ。「生まれてこの方ずっとこうして飲んでます」というかんじを目指したい。そうして練習を重ねて、納得のいく一杯が作れるようになってきたとき、僕は自分の身体がこの町に馴染んでいることに気がついた。

滞在中、韓国語は一向に上達しなかったので、これだけが僕が韓国で習得した唯一の技術といえるだろう。それを忘れてしまわぬよう、今日もコーヒーの水割りを作って飲んでいるのだ。

ピーチ子が「のど自慢」に出て審査員賞を受賞していた。

どんな形であれ、大学の友達が活躍しているのを見るのはいいよな。

なんか今日いい一日だったなって思える。

Ray の誕生日なのでおめたん LINE をすると、絢瑛と入籍したと返事が来た。おめでとう!

この一週間で、大野くんから「プロポーズしました!」と連絡があり、美穂子からも入籍したという知らせが届いた。少し前には加藤真悟も結婚した。いわゆる「結婚ラッシュ」的な波が少し下の代で起きている。とりあえず「式でも何でも力になれることがあれば言ってくれ!」と話している。

かつて一緒に夜通し酒を飲んで笑い転げていた友人たちが、それぞれの生活を選び取り、人生の新しい局面を迎えていく。その報告を受け取るたびに、友達が遠くへ行ってしまうような寂しさを感じてしまうけれど(そんなことは全くないはずなのだけど)、こういうモラトリアムの終わりを一匙ずつ受け取って、それを自分の皮膚になじませるようにして年輪を重ねていくのが人生なんだろうと思う。というか、こういう寂しさや切なさも含めて味わえる人生でよかった。みんな、どうか幸せになってくれ!

夜、高円寺駅に着くと、台湾から遊びに来ているエリアルから「ラーメンを食べたい」と連絡が入ったので、北口のロータリーで待ち合わせることに。

エリアルを待つ間、ロータリーでキガさんというチリ人と出会い、何故か意気投合して一緒にシャボン玉を飛ばして遊ぶというピースな時間を過ごす。

キガさんが『HUNTER×HUNTER』の暗黒大陸編をスペイン語訳で読んでいると言うので、「ほんまかいな」と思って少し突っ込んだ質問をしてみると、僕なんかより遥かに内容の理解が深くて(というか僕は暗黒大陸編について何も理解していないのだが)ただただ脱帽した。完全に侮っていた。非礼を詫び、自分に無自覚な偏見があることを反省する。


エリアルと合流して「どんなラーメンが食べたいの?」と尋ねると、絶賛『ちいかわ』にハマっている彼女は目を輝かせながら、

『郎』が食べてみたいです」

と、不穏なリクエストを口にする。

試しに別のラーメン屋を候補に挙げて煙に巻こうとしたが、エリアルのキラキラした眼差しには抗えず、腹を括って南口の「らーめん大」へと向かうことにした。思いがけず二郎系に駆け込む土曜日の24時半。しびれる。

着丼。御多分に洩れず普通サイズでもかなりの量で、モデルのようにスリムなエリアルは食べきれないのではないかとハラハラしたが、まったくの杞憂だった。エリアルは箸を止めず、山盛りの野菜も麺もペロリと平らげてしまった。またしても侮っていた。申し訳ない。

僕は感心しつつ、店のおっちゃんに「彼女は台湾から来たのだ」という話をすると、おっちゃんは嬉しそうに目を細めていた。エリアルもなんだか誇らしそうだった。ニンニクと醤油の匂いが充満する狭い店内に、あたたかい満足感が漂っていた。


夜風の吹く帰り道、「初めての二郎はどうだった?」と聞いてみると、エリアルは晴れやかな顔で、

「疲れました」

と笑っていた。

久しぶりに、納期の迫った仕事をひとつも抱えずに迎えた金曜の夜だ。(もしこれを読んでいる人で、僕に何かを依頼している方がいたらごめんなさい。見なかったことにしてください。)

あまりの開放感に浮かれてしまい、夕方から新宿を歩いて目についた雀荘に入って東風戦を四回打った。それから高円寺まで戻り、中華屋「福来門」(南口の方)で上海炒麺を平らげ、餃子をつつきながら深夜までダラダラと居座る。

何か新しい活字を頭に入れる気になれず、あてもなく Kindle ライブラリをスクロールしていると、昔何かのセールで買ったまま放置していた中島らもの『今夜、すべてのバーで』が目に留まった。いまやすっかり酒客としての生活からは遠ざかってしまったけれど、今夜の気分にはちょうどいい。

読み始めてすぐに、アルコール依存症で特別病棟に入院している主人公(中島らも)の年齢が三十五歳だと知り、思わず腰を抜かした。こいつ僕より若いのかよ。

以前この本を読んだのは、確か中学生か高校生の頃だ。少なくとも僕がまだ酒の味を知らなかった頃のはずで、恐らく二十年以上も前のことだと思う。当時は「とんでもなく破天荒なオッサンの話」として面白がっていたはずなのに、今や「まだ若いのに、こんなところまでいってしまったのか……」と、作中に登場する医師や看護士たちと全く同じ目線で痛々しく感慨に耽ってしまった。歳を重ねるにつれ、この手の不意打ちを食らうことが多い。

新宿バルト9で、アンナとエリアルと『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観てきた。台湾から観光に来ているエリアルは、四日前に台湾で翻訳版を観ており、早くも二回目の鑑賞だという。狂気。

(新宿、めちゃくちゃ上映してた)


映画の内容は完全に原作通り。うさぎのラップパートがアニメーションならではの表現で手厚く作り込まれていたのがよかった。観ていて気持ちよかった。

物語について。これは漫画を読んでいたときも思ったのだけれど、ちいかわが身内の不正義を見逃してしまうのを「優しい心」や「物分かりのいい態度」として描くのは、いかにも閉鎖的な村社会の醜悪さを表しているように思う。

人魚を食べた真犯人がヒトハとフタバであるという決定的な真相を掴んでおきながら、ちいかわはそれを明るみに出さず、事実を隠蔽して黙り込む。そしてあろうことか、犯人を差し出せと迫るセイレーンをみんなで攻撃して追い払い(その過程で身内は連帯・結束し)、「めでたしめでたし」と一件落着にしてしまう。

「自分たちの身内の空気や関係性を守ること」を最優先し、波風を立てない保身や隠蔽が、いつの間にか「優しさ」へとすり替わっていく。そしてそれをノスタルジックな音楽と美しい情景で包み込んでなんとなくいいかんじにして癒やしてしまうのは、なかなかにグロテスクじゃないか。


少し視点を変えて? もう一つ。

救いのない過酷な世界の中に愛くるしいキャラクターを放り込んで、その報われない生き様や困惑する姿を眺めて喜んでしまうのは、間違いなく嗜虐的な快楽の一つだ。「ちいかわ」という作品が、人間のそういう「可愛いものが困っている姿を見たい」という加害欲求、いわゆる「キュートアグレッション」を巧みに刺激してくるコンテンツであることは、あまり疑いの余地がないと思う。(この「嗜虐的な快楽」と、日々の理不尽な労働に耐える自分自身をちいかわ達に見立てて宥める「自傷的なケア」の奇妙な共存こそが「ちいかわ」という作品の最大の特徴。)

気にかかるのは、これを「深い話だ」「考えさせられる」と大真面目に頷き合っている世間の空気感だ。自分たちが俗な欲望(ポルノ)を消費しているという事実から、無意識に目を背けているように見える。これは、AVを観てシコっているだけなのに、そのシナリオや演出に難解な解釈を持ち出して「これは人間の生々しい本質に迫った芸術作品だ」などと語ったりすることで己の欲望を公然化しようとする(僕がよくやっていることです)心理に似ていると思う。

別に、ちいかわを深イイ話だとほめそやすのも、AVを芸術として捉えるのも個人の自由だし、それ自体を否定するつもりはないのだけれど、ただ、本質的にはかなり生臭くていやらしい人間の欲求に根ざしたポルノ的な消費だよね、というところは確認しておきたい。それをみんなして哲学的な寓話としてありがたがっている光景はちょっと不気味じゃないかいと思っているのだけど、どうだろう。

NiEW のオフィスで打ち合わせをした後、そのまま会議室を借りて作業させてもらっていると、柴田さんがかわいい漫画を持ってきてくれた。

『別冊よすみ(第二集)』


『別冊よすみ』は、SORAJIMA という出版社の中に作られた漫画編集部「よすみ」が発行している紙の作品集だ。

パラパラとページをめくってみると、そこに載っていたのはいわゆる典型的な商業漫画の形式からは少し浮いた、なんともいえない人間の「分かりづらさ」や生活のざらつきをそのまま残したような作品ばかりだった。漫画家だけではなく、歌人やエッセイスト、劇作家といった人たちが、カルチャーの境目を軽々越境してきたようなかんじでコラムや短歌を寄せていたりする。

世の中のあらゆるものが「わかりやすさ」にどんどん回収されていく中で、こういう不器用なものに触れると、無性に頼もしく、愛おしく、救われるような気持ちになる。

その後、柴田さんに身の上話なものを聞いてもらったりしたのだけど、そういった雑談も含めて、今日は救われるような時間が多かったと思う。つまりめちゃくちゃいい一日だった。


29歳の「よすみ」編集長インタビュー 演劇、批評畑から漫画編集部を立ち上げた意思(NiIEW)

ABCラジオ「こたけ正義感の聞けば無罪」を聴いていたら、ゲストに大島育宙が出ていて、自著『なぜあなたの感想はふつうなのか 独自の視点で語る技術』について喋っていた。

大島が言うには「感想を話す」というのは別に映画や小説といった話題に限った話ではないらしい。友達とご飯を食べに行ったときとか、誰かからちょっとしたお土産をもらったときのような場面での会話のことも想定しているのだという。そういうコミュニケーションにおいて「感想を話す技術」をどんどん活用していってほしい、感想を語る術がないと人間は「悪口か謙遜に逃げてしまうから」と話していた。この本に何が書かれているのか知らないが、この指摘についてはマジでその通りだなと思い、というか思い当たる節がありすぎて、皿洗いの手を止めてしまった。そして流れるような手つきで当該書籍をポチった。


「感想」といえば、今日青木宏治さんの ZINE 『Open Be-in 運動』を読んでいて、いいなと思う一節を見つけた。

表現はよき受け手がいるところでのみ、育つ。制作者としてやりたいことはなくても、美術を愛するもの達は多くいるだろう。良き受け手になろう。ここがいいとか悪いとか偉そうに話すのもそれはそれで一興だが、それよりもむしろ、見たままのプロセスをそのまま伝えてあげると、きっと作家の何かの役に立つだろう。最初は何がなんだか分からなかった、とか、ここに注目して見て、こんな風に感じ、解釈した、とか。作家の意図とは正反対に解釈している場合でも、何の問題もない。作家は伝え方について反省をするだろうから。電子メールでのアンケートにおいて、作家から返信が返って来ると、鑑賞者は見落としていた部分の指摘を受けたりできて、互いにとって有益。ただし、アートは生易しいものではないため、作品や感想の交流の中で互いが互いを深く傷つけあう場合もある。ネガティブな印象を作品から受けた場合のアンケート実践はどうするべきか。罵詈雑言飛ばしたいのだが、ぐっとこらえたまま、いまだ答えは見つからない。良き受け手への道は険しい。とはいえ、没交渉の死んだ沈黙こそが、文化振興にとっての最大の敵。この認識からはじめよう。

「ここがいいとか悪いとか偉そうに話すのもそれはそれで一興だが、それよりもむしろ、見たままのプロセスをそのまま伝えてあげる」というのが、最近の僕に対する大きな指南のように思えた。

ここ数日僕は Chooning にフジロックの感想を書きかけて止まっていたり、最近見た映画だと『FUJIKO』や『急に具合が悪くなる』『海辺の一日』あたりについても書きたいと思いつつ、しかしなかなか書き出せずにいた。が、「見たままのプロセスをそのまま伝えるように書く」と想像したとき、ああなんかスルスル書けそうだなという気がしたのだ。

明日からスルスル書くぞ、書くぞ。

夜、高円寺駅北口のロータリーに「フリー哲学」と書かれた看板を出してる男性がいた。

彼の前には小太りの明らかな酔っ払いのオッチャンが立っていて、フリー哲学の人はそのオッチャンの話に大きく頷きながらめちゃくちゃ丁寧に話を聞いているようだった。というか、フリー哲学などと書いてあるからそれは辛うじて「傾聴の姿勢」に見えたものの、看板がなければ気のよさそうな人が酔っ払いに絡まれているようにしか見えなかっただろう。

看板の脇には「自由に読んでください」的な本が並べられており、覗き込んでみると、少し気になっていた本屋メガホンの『ケアをクィアする』が置かれていた。僕は酔っ払いに絡まれないように細心の注意を払いながらにじり寄っていき「これ、読んでいいすか」と声をかけてみたのだった。が、なんやかんやあって気づけば酔っ払いのおっちゃんも含めて僕たち三人は一時間もその場で話し込んでしまった。


別れ際、フリー哲学の人こと青木さんから『Open Be-in 運動』と題された ZINE をもらった。そしていま向かいのデニーズに入り、ドリンクを飲みながらページをめくっているのだが、ちょっとその内容に圧倒されてしまっている。

ここに書かれているのは、青木さんがなぜ路上に立ち「フリー哲学」なんてものを始めるに至ったのかという、剥き出しで切実な生の告白だ。

43歳、非正規雇用の極貧生活、孤独。中年になってアートを商品として売る才能もなく、かといって趣味と割り切ることもできない。葛藤の果てに青木さんが行き着いたのは、表現活動を「政治化=社会運動化」することだった。そうして表現という行為そのものを社会の中に無理やりにでも位置づけ、この生きづらい世界で己のアートを生き残らせるための試みを行なっているのだという。

かつてブルーハーツの狂おしいステージやビート文学に救われた青木さんにとって、表現とは個人の最も奥深い部分を曝け出す「切実な自己解放」そのものだった。けれど、今の社会には本当の自分を開示し、本音を受け止めてもらえる場が圧倒的に足りない。だからこそ、青木さんは自分の足で路上に立ち続けたり、こうした ZINE を作ったりしている。

ページには、青木さんが日常のあらゆる隙間に仕掛けようとしている、驚くほど具体的で泥臭い実践のアイデアがびっしりと並んでいる。それらはどれも、効率や生産性を求める社会の中で孤独に押し込められ、声を失ってしまった人々の「存在」と「声」を取り戻すための切実な抵抗の希望のように見えた。

数日前に唯我くんから送られてきた PK shampoo のブログを何度も読み返してしまう。文章の勢いがいい。雑に書かれているようだが、引き込まれ、読ませられる。特に後半の思考の反芻をそのまま垂れ流しているようなところが好きだ。

https://pkshampoo.jp/%e4%b8%83%e6%9c%88/

俺は昔、家に居場所がなくて学校も大嫌いで、気質的に欲しいものも買いたいものも全然ないタイプだから働くことにも絶望的に向いてない自分にほとほと嫌気がさしてたけど、頼んでもないのに私はあなたの味方だよ、学校なんて辛かったら行かなくてもいいんだよ、みたいことを言いながら猫撫で声で擦り寄ってくるタレントやミュージシャンには絶対感化されたくなかったし、だからどんなにクソな人間関係や教育制度の荒波に飲まれようと真っ向から学校を卒業して絶対に社会に迷惑をかけてやるぞと目を閉じ耳を塞ぎ息を止めながら青春時代を早足で歩き抜けたのだが、このバンドはやっぱりその先というか道中で、つまりはどうしようもない大学生活の中で偶然出会った俺以上にバカな奴らとの縁で出来上がったものだし、アレは嫌だ!コレは失敗だ!とかgdgd言いながらでもとにかく続けてたらやっぱりその先というか道中で何か素晴らしいものに出会えるかもなあ、なんてことをぼんやり期待したりもする。まぁ実際にはこの先おもしろいことなんて何一つなくて、サルに当たりの確率下がっていくボタンを押させまくる実験みたいな状態に陥ってるのかもしれないし、さっさと関西戻ってレコードかけれるBARでもやりてえなあ、と三日に一回くらいは思うけど、それでも月に一回くらいは、たとえば今回のZepp DiverCityの時なんかは、やっぱり続けてて良かったなあと思ったりするものだ。

最近、食べかけの食事の写真ばかり撮っている。

食べる者にとって、食事のピークは決して盛り付けられた瞬間ではない。そこから食べ進め、形が崩れていくプロセスこそが行為の核心なのだから、そこを写真に残す方がおもしろいな、と気づいたのだった。

食べかけの皿を眺めていると、誰かがそこにいて、空腹を満たすような幸せな時間を過ごしたことが想像できる。それがとてもいい。

熊本地震の件で、台湾や韓国の友人たちから安否確認の連絡が届く。

「熊本と東京は900キロ近く離れているから」と説明しようとしたが、外国から僕の身を案じてくれた連絡に対してそれはなんだか無粋な気もしたので「I'm safe!」とだけ返していく。

熊本で震度7の地震。料理部の後輩で、湯前町に住むさっちゃんに連絡をする。

湯前は震度5弱だったが、少なくともさっちゃんの周りでは被害はほぼなく、電気ガス水道などのインフラも通ってるので、逼迫した事態ではないとのこと。高速道路が壊れてしまって通行止めになっているようなので、今後の物流が少し心配ではあるものの、ひとまず安心してくださいとのこと。

作家・東野圭吾が亡くなった。

TikTok の画面をスクロールしていると、一本の動画が流れてきた。菊池寛賞の贈呈式での一幕だった。

壇上の東野が、伊集院静から掛けられた言葉を振り返る。

「あんたと選考やるの楽しかったんだよ。だってあんたさ、話しているうちに意見変えるもんな。だから話しがいがあるんだよ。他の連中はさ、マルったらマルのままだろう。バツったらバツのままだろう。でもあんたはさ、マルが急にバツになったり、バツがマルになったりするからな。それがいいんだ。話しがいがあるんだ。」

そのエピソードを引きながら、東野は次のように語った。

「大変嬉しかったです。なぜならそんな風にコロコロ意見や考えを変えるのは私の得意技だからです。日本は政治家を筆頭にいったん言い出したら意見を変えちゃいけない。考えを変えたら恥だというような雰囲気があるような気がします。そんなことはないです。原発を勉強して危ないなと思ったら賛成から反対に転じて大いに結構じゃないですか。いくらでも意見変えて、そうしないと、話し合いって進まないじゃないですか。」

最後に、こう言葉を結ぶ。

「人間は変わったほうがドラマチックです。そうやって肩の力を抜いてどんどん変化して生きていきましょう。」

昨日書いたブログを読んだ友人から、「Onga9」を作っているのはてけしゅんだよ、というLINEがあった。つよすぎる。勘弁してくれ。

メールをチェックしていたら、「yoyn」のアップデート情報が届いていて、レビュー機能(星をつけるやつ)がなくても投稿できるようにしました!と書かれていた。ちょ……それはまったくシッカリ競合しますやん。また、お金を払ってサービスを支えるサポーター機能もリリースしたとのこと。これはまさに今作っているChooningのリニューアル版に実装していた機能で、完全に先を越されている。

もともと、ビジョンに「yoynは、音楽をただ消費するだけでなく、聴き終えた後の『余韻』を言葉にして共有するための場所です」と書かれていたので、根本にある思いはChooningと近いんだろうなと思っていた。そしてそれは批評とかレビューとは相性が悪いんじゃないかなあと思っていたのだけど、恐ろしいスピードでアプローチを修正してきている。

唯我くんからのLINEで、「yoyn」 というサービスがリリースされていることを教えてもらう。日本版Rate Your Musicを目指すプロジェクトらしい。おそらく、ここ数ヶ月の音楽と批評に関する議論の延長で生まれたものなのだろう。Chooningは批評的なコンテンツを主眼に置いたものではないけれど、そういう目的でChooningを使っている人はいるだろうし、競合するところがある。

「yoyn」についてググっていたら、ほぼ同じ時期(同日?)に「Onga9」というサービスが出ているのを見つけた。こっちについては結構モロにChooningと競合している。うーむ。

これまで競合が出てきてもあまり焦るようなことはなかったのだけど、「yoyn」も「Onga9」も出来がよくて普通に焦る。たぶんエンジニアとかデザイナーの手によるものではないと思うんだけど、しかし十分にモノがいい。これがAI時代か。

いまインスタ見てたら「chelmico活動停止」って投稿が表示されて「え!?」と思った瞬間にアプリが落ちて眼の前が真っ暗になった感がすごかった

Cursorへの課金が、いよいよもって止まらない。

これまでは、月額60ドルの「Pro+」プランをベースに、足りなくなったら都度払いするという小市民的スタイルで凌いできた。しかし、現実は非情である。10ドル、また10ドルと積み重なる課金も、AIの計算資源の前では焼け石に水であった。そして今日、今週四度目となる「You've hit your usage limit」のアラートが画面に表示されたとき、嗚呼、これが年貢の納め時というものか、と僕は静かにまぶたを閉じ、「Ultra」プランへのアップデートボタンを押し込んだのであった。

月額200ドル。 今のレートならざっと32,000円。繰り返すが、毎月である。十年少し前にAdobeが月額課金になったとき、月5,000円という金額で騒いでいたのが懐かしい。デザインツールならまだしも、テキストエディタに毎月三万円を払うことになるなんて、あの頃には考えられなかっただろう。

明日からはもやしを食べてコードを書こうと思う。

数日前、Xのタイムラインに「酒を飲み過ぎたおかげで天皇陛下からレスを頂戴した話」という記事が流れてきた。これがとても面白い文章だったので、すぐにその書き手である長瀬ほのかの『わざわざ書くほどのことだ』という本をポチっておいた。

そして昨日、朝ごはん屋で玉米蛋餅をかじりながら何となく読みはじめたのだが、どのエピソードも面白すぎてそのまま一気に読み終えてしまった。その後、何人かの友人に推薦図書の連絡をすると、さっそく翌日の今日、内野功太郎から「読んだよ」と返信が来た。彼とLINEでやり取りをするうちに考えたことを、ここに書き留めておこうと思う。


僕は、子どもの頃からエッセイが好きだった。自分の読書遍歴を振り返れば、体感ではあるけれど、その半分はエッセイと雑誌で占められているはずだ。(なんと偏った読書体験だろうか。)

十代の頃に好んで読んでいたのは、椎名誠、山口瞳、伊集院静、景山民夫、つかこうへい、といった作家たちだった。こうして並べてみると、圧倒的に「大人の男性」の世界である。それも、組織や社会の枠からはみ出したところで、自分なりの美学や勝手さを貫いて生きているような、いわば無頼派的な空気に惹かれていたのだと思う。女性作家といえば、群ようこや西原理恵子(これは漫画か)を手に取るくらいだった。これもほぼ似たようなものである。

それが、どういうわけか三十歳を過ぎたあたりから、同世代の女性作家が書くものを積極的に読むようになった。最近の僕が好んで手に取るのは、藤岡みなみや小原晩といった作家たちの言葉だ。

藤岡みなみは僕の一つ上の年齢で、まさに同世代である。彼女が大学時代に出演していた『キャンパスナイトフジ』も観ていたので、あの時代の空気の中で一緒に大学生をやっていた人なのだ、という印象も強い。小原晩は僕より七つ下だから、「同世代」と呼ぶには少し離れているかもしれないが、まあいいだろう。少なくともその筆致に触れたとき、僕の中では同じ時代を歩いている感覚が確かにある。

今回読んだ長瀬ほのかも、年齢は僕の一つ上だった。本の中に出てくる話も、『どうぶつ奇想天外!』や公文の思い出、セーラームーンの人形の話など、まさに自分と同じ景色を見ながら生きてきたことが分かるエピソードばかりだった。


さて、どうして僕はこういった作家たちの言葉を好むようになったのか。その理由は、僕が彼女たちの文章の中に、もう疎遠になってしまった女友達の息づかいを感じているからではないかと思う。

高校、大学、あるいは二十代にかけて、深夜のファミレスでドリンクバーをおかわりしながら、あるいは大学近くの誰かの家で甲類の焼酎とコンビニのワインを飲みながら、一晩中話し合った友人たち。人間関係の悩み、不透明な進路、恋人のこと、無限にも思える選択肢の中から何を選び取るかという、あてのない思索。価値観というにはあまりに未完成な、お互いの自意識を差し出し合うような時間を共にした友人たち。

いつの間にか、彼女たちは結婚したり、母になったりして、僕とは日常的には交わらない時間を生きている。あんなに言葉を交わしていたのに、夜通し膝を突き合わせて話す機会なんて、もう永遠に訪れないのだろう。そこに切実な喪失感があるわけではないけれど、ふとした瞬間に、あの時間が実はどれほど贅沢で尊いものだったかを噛み締めてしまうことがある。

藤岡みなみや小原晩、そして長瀬ほのかのエッセイを読んでいると、「もし、いま三十六歳になった僕たちがあの頃のような時間を過ごしたなら、きっとこんな話をするんだろうな」と思えてくるのだ。

他人から見れば取るに足らない、けれど自分にとっては切実な出来事。その「ままならなさ」を、彼女たちはそれぞれの感覚で丁寧に言葉に変えていく。その世界の切り取り方に触れていると、まるであの頃の友人たちが、いま目の前でとりとめもない話をしてくれているかのような気持ちになる。そんな再会にも似た感覚が、いまの僕にはちょうどいいやすらぎになっているのだと思う。

台湾に来てから一週間。身体にいくつかの変化が現れはじめている。

【主な症状】

  • 指先のささくれ(3日目 夜〜)

  • 頭皮の乾燥と痒み(4日目 朝〜)

  • 顔にニキビ(5日目 朝〜)

【考えらえる原因】

食生活の変化。生野菜不足と油の過剰摂取が顕著だ。小吃店を中心の食生活をしているのだが、毎朝の蛋餅に加え、ここ三日は麻油鶏を連投している(うめえ)。さらに、街を歩けば香りに誘われ、衝動的に買い食いをしてしまう。栄養バランスだけでなく、食事のタイミングが崩れているのもよくないのかもしれない。口腔内のpHが酸性に傾いている時間も増えているので、歯の健康にも影響があると思う。

ビタミン剤を飲んでいない。日本では毎日飲んでいたのだが、持参し忘れた。そもそも気休め程度と思ってナメていたのだが、実は結構効果があったのかもしれない。ファンケルよ申し訳ない。台北で似たようなものを探してみよう。

湯船に入らない。これは大きい気がする。かつて僕はシャワーのみの生活をしていて、その頃は肌トラブルが多かったのだが、高円寺へ引っ越して近所の銭湯に通うようになり、肌質が劇的に改善した。台湾に来て再び湯船に浸かる習慣が失われた途端にこれである。お肌はデリケートだ。

やや睡眠不足。就寝時間は日本にいる時と変わらないが、仕事の開始を日本の同僚に合わせるため、時差の関係で起床が1時間早まっている。5時間睡眠が4時間になるのは、わずか1時間の差とはいえ20%の減少だ。また、この一年ほど習慣化していた昼食後30分程度の睡眠が、いろいろあってこの一週間は取れていない。そして、食後に茶を飲む習慣があり、その量が日本より圧倒的に多い。カフェインの過剰摂取のせいか、寝付きが悪いような気がする。

最近、ユーシュエンの家の近くに「罕多咖啡」という理想的なカフェを発見した。夜ご飯を食べ終わった20時くらいから閉店時間の23時半まで、ここで作業するのが日課になっている。

これまで、夜の府中駅付近でWi-Fiと電源を確保しようと思うと、選択肢はスターバックス一択だった。しかし、この辺りのスタバは21時に閉まってしまう。作業が勢いに乗ってきたところで追い出されてしまうことが多々あり、かといってその時間から台北市内に移動するのも億劫で、仕方なくユーシュエンの家に戻って回線の細いテザリングで作業をしていた。

そんな折、偶然通りがかった道で見つけたのがこの「罕多咖啡」だった。

広々とした座席に安定したWi-Fiと電源があり、作業環境としては申し分ない。スタッフの対応もつかず離れずで心地よく、行き交う客層もどこか洗練されていて、なんだか全体的に漂う空気感が心地いい。

そんな店内の上質な空気に当てられ、今夜の僕は「テラス席でMacBookを広げる外国人デザイナー」という役柄を担うことにしたのだが、これが大間違いであった。

この辺りは今日、真冬だというのに日中の最高気温が27度を記録した。どうやら、近所のボウフラたちが一斉に孵化の時を迎えたらしい。オシャレな外国人デザイナーも、産声をあげたばかりの彼らにとってはただの肉である。ふと見渡すと、店内は満席。テラス席で悦に浸っているのは、僕一人だった。

逃げ場を失った僕は、この新しい命の強烈な生への執着を、いま全身で受け止めている。

UboatとのLINE。昨夜書いた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の感想文を推敲して送る。やりとりの中で、やはり話題に上ったのは後半の大味な展開についてだ。Uboatから、「ヘイル・メアリー」がアメフト用語で「起死回生を狙ったダメ元のロングパス」を指すと教わる。


浅井とのLINE。育児に励む父親の気苦労が聞けて楽しい。僕の友人は世代的な影響もあってか、主体的に育児に関わる男性が多いが、その中でも浅井は、日々の迷いを切り捨てず、一つひとつをすくい上げて言葉に定着させる力がずば抜けている。生身の当事者として悩み、思考し続ける言葉には瑞々しさがある。


内野功太郎とのLINE。やりとりによって、Chooningを運営する中で考えているメディア論や収益モデルの採用理由を言葉にすることができた。広告モデルを採用するというプラットフォームの選択が、SNSを他者評価やバズへの渇望へと誘導し、純粋な音楽体験の言語化を阻害しているという問題意識。そして、そのゲームルールから脱却するために、主な収益源をメンバーシップモデルとし、プラットフォームはその期待に応えるという関係性の中で言論空間を統治するべき、など。

Uboatに薦められてた、アンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読み終えた。

台湾に来る飛行機の中で読みはじめて、この二日間は作業の合間(=AIがプロンプトに従ってコードを吐いている待ち時間)にちょこちょこ読み進めていたのだが、今朝下巻に入ってから急激に面白くなって止められなくなってしまった。

仕事をするつもりで四十分かけて中山のカフェまで出てきたのに、結局一度もパソコンを開くことなく閉店時間を迎えた。本を読んでいるだけだったら家にいてもよかったし、もっといえば日本にいたままでもいいとすらいえる。まあそれは野暮か。「台湾にいるからやれること」を選んでやろうとするよりも、どこでもできることを、その場所でやるということに豊かさがあるのかもしれない(適当)

一月の台北は、冬であることを忘れたような強い陽射しがアスファルトを焼いている。日本の寒さから逃げてきた僕は、その気候に包まれる幸せを感じながら、ぼうっとバスを待っていた。

「おーい、そこのお兄ちゃん!」

不意に大きな声で呼びかけられた。声の主は、僕の目の前に滑り込んできた別のバスに乗り込もうとしている老婆だった。彼女の指は、彼女が買い込んだであろう荷物が縛り付けられたキャリーカートを指さしている。

早口の中国語はよく聞き取れなかったが、「帮我(=手伝って!)」というフレーズが聞こえたので、コイツをバスに運び込むのを手伝ってくれ、と言っているのだと理解する。

僕は慌てて駆け寄り、「よっこらせ」とその重荷を抱えてバスのステップを上がった。老婆が何かを早口で言う。僕が聞き取れず、すみません、もう少しゆっくり話してください、と言おうとしたとき、背後で「プシュー」という音がして、ドアが閉まってしまった。

「おいおいおい、状況を見てなかったのか? 僕が乗客なわけないだろ!?」

と思ったが、台北のバス運転手にそんな文句を言っても無駄だ。そもそも、僕にはそんなことを言える語学力もない。苦し紛れに心中で毒づいていると、バスが荒々しく動きはじめた。

台北において、最もイラついている人種はバス運転手だといわれている。彼らにとって、乗客を運ぶという行為は決して交通サービスではない。「運送業」とか「物流」といった方がしっくりくる。彼らは僕たちを乗客としてではなく、ただ効率よく運搬されるべきジャガイモか何かだと思っている節がある。

僕は諦めてポケットから悠遊カードを取り出し、精算機にタッチする。「上車!」と機械が無邪気な音声で応答し、僕が意図せぬ運命に乗り込んだことを告げた。電光掲示板を見上げると、初めて目にする停留所の名前が表示されている。どうやら知らない路線に乗ってしまったようだ。

腰のあたりで、先ほどの老婆が申し訳なさそうに何かをまくしたてている。

「あんた、本当は乗るつもりじゃなかったんだろう? 大丈夫かい?」おそらく、そんな意味のことを言っているのだろう。

僕は咄嗟に、「不會不會!」と返し、精一杯のスマイルを送った。

この言葉は、「ええねんええねん!」という感じのフレーズだが、この場面で使うべきものなのかどうかは怪しかった。それでも、彼女が何度も「謝謝、謝謝」と頭を下げる様子を見て、こちらの意思は伝わったのだと理解した。


バスはアトラクションのような激しい揺れを伴いながら、台北の街を駆けていく。

次の停留所で降りるのが賢明だが、特段急ぐ用事もない。もともと、どこか適当なカフェに行って仕事をしようと思っていただけだった。このまま予定を外れた勢いを活かし、雰囲気のよさそうな場所で降りてみるのも悪くない。

そう切り替えて車内を見渡すと、後方の座席に空席を見つけた。僕は老婆に軽く会釈をしてから、その席へと移動し、腰を下ろした。

最後方の座席から車内を眺めると、乗客たちは僕と老婆のやりとりなどまるで見ていなかったかのように、各々の世界に没入していた。

先ほどの老婆を見ると、すぐ近くに優先席が空いているにもかかわらず、金属製の柱を掴んで立ち続けていた。カートを必死に支えながら、猛烈な揺れに耐えている。

その背中を見ていて、ふと、七十代になった父が「電車で席を譲られることがあるけれど、この歳になると座ったり立ったりするのが億劫で、いっそ立っている方が楽なんだ」と話していたことを思い出した。


そういえば、横須賀に住む両親も数年前に車を手放し、今はバスに乗って日用品の買い出しに出かけているという話を聞いた。

もしかして、彼らもまた、あのような使い込まれたカートを引いて、スーパーに通っているのだろうか。そして、バスの段差を前に、重たい根菜や洗剤が詰まったカートを持ち上げようと苦労することがあるのだろうか。

田舎育ちで誰彼構わず話しかけるような父はさておき、他人の世話になることを極端に恐縮する母が、この台北の老婆のように、見知らぬ若者に助けを求める姿は想像がつかない。

窓の外を眺めると、色褪せた看板がひしめき合い、排気ガスに燻されたスクーターの群れが猛スピードでバスを追い抜いていく。紛れもない異国の景色だ。横須賀から遠く離れた街の激しく揺れるバスの最後尾で、見知らぬ老婆に親の姿を重ねているのは、なんだか不思議な気がした。


ガツン!と車体が跳ね上がり、頭を窓にぶつけそうになる。現実に引き戻された僕の視線の先では、老婆が依然として、何事もなかったかのように、バスの荒い揺れに耐えていた。

ふと、ああ、そうか、さっきの場面では「不會」ではなく「没事」と言えばよかったんだ、と気がついた。

とあるプロジェクトの打ち合わせで、「AI生成の画面デザインって、どうしてAIっぽく感じるんですかね?」と聞かれた。これは、プロダクトデザインに関わる人たちにとっては、結構いい酒のつまみになる話だと思う。


デザイナーである僕の感覚的な話になるが(専門外の人が同じ違和感を抱くかどうかは分からないが)よく感じるのは、「ただ、結果だけが立ち上がって見える」という、妙な手触りのことだと思う。

僕は、アプリケーションやWebサービスの画面を見たときに、制作者がどんな順序で考え、何を解こうとしていたのかを想像することができる。あるいは、どこがまだ詰めきれていないのか、どこで思考が止まっているかも、それなりに見抜くことができる。こだわりを感じるところや、迷いのあるところは触れば分かるし、そこに制作のプロセスが痕跡として残っているからだ。

人間のデザイナーはたいてい、何を作るのか、どう使われるのか、情報や構造はどうあるべきか、といった低いレベルの問いから順番に積み上げていく。その結果として、画面全体に一貫した思想がにじむのだが、AIが生成した画面は、第一印象はいかにもいい出来に見えるものの(余白や配色、コンポーネント単体の完成度は高い)しばらく眺めていると、この画面で何をしてほしいのか、この情報はなぜこのように置かれているのか、といった根本的な意図が不明瞭であることに気づく。

単に設計が甘い、という感じとも少し違う。人間が考えきれなかったときのような、迷いの跡がなく、判断の来歴が見えない。どこか空洞を覗き込んでいるような感触だ。


言葉にしていて気づいたが、これは「AIっぽさ」というより、「素人がAIを使って作った感じ」のことを言っているのだと思う。

デザイナーがAIを使う場合は、基礎的な設計や前提をAIとの対話の中で詰め、それを共有したうえで生成させる。そうすると、この種の空洞感はかなり薄れていく。(実際、去年の夏頃から僕が作ったものは、ほとんどそうやって作られている。)

また、「AIっぽいかどうか」は本質的な問題ではない。重要なのは、使いやすいかどうかであり、利用者にとっては制作の方法や背景よりも、目の前の体験がすべてである。利用者が支障なく使えるのであれば、専門家の目に「AIっぽさ」が映ったとしても、ひとまず問題視するべきではないだろう。

だから、僕が「AIっぽさ」を気にしているのは、そこに「使いづらさ」があるからだ。まず「使いづらさ」が先にあって、その使いづらさの原因を専門家として見たときに「これはAI生成に起因しているな」と分かってしまうために、「うーん、いかにもAIぽいですねえ」などと口走ってしまっているに過ぎない。

これは自戒も込めて書いておくのだけど、決して「AIっぽさ」そのものを問題視したいわけではないので、AI生成物をレビューするシチュエーションにおいては、それがどんなAIでどう生成されたか……といった話題にうつつを抜かさず、可及的すみやかに話題の中心を「使いづらさ」とその解決方法に移行するよう努めていきたい。

ここ数日、僕のこのブログが閲覧できない状態が続いていたようだ。

原因は、Netlifyで契約しているクレジット量(1,000クレジット)が上限に達してしまったことで、「クレジットを追加しない限りサイトは停止したままです」という通知が届いていた。なんてこった。

管理画面のCredit usage breakdownを確認すると、Production deploysで1,470クレジットを消費している。つまり、ほぼすべてがデプロイ由来の消費ということになる。1回のデプロイにつき、本番ビルド+本番CDNへの反映+メタデータ処理が走り、約15クレジットが使われている計算だ。

昨年11月にCMSをContentfulへ移行したことで、更新回数が増えたのが大きな要因だろう。Contentfulはエントリーを保存するたびにWebhookを飛ばし、Netlifyはそれを検知するたびに自動でデプロイを実行する。それが記事の微修正であっても例外ではない。

言葉を少し直すたびに15クレジットが消費されていたと考えると、これはなかなかに大ごとだ。推敲しやすい環境を手に入れたと思ったら、同時に課金が加速しやすい構造を作ってしまっていた。今さらながら、CMS × Netlifyというのはかなりマズい組み合わせであることに気がついた。

対策としてデプロイを手動に切り替える方法も考えられるが、それでは問題を解決する代わりに利便性を手放すことになる。NetlifyをやめてCloudflare Pagesを使うのがよさそうに思えるが(確か公式にHugo対応していたはず?)今度詳しく調べてみよう。

『葬送のフリーレン』アニメ2期のOPが出た。Mrs. GREEN APPLEの『lulu.』という曲なのだが、これがめちゃくちゃいい。痺れた。

これまで僕はミセスについて、「流行っているがよくわからん」という感想で、ミセスが好きだという友人に対しても釣れない態度を取っていたと思うが、本当に申し訳なかった。これを聴いて海よりも深く反省した。許してくれ。

一般論として「ミセスはタイアップ曲がよいのだ」という説はよく聞くし、年末の団地忘年会でもTaiTanが「ミセスは原作解釈力が高い」という評を述べていた(確かTaiTanだった気がする。違ったらごめんなさい)。今回、その言葉の意味がようくわかった。

1番ではフリーレンの人生観に決定的な影響を与えた勇者ヒンメルの冒険に対する価値観が歌われ、それが2番にかけて遺されたフリーレンの心情へとシームレスに続いていく。サビとして繰り返される「帰りたい場所がある」というフレーズは、立場が違う二人に共鳴する心情であり、この言葉が楽曲全体を貫くことで、二人の想いの重なりを表現する構造になっている。

『葬送のフリーレン』の物語構造は、ヒンメルにとっての「残す」という行為と、フリーレンにとっての「残ってしまう」という経験の非対称性にある。ヒンメルにとってはすでに確信として獲得されていたものが、フリーレンにとっては時間を経て初めて感情として立ち上がる。作中ではこのズレが繰り返し描かれてきた。このOPは、その構造を単にそのまま持ってくるのではなく、楽曲という異なる形式の中で再構成することができている。(単に物語のあらすじを要約して歌っただけのYOASOBI『勇者』とは大違いだ。)

もちろん、歌詞だけでなく楽曲もいい。アニメOPというよりむしろEDを思わせるようなトーンなのだが、それがなかなかハマっていると感じた。こういう本来物語の余韻を受け止めるための楽曲をあえてOPに持ち込むという方法は、ことフリーレンに関しては作品性と噛み合っていてとてもいいと思う。

ここ数日、Cursorを使ったコーディングでFlutterプロジェクトを作っているのだけど、AIを使ったコーディングの一番の恩恵は、実装と同時にドキュメントを整えていけることだと感じている。

デザイナーの頭には、実装している最中に「このコンポーネントはこういうオプションで構成されているなあ」ということが浮かぶ。例えば、スナックバーだと、(1)色:通常とエラーの2種類 (2)メッセージ:文字列 (3)サブメッセージ:文字列(なければ非表示) (4)アイコン:ファイル(なければ非表示) (5)ボタンの有無:boolean (6)ボタンのラベル:文字列 といった具合だ。

これまでだと、「うーん、あとでFigmaにまとめておくか……」と思って終わっていたのだけど、AIがあるとこういうことをポンポン喋って(音声入力して)まとめてくれというだけで仕様書に仕上げてくれる。なんなら実装も整えてくれる。まじ便利。実装でその通りになっていない箇所を見つけるのも簡単。

あと、 doc/spec/ 以下に snackbar card button tab みたいなフォルダを用意して、それぞれに spec (コンポーネントの仕様)と usage-list (どこでどう使ってるか)というファイルを作っている。( usage-list があるとデザイナーの設計作業はとてもやりやすくなる。デザインの調整はプロダクトの中の相対的な関係や、影響範囲を見渡しながら行っていくため。)

ドキュメントの保守は、コード側に「ここを変えたら、このドキュメントを更新すること」とマーキングしておくことで、AIがコード編集時に自動的に検知できる。

濱口竜介、三宅唱、三浦哲哉の特別鼎談「驚きはいたる所に──『旅と日々』をめぐって」を読んだ。まだ『旅と日々』を観ていない状態でこの鼎談を覗いてしまったのだけれど、作品の内容を知ったというより、それぞれが「どうやって世界を見ようとしているのか」を知ったような感じがした。

鼎談では、物語の筋立てやテーマそのものよりも、光の入り方や、偶然写り込んだ風景、カット同士の照応といった話が何度も出てくる。何かを強く説明するというより、現場で出会ったものや、あとから意味を帯びてきた画面同士の関係性を言葉にしているのが印象的だ。

濱口竜介の『悪は存在しない』を観たときにも思ったのだが、このタイプの作品は、「何が起きるのか」よりも、鑑賞者が映像を通じて「何に気づくのか」に楽しみの中心がある。作り手の意図やメッセージがあったとしても、必ずしもそれを最も重要なものとして持ち帰る必要はない。というか、それが読み取れなくてもいいのだと思う。東浩紀的にいえば、誤配可能性の高い作品ということになるだろうか。鼎談のやりとりからも、意味が一つに回収されることを前提にせず、光や風景やカットの連なりが、別の場所に、別の仕方で届いてしまう余地を残している。正しく理解されることよりも、少しずれて届くこと、思いがけないところに引っかかることを許している感じがある。

12月18日から施行された「スマホ新法(スマートフォンにおいて利用される特定ソフトウェアに係る競争の促進に関する法律)」に関して調べていた。

ちょうど Chooning でもユーザー課金を検討しているのだけど、僕は Apple や Google に決済を任せるということも引き続き有力な選択肢だと思う。プラットフォームの決済手段を使わないとなると、自前で決済体制を構築することになるが、Stripe なり GMO なりを使うとしてもそれなりの開発工数がかかる。Apple / Google ほどではないにせよ、決済プラットフォームの手数料は発生するし、ユーザーに新たに決済手段を登録してもらうことのハードルもあると思う。

Apple / Google の手数料は、年間売上が100万ドル以下の小規模事業者であれば 15% だ。あらゆる決済手段に対応していて、カード決済手数料なども吸収してくれてこの手数料というのは、そこまで阿漕なものではないと思う。アプリ外決済は小規模事業者の枠に収まらないフェーズになってから考える、という判断でまず問題ないのではなかろうか。

朝から体調が優れずぐったりとしていた。東京では、コロナ、インフルエンザ、ノロウィルスなどが流行っているので、どこかでもらってしまったか……と滅入った気持ちでいたが、薬を飲んで数時間横になっているとアッサリ回復した。


台灣虎航(タイガーエア)から、クリスマスセールで日台全路線で格安販売を行なっているというメールが届く。この冬、台湾に行くかもしれないと話していた友人たちに転送する。僕が冬に台湾にいることが当たり前のこととして浸透し、年々それに合わせて旅程を組んでくれる友人が増えていく。


夜、新宿の香港屋台「九龍」で、すぐる、Ray、クマガイさんと近況報告。すぐると会うのは5年ぶり、Ray と会うのは半年ぶりだが、二人とも以前会ったときとは違って会社員になっていた。

Rayはポーカープレイヤーとしての活動に一区切りつけてエンジニアに戻ったという。「この10年間ひたすらトランプをやっていました」というのは、就職活動をする上でなかなか厳しく見られるものなのだ、と割と当然に思えるようなことを、ようやく発見した真理のように語っていた。来年5月に韓国・仁川のパラダイスシティに行く予定があると話すと、「全部教えるから任せてくれ」と言われる。友人のこういう言葉は心強い。


数週間のインド出張から帰ってきたばかりのクマガイさんから、現地での小話をいくつか聞く。

イベント会場の施工現場での、インド人スタッフの働き方について。計画性はあまりないが、その日その日の課題を当日中になんとかしようとする力は強い。場当たり的であることの問題は確かに多いが、それでも「なんとか形にはなる」方向に全力で進む姿勢には、それなりのよさを見いだすこともできるという。

日本であれば、トラブルが起きればその分工期が延びるが、インドでは、やり方は粗くともその日のうちに一応の完成形までは持っていく。(ただし、日本式であれば、そもそも起きなかったであろう種類のトラブルである、という但し書きもつく。)この話を聞きながら、少年ジャンプの制作体制と似ているな、と思った。毎週のアンケートに応じて瞬間最大風速を出し続けなければならず、結果が悪ければ即座にテコ入れを行う。リアクティブなものづくりのよさもあるが、中長期的な構想を実現するような作品づくりには向かない。

また、インドで日本と同じようにトラックをデコレーションする文化を見かけたが、宗教的なモチーフや花を使うなど、その方向性がかなり違ったという。装飾の目的を現地の人に尋ねると、「商売繁盛のため」と答えたそうだ。クマガイさんはそれを、日本のトラック装飾がどちらかといえば対外的な表現であるのに対し、インドのそれは内省的なモチベーションに近い、と表現していた。


帰り道、LINEを確認すると内野功太郎から、『見はらし世代』という映画を見たか? と連絡が入っていた。最近のやりとりの中で話題にした本と主題が近しいので観てみてほしいとのこと。調べてみると、関東ではほとんどの館で上映終了となっていた。

今日は台湾の冬至ということで、家で湯圓(白玉)を食べる日だとアンナから連絡が入る。夕方、鹹湯圓(湯圓入った野菜スープ)の材料を買いに高円寺の純情商店街へと繰り出した。セロリとパクチーが売り切れで、何軒か渡り歩いていると、商店街がそわそわとした師走の空気に包まれていることに気づく。ところで、日本では冬至は明日だけれど、台湾とは計算方法が違うのだろうか。

参考にしたレシピ: 冬至に食べたい白玉スープ客家鹹湯圓の作り方


鹹湯圓を煮込みながらM-1を見始める。

ファーストラウンド。エバースが強い。ネタのあと、審査員の講評を受けているときの佐々木の表情が印象的だった。緊張と高揚と安堵が混ざったような顔で、妙に色っぽく見えた。

僕は真空ジェシカを応援していたのだが、惜しくもファーストラウンド4位で敗退。導入部でガクが「車椅子テニスの選手が連続で車ネタを引いた!?」という、おそらくアドリブであろう一言を発したのだが、どうもそこからリズムが崩れてしまったように見えた。


真空ジェシカ、ヤーレンズ、あるいはヨネダ2000の敗退を見ていて、髙比良くるまの『漫才過剰考察』に書かれていた「2024年以降のM-1予測」がよぎる。お笑いファンが無意識のうちに身につけてしまった審美眼の死角を、すっと突いてくるような人たちが評価される時代になる、という予測だ。

本書の見立てによれば、M-1は、芸人を「上に見る=尊敬したがる大会」から、「下に見られる=愛される人たちが輝くような大会」へと変わっていく。その中で、「お笑いファンに人気でネタバレされている人たち」ではなく、「お笑いファンに人気がなくネタバレしていない人たち」が上がりやすくなる。加えて、その上で「ちゃんとプロフェッショナルであることが見える人たち」が評価されるだろうとのこと。

そうしてみると、たくろうの優勝は自然な結果のように思える。決して「お笑いファンに人気がない」とは言えないが、大阪で活動を続けてきたことがネタバレを防ぐように働いた、とはいうのはありそうだ。反対に、真空ジェシカやヤーレンズは、ネタバレの壁に阻まれてしまったように思う。

「考えなくていいUI」を考える

  • 「考えなくていいUI」は、ユーザーが何を次に見るべきかを判断する必要がなく、システムが注意の向け先を決めてくれるUI体験のこと(例:Slackのキャッチアップ、TikTok)。

  • こうしたUIは「タイムライン的UI」と呼べる特徴(一直線の並び、目的が完結、順序付け、優先度の制御)を持ち、人間の注意を誘導する設計になっている。

  • 一方で、自由に探索して考える「トポグラフィ的UI」には創造性や管理性の利点があり、両者のバランスがデザインで重要になる。

気鋭の経済学者グレン・ワイル氏「デジタル民主主義が世界を変える」(日経ビジネス)

  • Microsoft Researchに所属する経済学者グレン・ワイルが来日し、ブロックチェーン技術を基盤に、民主主義を再設計する思想「プルラリティー(Plurality)」を提示している。これは、デジタル技術と「多元主義」(多様性を前提に権力や意思決定を分散させる政治思想)を結びつける構想として位置づけられている。

  • プルラリティーが描く統治像は、単一のリーダーや序列を前提としない分散型自律組織(DAO)的な構造であり、「誰が決めるか」よりも「どのように合意が形成されるか」というプロセス自体を設計対象にする点に特徴がある。ここでは、デジタル技術は効率化の手段ではなく、統治の前提を書き換えるインフラとして扱われている。

  • この思想は、台湾の前デジタル担当相オードリー・タンとの協働を通じて具体化されており、台湾で運用されてきた市民参加型プラットフォーム「vTaiwan」が実例として紹介される。vTaiwanでは、市民の意見を単純な賛否に回収せず、立場ごとに可視化・整理することで、対立点と合意可能点を浮かび上がらせ、実際の政策(ウーバー規制など)につなげてきたと説明されている。

  • グレン・ワイルは、現行の米国政治を「二党対立によって多様な合意を生み出せない構造」と捉え、1人1票で勝者を決める制度そのものが、納得感や協調を阻害していると指摘する。そこで重要になるのは、多数派/少数派という二分法ではなく、関心や利害のグラデーションを制度に反映することだとされる。

  • その具体策として提案されるのが、ブロックチェーンを用いた「クアドラティックボーティング」(Quadratic Voting, QV)である。QVは、争点ごとの重要度や好悪の強度を投票に反映できる仕組みで、どこに妥協点がありうるかを可視化することを目的とする。ここでは、1人1票という既存制度を絶対視せず、投票制度自体をアップデート可能なものとして捉える姿勢が明確に示されている。

  • DXについても、単なるツール導入に終始することへの批判が語られる。生成AIを含むデジタル技術はすでに社会の構成要素であり、重要なのはツールを導入してから社会を変えるのではなく、社会の変化と技術を一体として設計し直すことだとされ、プルラリティーはそのための思想的枠組みとして提示されている。

  • 共同体モデルとして提示される「コモンズ(共有地)」では、プロジェクトや施策ごとに人々が参加し、QVなどを通じて意思表明を行いながら協働することが想定される。ここでは、アリストテレスの「全体は部分の総和に勝る」という考えや、経済学における比較優位の概念が参照され、協働そのものが価値を生む構造(スーパーモジュラリティー)が強調されている。

  • 一方で、グレン・ワイルは「群衆の英知」を無条件に称揚する立場は取らず、多様性・独立性・分散性・集約性といった条件が欠ければ、集団極性化などのノイズが生じることにも言及する。その上で、「主体性」を個人単体の属性ではなく、多様な社会的関係の中で立ち上がるものとして捉え、「Dividuals(分人)」という概念を用いながら、複数の立場のせめぎ合いが主体性の源になると説明している。

  • 企業や組織についても、会社という形態を否定するのではなく、市場では生まれない協力を可能にする「共有財を創出する場」として再定義する視点が示される。厳密な序列に依存せず、役割が重なり合いながら協働する組織像が描かれ、最終的にはAIやモデル化された意思決定プロセス(ニューラルネットワーク的な比喩を含む)によって、リーダー依存を減らす可能性にも踏み込んでいる。

  • 全体を通して、プルラリティーは完成された制度設計というより、「民主主義は常に更新されるべきものだ」という前提に立ち、技術・制度・社会を同時に再構築し続けるための思考フレームとして提示されている。

名探偵津田が「anan」表紙に、グラビアは3章構成のストーリー仕立て(お笑いナタリー)

  • ダイアンの津田篤宏が、バラエティ番組の企画から生まれたキャラクター「名探偵津田」として、12月26日発売のanan2477号の表紙を飾ることが発表された。

  • 表紙ビジュアルだけでなく、誌面内では「名探偵津田」の世界観を軸にした、全3章構成のストーリー仕立てグラビアが掲載される。各章ごとに異なるシチュエーションや演出が用意され、探偵という設定に沿った衣装や表情で物語が展開されていく構成になっている。

  • 津田本人のプライベートや素顔に焦点を当てるのではなく、あくまでキャラクターとしての「名探偵津田」を主役に据えている点がおもしろい。IP化している。

Chooning で、累計投稿数が 1,000 件を超えているユーザーを抽出した。


8,000 件を超えているのはヤバすぎる。Chooning を作ってよかったことの一つは、こういう桁違いの熱量を持った人間の存在をちゃんと示せたことだ。

100件以上投稿している人まで含めると、人数はこの10倍以上になる。毎月出ていくお金を見て、ふと、なんのためにこんなことをしているのだろう、と冷静になる瞬間もあるが、こういう人たちのタイムラインを眺めていると、まあ安いもんだな、とも思えてくる。

セブンス・ベガ『君とParadiso』


このMVのファッションとメイクのバランスが新しく感じるのだけれど、女性のメイクのことがわからないのでうまく言葉にできない。服装だけを切り取れば、COCOLULUが流行っていた頃のサーフ系ファッションのようだが、その一方でメイクは明らかに今っぽい。どこがどう今っぽいのか全然説明できないけれど……。こういうの説明してくれるチャンネルがあったら教えてほしい。

Kアリーナ横浜が世界のアリーナ観客動員数で1位に(ENCOUNT)

  • Kアリーナ横浜が、米音楽業界誌 Pollstar による世界アリーナ観客動員ランキングで世界1位を記録した。

  • 2024年11月〜2025年11月の集計期間における動員数は約205万人で、前年首位だったマディソン・スクエア・ガーデンを上回った。

  • 音楽ライブに特化した設計や高い音響評価が背景にあり、日本発のアリーナが世界的な存在感を示す結果となった。

水原一平の賭博スキャンダルが米ドラマ化決定(シネマトゥデイ)

  • ドジャース・大谷翔平選手の元通訳である水原一平の賭博スキャンダルを題材にした米テレビドラマシリーズの制作が正式に決定した。

  • 制作は米ライオンズゲート傘下のケーブル局「Starz」で行われ、『ワイルド・スピード』シリーズのジャスティン・リンが監督・共同脚本・エグゼクティブプロデューサーを務める。

  • ドラマでは水原受刑者が無職から大谷選手の通訳として注目され、やがてスポーツ界を揺るがす大スキャンダルを引き起こすまでの道のりが描かれる予定で、配信時期やキャストは未発表。

なぜ『みらい議会』はユーザーの支持を集めた?ソフトウエアが飽和する時代の「優れたUIデザイン」に必要な四つの要素(type)

  • 国会で「いまどんな法案が検討されているか」をわかりやすく伝えるプラットフォーム「みらい議会」がリリースされ、SNS上で「使いやすい」という評価が多く集まった背景を、開発を主導したエンジニア・村井謙太とデザイナー・山根有紀也へのインタビューで掘り下げている。

  • UIを「画面の見た目」ではなく「政治とのインターフェース」と捉え直し、機能要件・情報設計・トンマナ・ビジュアルを一体で設計したこと、理解度が人によって違う前提でストレスなく理解が進むインタラクションを重視したことが語られている。

  • 具体的な「わかりやすさ」の手当として、法案の一覧表示に加え、「やさしく/詳しく」切り替え、AIアシスタントによる解説、ルビ機能、議論の進捗が見えるステータス表示などを挙げ、これらは開発チーム自身が法案原文を読み解く中で感じた「つまずき」から必要性を判断した、と説明されている。

  • 「つまずき」をプロダクトに落とし込む方法として、まず作り手がファーストユーザーとして原文を読み、元官僚のメンバーから初歩的なところをレクチャーしてもらいながら理解を積み上げたこと、そこで出た疑問(結局どこがポイントか/経緯は/誰に影響があるか等)をそのまま解説の導入ポイントにしたこと、写真を先に置くなど直感的な理解の足場を作る工夫が紹介される。

  • 開発体制面では、議員・元官僚・エンジニア・デザイナーの4人が分業の線引きをせず、プロトタイプを触ってフィードバックする「気持ちをもつ会」も挟みつつ、表示速度やタップ時アニメーションなど、境目で抜け落ちやすい非機能要件まで含めて体験の継ぎ目を埋めた。

  • 「優れたUIはデジタルの外まで設計されている」という観点として、同種の機能自体は他でも作れる一方で、「みらい議会」は実世界で活動する「チームみらい」という実体が信頼の土台となっていることが特徴。ソフトウェア/情報/AIフェイクが飽和する時代には、Web上の設計と物理的な活動がハイブリッドに噛み合うことが重要だと述べられている。

CSS Masonryについて(sakupi01 blog)

  • CSS Masonryは、Pinterest型の段組みレイアウトを、JavaScriptによる配置計算ではなく、CSSのレイアウトモデルとしてネイティブに扱おうとする仕様提案で、DOM順やアクセシビリティを保ったまま、高さの異なる要素を列方向に詰めて配置することを意図している。

  • 記事では、CSS Gridは行を揃える二次元レイアウトであるがゆえにカードUIでは余白が生じやすく、Multi-columnは視覚順と読み順が乖離し、JS Masonryは再計算コストやDOM操作による保守性の問題を抱えてきた、という整理がされている。

  • その上でCSS Masonryは、「自然な視覚配置」と「構造的な正しさ」を両立できる可能性を持つ一方、配置の予測可能性や制御性が下がるというトレードオフも含んでおり、意味的な行・列を持たないカード一覧などに用途を限定して考えるべきものとして位置づけられている。

マルチネ20周年のイベントに行ってきた。出演者も来場者も懐かしい面々に会うことができた。

ここぴがimoutoidの話をして、tofubeatsが「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」をかけるとみんなが泣いて、「水星」がかかると酔っ払った出演者たちが次々と壇上に現れて、気づくとtomadが胴上げされていた。文句のない大団円だった。

帰ってきてニュースを見ると、「AKB48 20周年」ということで、前田敦子や大島優子らOGがパフォーマンスを行ったことが話題になっていた。

マルチネもAKBも、過去のある瞬間のパッケージになっていることに驚く。ということは僕の青春も文句なく過去のものなのだろう。なんてこった!

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