欧米でも日本でも、個が「自律/自立する」ことを重んじる価値観が多数派である一方、「依存する」あるいは「関係性をむすぶ」というケアの価値観はまだまだ少数派のものである。資本主義社会において新自由主義的な文化が支配的な文脈では、〈ケア〉の価値が貶められてきたからだ。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
欧米でも日本でも、個が「自律/自立する」ことを重んじる価値観が多数派である一方、「依存する」あるいは「関係性をむすぶ」というケアの価値観はまだまだ少数派のものである。資本主義社会において新自由主義的な文化が支配的な文脈では、〈ケア〉の価値が貶められてきたからだ。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
たとえば誰かを介護しなければならないとして、そのときその人に自分の全生活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなくなってしまいます。あるいは、介護される側からしても、援助は必要だけれど、それが過剰になると監視されていると感じるようになってしまいます。たとえ人間関係においてつながりが必要だとしても、そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性がなければ、我々は互いの自律性を維持できないのです。つまり、無関係性こそが存在の自律性を可能にしているのです。
(千葉雅也、2022『現代思想入門』講談社)
たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
ひとはみずからの身体を駆使してさまざまなものを「思いどおりになる」よう操作し、変形してきた。そのことで「自然の主」(デカルト)になろうとしてきた。けれどもそういう操作という行為の媒体である身体という存在が、よりによってじぶんの意のままにならないということ。このこともまた、病気一つ取り上げるまでもなく人びとが日常よく経験してきたことである。ここにも《所有》の両義的な構造がしかと映しだされている。ここでわたしたちが突き当たるのは、あらゆる《所有》の媒体である「わたしの身体」をわたしは所有するのではないという事態である。
(鷲田清一、2024『所有論』講談社)
僕は、母の心を、飽くまで母のものとして理解したかった。──つまり、最愛の他者の心として。
すっかりわかったなどと言うのは、死んでもう、声を発することが出来なくなってしまった母の口を、二度、塞ぐのと同じだった。僕は、母が今も生きているのと同様に、いつでもその反論を待ちながら、問い続けるより他はないのだった。わからないからこそ、わかろうとし続けるのであり、その限りに於いて、母は僕の中に存在し続けるだろう。
(平野啓一郎、2021『本心』文藝春秋)
ロックが提示したところの、労働は労働する者自身のものであるがゆえに事物はそれを作りだした者のものであるという考え方。それは皮肉にも、資本主義的な所有論とそれを批判するコミュニズム的な所有論の双方で、それぞれ論拠をなしてきたものである。たとえば資本主義的な生産理論において、賃労働という労働形式の正当化がまさにこの〈労働所有論〉によってなされた。労働力は労働者一人ひとりのもの、つまり彼らに固有のものであるとするなら、それをだれか生産手段を所有する者に譲渡し、労賃と引き換えに貸与する権限もそれぞれの労働者その人にあるはずだからだ。が、もう一方で、たとえばマルクスの労働理論において、資本主義的な生産様式における労働がつねに「疎外された労働」という形態をとるのは、本来各人のものである労働が資本家に売り渡されるからだとされる。そこでは、労働による生産物、すなわち労働者自身の本質を外部へと対象化したものが(労働がもはや彼自身のものではないがゆえに)彼自身に所属しないという、いわゆる「疎外」(Entfremdung)という事態が発生するとされる。「疎外」とは、とりもなおさず、各人に固有(proper)のものとしての労働が、その固有性=所有権(property)を剝奪されているという事態にほかならないからである。
(鷲田清一、2024『所有論』講談社)
都市は「読まれるべきテクスト」である、という言い方がたとえできるとしても、ひとはそれを、まるで書物を読むときのように椅子に腰かけて「外側から」読んでいるわけではなく、字義通りの意味で身をもって都市のなかに入り、そこで歩き、働き、遊び、食べ、憩うことを通じて、自分でも気づかない間に「内側から」読んでいる。そしてその際、彼は他者のまなざしに晒され、自らテクストの登場人物ともなっている。
つまり、都市というテクストにあっては、テクストの読者とテクストの登場人物を区別することができない。読む者と読まれる者、まなざす者とまなざされる者の関係は最初から相互媒介的であり、ひとは、そうした二重の役柄を無意識のうちに演じているのだ。ただしその場合、彼はこの都市=テクストのなかに自由に参入できるわけでは必ずしもない。都市のなかの読者/登場人物のまなざしの布置は、都市を構成する諸装置によって条件づけられており、ひとは、これらの諸装置に媒介された場のコードに従ってはじめてテクストの読者/登場人物となることができるのである。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
ちなみに「可愛い」とは、きれいな自立できない弱者を受容する言葉である。少女たちが好感を抱く対象をやたらとこの言葉で形容するようになったのはここ数年だが、彼女たちは、この言葉をいわば呪文のように唱えることで、「可愛い」ものにはすべて同じ顔をもたせ、自分たちの幻想の共同世界の側にとり込みながら、「可愛くない」ものは「関係ないから」と、視界の外に排除していく。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
このように検討を進めてくると、七〇年代以降の〈新宿的なるもの〉の衰退が、われわれの身体感覚の変化とどう連動していたのかも明らかになってくる。六〇年代、「新宿」に集った人びとが醸成させていたのは、かつての「浅草」と同様、〈触れる=群れる〉という身体感覚であったと考えられるが、このような〈触れる=群れる〉ことは、関係性の回路の限定を不可能にし、われわれが前に「共同性の交感」と呼んだ変幻自在で自己増殖的なリアリティを構成してしまう。ところが、こうしたリアリティのあり方は、散乱する〈未来〉にとっては雑音として以上の意味をもち得ないのだ。
つまり、右にみたような〈演じる〉という身体感覚にとっては、種々雑多な身体が触れあい、群れていることは、ただたんに「ダサい(ナウくない)」のであり、「可愛くない」のである。したがって、七〇年代以降の都市空間で突出してくる〈演じる〉ことは、こうした〈未来〉への係留にとって雑音にしかならない諸存在を視界の外に排除していこうとする傾向を強くもつことになる。そこでは、他者たちとの直接的な関係はどちらかというとアリバイ的なのであって、むしろ人びとは、都市空間の提供する舞台装置や台本に従って、すでにその意味を予定された役柄を場面ごとに〈演じて〉いくことで、逆に他者たちとのコミュニケーションのコードを共有しているのである。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
むしろ未来は、さしあたりは「ここではないどこか」としてあったのであって、必ずしも現在に対して超越的なある一点に収斂される必然性はなかったのだ。そして実際、明治末から大正にかけての「浅草」や六〇年代の「新宿」に集った人びとが未来に求めたのは、そこに群れること自体のなかからおのれの存在の根拠となるような共同性を創造していくことであった。つまり、所与としての未来と可能性としての未来、そのような二つの〈未来〉のあり方が区別されなければならないのである。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
〈演じる〉とは、他者たちの前で「本当の」自分とは異なる「虚構の」人物に扮し、あたかも自分がそうした人物でもあるかのように振舞うことである。つまり、一方に〈演じる〉主体としての「私」がおり、他方に〈演じられる〉対象としての様々な「役」がある。前者は後者を場面に応じて選択し、操作していくことを通じて、〈演じる〉という行為を行っている。そしてその場合、モデルとなっているのが、狭義の「演じる」、すなわち舞台上の俳優の演技であることはいうまでもない。
だがしかし、実のところ舞台上の演技とは、こうした「偽りの」自己の呈示とは、本質的に異なる性質のことがらである。多くの優れた演技においては、〈演じる〉ことの前にそうした操作を行う主体としての「私」やその対象としての「役」が存在しているわけではない。〈演じる〉という操作そのもののなかで、演じる「私」と演じられる「役」が同時的に発生してくるのであり、俳優は、そうした「私/役」の発生の現場に立ち会っているのだ。俳優は、登場人物に扮するのではなく、〈演じる〉ことを通じて登場人物を発見するのである。
[…]
〈演じる〉ことのこうした根源的なあり方が、たんに舞台上での「私」と「役」の成立についてのみ当てはまるものではなく、日常の生活場面における自己と他者の成立にも通底していることはいうまでもない。M・メルロポンティが精密に論証したように、われわれの自己なり他者なりが成立してくる存在論的淵源は、見るものと見られるもの、触わるものと触わられるもの、感じるものと感じられるものが、互いにもののただなかから生起してきて交流し、反響する、その閾に求められる。
(吉見俊哉、2008『都市のドラマトゥルギー』河出書房新社)
洗わないで放置した鍋の中の濁った水みたいな胸の内に、毅然が足りない、という言葉が浮かんできた時、二谷は芦川さんを尊敬するのを諦めた。諦めると、自慰の手助けに彼女のことを想像するのも平気になった。それは不思議なことで、なんとなくかわいいと思っていた時よりも、彼女の弱いところにばかりに目がいくようになった後の方が、想像の中の彼女は色気を放った。聞いたことのないはずの種類の声で、彼女はいつも泣いている。彼女が泣けば泣くほどよかった。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
村上春樹の主人公が特定のパートナーと継続的な関係を維持できず、次々と別の女性と関係を持つことに象徴されるように「所有」は一過性の欲望だ。対して「関係性」は持続性を要求する欲望だ。二者間の双方向的なコミュニケーションの結果として事後的に立ち上がる関係性は、その二者の間だけに発生する固有のもので、それが触れ続けられていることによってのみ維持し、確認される。仮にたった一度の触れ合いで得た体験の記憶が特権化されたとき、それは既に名付けられたものであり、所有されたものであり、そして一方向的なものだ。その相手が同じように記憶の中で、その一回の接触を特別なものと位置づけているとは限らないからだ。関係性は持続され、反復されることによってのみ成立する。「関係性」とは一定の距離感と進入角度のことを指すのではなく、二者の接触によってその都度、距離感と進入角度が共創的に試行錯誤し続けられる「状態」のことを指すのだ。
(宇野常寛、2022『砂漠と異人たち』朝日新聞出版)
二人で「いただきます」と手を合わせて食べ始める。二谷はきゅうりをつまんで「おいしい」と言い、からあげをつついて「おいしいなあ」と言い、味噌汁を飲んで「うまい」と言った。
十五分ほどで食べ終わる。仕事から帰ってすぐ、一時間近くかけて作ったものが、ものの十五分でなくなってしまう。食事は一日に三回もあって、それを毎日しなくちゃいけないというのは、すごくしんどい。だから二谷は、スーパーやコンビニに行けばそこに作られたものがあるんだから、 わざわざ自分たちで作らなくたっていいんじゃないかと思っている。思っているけど、それを言う代わりに「おいしい」と言っている。ただ毎日生きていくために、体や頭を動かすエネルギーを摂取するための活動に、いちいち「おいしい」と感情を抱かなければならないことに、そしてそれを言葉にして芦川さんに示さなければならないことに、やはり疲れる。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
自分はいつか結婚するんだろう、と二谷は思っている。結婚がしたいわけではなくて、結婚したくないと思ったことがないからだった。世の中には一生結婚しないと決めている人もいるけれど、そういうのは確固たる意志がある人だけが決意するものであって、特に何の希望もない自分のような者は、いつか結婚しなければ辻褄が合わない。ならば、喜んでくれる人が多いうちにしてしまうのがいいんだろう、そんなふうに考えていた。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
「二谷さんは、ごはんを食べるのが面倒で、でも食べなきゃいけないのが、嫌なんですか?」
尋ねて見つめる、二谷さんの目の奥が暗い。「それの周辺も含めて嫌い」と、二谷さんが答えた。 この人を分かりたいという気持ちと、その日のままでいてほしいという気持ちの両方がある。周辺って? と続けて尋ねる。
「ごはん面倒くさいって言うと、なんか幼稚だと思われるような気がしない? おいしいって言ってなんでも食べる人の方が、大人として、人間として成熟してるって見なされるように思う」
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
わたしは別に、許せなくないかもしれない、とふと思う。許せないから芦川さんのことが嫌いなんだと思っていたけれど、芦川さんのことを嫌いでいると、芦川さんが何をしたって許せる気もする。許せない、とは思わない。あの人は弱い。弱くて、だから、わたしは彼女が嫌いだ。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
ちゃんとしたごはんを食べるのは自分を大切にすることだって、カップ麺や出来合いの惣菜しか食べないのは自分を虐待するようなことだって言われても、働いて、残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、ほんとうに自分を大切にするってことか。野菜を切って肉と一緒にだし汁で煮るだけでいいと言われても、おれはそんなものは食べたくないし、それだけじゃ満たされないし、そうすると米や麺も必要で、鍋と、丼と、茶碗と、コップと、箸と、包丁とまな板を、最低でも洗わなきゃいけなくなる。作って食べて洗って、なんてしてたらあっという間に一時間が経つ。帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、 それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
「二谷さんと食べるごはんは、おいしい」
押尾さんがほほ笑んで言う。ほほ笑んでから言ったというよりは、その言葉を言うために唇を動かしたら目じりや頬も一緒に動いた、という感じのほほ笑み方だった。
「二谷さんは目の前にある食べ物の話をほとんどしないから、わたしも、これおいしいですねとか、すごいふわふわとか、いちいち言わないで済んで、おいしくても自分がおいしいって思うだけでいいっていうのが、すごくよかった。おいしいって人と共有し合うのが、自分はすごく苦手だったんだなって、思いました。苦手なだけで、周りに合わせてできてはしまうんですけど。甘いのが好きとか苦手とか、辛いのが好きとか苦手とか、食の好みってみんな細かく違って、みんなで同じものを食べても自分の舌で感じている味わいの受け取り方は絶対みんなそれぞれ違っているのに、おいしいおいしいって言い合う、あれがすごく、しんどかったんだなって、分かって。二谷さんとごはんを食べる時はそれがなかったからよかった。一人で食べてるみたいで。でもしゃべる相手はいるって感じで。[…]」
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
なんでみんな、食べるんだ。おいしいものを食べようとするんだ。もっと食べたい、なんでも食べたい、がしんどい。なんでケーキで祝うんだ。砂糖の塊で口の中をべちょべちょにして、おかしいんじゃないか、みんな。なんでみんな、こんなにも食べずにはいられないんだ。
(高瀬隼子、2022『おいしいごはんが食べられますように』講談社)
「高橋のバカがよ、昨日の伝票整理しねえで直帰しちゃったから」
サクマは苦笑した。サクマは自分の性質からいくつかの職を転々としていた。男ばかりの職場がほとんどだったが、そういう職場は陰湿なところが多かった。あのねちっこさは性別なんかではなくて、実際は働く人や組織の同質性の高さによってもたらされるものだった、と言葉ではなく皮膚で学んだ。いずれにしてもそういう空気が好きじゃなかった。積極的に関わっても、関わらなくても不利益になるが、最後の最後の部分まで自分を切り売りする気にはなれないでいて、そしてそういう性向が定期的に職を替えざるを得ない原因の一つでもあった。
「いい加減なやつですからね」とか「そういうやつですからね」とか一言いえばいいのに、言うべきことは分かっているのに、サクマは耐えてしまう。精一杯の阿りが苦笑ででしかできない。かといって全力でそういう自分を肯定しているのかといえばそういうわけでもなく、納得はしているが居心地の悪さとも肩を並べているのだった。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
遠くに行きたかった。遠くというのはずっと距離のことだと思っていた。両親も弟も繰り返しを繰り返していた。おれは多分それが嫌だった。遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。自転車便をやっていた頃の後輩がいつだったかに言っていた「ゴール」も多分そこのことだった。
「ほんの少しだけ違うことをさ、認めるだけでおんなじような毎日が、だから変わっていくんじゃないかなあ。ぼくもさ、ずっと変わらない毎日を変わっちゃいけない毎日だと思い込もうとしてたから苦しかった気がするんだよなあ」
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
「もっとちゃんとしなきゃいけないな」
円佳に、というよりも自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「どゆこと?」
「いや、だからよくわかんないけどちゃんと健康診断とかがあって、ちゃんと保険とかがあるっていうか、とにかくもっとちゃんとしたところに行かなくちゃいけねえなってことよ」
「なにそれ」、と円佳は笑った。
サクマは笑わなかった。結構真面目にそういう風に、半ば本気で思っていたからだ。サクマにとっては保険とか扶養とか、見るだけで言葉の意味と音とが空中分解するような単語を使いこなせることが大人になったりちゃんとしたりすることなんだ、と考えていた。二十年先三十年先を常に見通せるようになることが多分ちゃんとするということだ。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
「鈴先生と一星と深夜は、太陽と月と地球みたいな関係だな。ああいう関係は、恋とか愛とか、単純な名前はつけられないな。一列に並んだり、陰になったり、欠けたり満ちたりしながら。三つは回り続けている。」
(ドラマ『星降る夜に』9話)
痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものであとは耐えられる。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
時間の長短の別はあれど、認めがたいことがあったとき必ずどこかで暴発していた。刑務所は制度がそれを許さない。サクマは身を以てあの罰の苦しさを知っていたので、ここへきて初めて罰を受けることの恐ろしさを味わった気がした。罰は受けている瞬間や受けた後なんかよりも、次受けるかもしれないというのが一番怖いのだ。外にいたときに感じた「おまえもこうなるぞ」という強迫観念と罰が持つ抑止力とは多分同質のものだ。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。
(井戸川射子、2024『この世の喜びよ』講談社)
変わったことを認める、と言っていた向井の言葉が不意に思い出される。床に就き、まどろんでいた時だった。目を閉じているはずなのに、妙に瞼の裏が白っぽく、いつもの衝動にどこか似ていた。自分が無くなっていくときのあの感じだ。力が湧いてくるのが分かる。自分はこれを押しとどめよう押しとどめようとしていたが、付き合っていくこともできたのではないだろうか、と急に思えた。もしまだ間に合うなら、と願ってみたときに、変わるということと認めることの近さに思いをいたした。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
ここで感じる不快感と安心感は両立している。この先どうなるかということ──つまりは刑期が満了したら外に出られるということ──がここでは担保されており、その保証が安心と不快を伴っていたのだ。今まで気が付かなかったのが不思議なくらいだ。十年先、二十年先、自分が死ぬその瞬間までが全て決められていたら不愉快に決まっている。安心だが不愉快だ。こういうのが許されるのは刑務所だからだ。刑務所は制度だ。制度だけが未来を確たるものとして示すことができる。自分は遠くに行きたいと願いながら、一方で制度を希求していた。
(砂川文次、2023『ブラックボックス』講談社)
元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か、と祐治は思う。十年前か。二十年前か。一人ひとりの「元」はそれぞれ時代も場所も違い、一番平穏だった感情を取り戻したいと願う。
道路ができる。橋ができる。建物が建つ。人が生活する。それらが一度ひっくり返されたら元通りになどなりようがなかった。やがてまた必ず足下が揺れて傾く時がくる。海が膨張して押し寄せてくる。この土地に組み込まれるようにしてある天災がたとえ起こらなかったとしても、時間は一方向にのみ流れ、一見停止しているように見える光景も絶え間なく興亡を繰り返し、めまぐるしく動き続けている。人が住み、出ていく。生まれ、死んでいく。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
祐治は晴海を思い、知加子の腹の中で成長をとめた子を思い、苦悩に悶えた。生きている間の辛苦は本人と共有できるが、死は別だ。死だけは本人ではなく、側にいる人間が引き受け、近いほど強烈に感じ続ける。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
祐治は人の一生を想像した。
生まれ落ちた時に水のいっぱい入った皿を持たされ、こぼさないように歩く。歩いている途中でいつの間にか水は蒸発したり、躓いた拍子にこぼれ落ちたり、また人に与えたりして減っていく。人によって皿が空になる時間はまちまちである。
水をたっぷり残しても、褒められるわけでも、何かもらえるわけでもない。弱いもの同士で寄り合い、危険を避け、見て見ぬ振りを決め込んで辛いことや嫌なことをやり過ごして一生を終えてどうする。儚い時間を歯を食いしばって耐えて何になるだろう。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
明夫は生きた。死ぬ理由はそれで十分じゃねえか。消える時を自分で決めて何が悪い。祐治は耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。死者は死者のままだった。
(佐藤厚志、2023『荒地の家族』新潮社)
すると自分を正当化しようとして、イエスに言った、「では、わたしの隣人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負おわせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリオン銀貨二枚を取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行ないをした人です」。そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
(新約聖書「ルカによる福音書」10章 29〜37節)
インタビューに限らず、人は本来、誰かに自分のことを聞いてもらえるのは嬉しいはずだ。仕事でも日常会話でも、「あなたに興味がある」という態度を示すことから関係は始まる。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
「でも? やっぱり自分の脚は嫌いなの?」
「はい」
「そうか」
E藤先生は笑った。
「これは医者としてじゃなく、一人の人間として言うんだけど、怒らないでね」
「怒りませんよ」
「私は、あなたが人よりうんと頑張れる人になれたのは、その脚のお陰なんじゃないかと思うわ」
E藤先生はひらりと立ち上がった。私の脚からしっとりした手の感触が消えた。私はジーパンを上げるのも忘れ、長いあいだ壁を見ていた。
ねえ、あなたの脚が、ずっとずっと、あなたを守ってきてくれたんだとは思わない?
(石田夏穂、2023『ケチる貴方』講談社)
「あなたに何が分かるのよ。進学だって就職だって何一つ上手くいかなかったくせに。友達なんか一人もいないくせに。そうやって、何もしないことで、怠惰に暮らすことで、私を責めているんでしょ? いい加減、立ち直りなさいよ。ちゃんと生きなさいよ。あなたが惨めったらしい姿で家の周りをうろちょろするから、私はいつまで経っても高校時代から先に進めないんじゃないの!」
「加害者が被害者に言う台詞じゃないなあ、それ」
とくに傷ついた様子もなく、圭子はふふふ、と笑ってみせた。
「進学も就職も、なんでも努力して上手くやってきたあんたにも、友達がいないのは不思議だね」
栄利子がエレベーターに乗ろうと歩き出そうとしたその時、圭子は優しい口調でこう言った。
「つまりさ、頑張ってもどうにか出来るもんじゃないんだよ。友達だけはさ」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
「可哀想だけど、あんたがどんなにあがいても、もうあの夜は取り戻せないんだよ。おひょうさんはもうあんたと違う場所に立って、違うものを見ている」
栄利子は手すりからずるずると体をすべらせ、そのまま床にうずくまった。それでも、圭子はしゃべるのをやめようとしない。
「思い出は思い出として大切にとっておけばいいじゃない。たとえ幻だったとしても、楽しい時間を一瞬でも過ごせたんだから、それでいいじゃない。私には確認しようもないけど、もし、本当にその瞬間、あんたたちの心が通い合っていたとしたら、その夜は宝石みたいなもんなんじゃない? 取り戻せないからこそ、大切な時間だよ。それなのに、あんたはその奇跡に感謝しようともしない。あってしかるべき状態と決めつけている。相手にあれと同じものをもっとくれ、としつこく要求するのはやめなさいよ」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
「くそダセえ。大人になれないのはあたしじゃねえ、てめえだよ。ママの大事な僕チャンをいい加減、卒業しろよ。自分だけは大切にされて当たり前とでも思ってんだろ。この短小が。あたしのことをどうこう言う前にてめえのテクのなさをどうにかしろよ。おら、立て、おら。そもそも、もろくない人間関係なんてこの世界にあんのかよ。女と女も、男と女も、男と男もみんなおんなじだろうが。どんな関係も形を変えたり、嫌ったり嫌われたり、距離を測ったり、手入れしながら、辛抱強く続けていくしかねえんだよ。たかが関係一つ手に入れただけで腹一杯になれるもんか。なんもしないですべてが満たされて承認されて、問題全部解決するわけないだろうが。 […] 」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
「何故、そうやって武装するくせに、人を求めるんだ。ならば、一人で居なさい。人を信じられるようになるまで、ずっと一人で居ることだよ。少しも恥ずかしいことではないんだよ。 […] 」
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
母を追い出したのは父ではなく、むしろ自分ではないだろうか、という疑念が今も常についてまわる。自分が役に立ったとは思えないけれど、もっと家事を手伝っていたら。せめて話し相手になってあげればよかったのではないか。梅干しから味噌まですべて手作りする人だった。家族の誕生日は常に完璧に祝った。一年中、ひっきりなしに続く法事に駆けずり回り、来た人を手厚くもてなした。いつもおしゃべりで笑顔だったけれど、父の顔色をびくびくと窺っていることに翔子は気付いていた。母がたった一人の力で、この怠惰な集団を家族という体裁に整えたのだ。
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
何不自由ない子供時代を与えてくれて有り難かったとは思うけれど、母のような犠牲者にはなりたくない。色々なことから自由でいたい。たかが、住む場所や食べるもののことで、命や心を削るなんて本末転倒ではないか。本来幸せに暮らすために必要な作業で不幸せになるなんて、これほどの矛盾があるだろうか。
(柚木麻子、2015『ナイルパーチの女子会』文藝春秋)
まず、神を特段設定していないヒトにとって、善悪は決定的なものではありません。善とは〝共同体が目指すものを促進するもの〟、悪とは〝共同体が目指すものを阻害するもの〟に結びついていることが殆どで、ひどく流動的です(一方、神を設定していれば、自ずと善悪も固定されます。キリスト教徒にとっての善悪は聖書に、イスラム教徒にとっての善悪はクルアーンに、それぞれ記されています)。
たとえば殺人。現時点の日本で殺人は悪です。ですが死刑は認められています。国家という共同体の均衡を保つための行為ならば、特定の個体を殺す行為は悪ではなくなります。
つまり、同じ行為でも、共同体にもたらす影響によっては善にも悪にもなるのです。そして、悪とみなされた場合、所属していた共同体から追放されうるのです。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
かつての尚成は、理由が差し込まれる隙間がないほど確定的に、自分は同性愛個体だとバレてはいけない、特に学校関係者や家族には絶対に知られてはならないと思い込んでいました。
それはなぜか。
決して、自分が周りの個体と違うことそれ自体を恐れていたからではありません。その事実を以て当時所属していた主な共同体側から、均衡、維持、拡大、発展、成長を阻害する個体として認定されることを恐れていたからです。
それはなぜか。
共同体が目指すものを阻害する存在だと認定されることは、ヒトの場合、共同体側から〝悪〟とみなされること、つまり共同体から追放される可能性を高めることだからです。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
「もし、なんていうの、下半身が着脱式で、セックスするときに好きなほうを選べるみたいなことになったら、私絶対男性器を選ぶし挿入する側に回る自信があるんだよね。幹事とか運転役に自然になるみたいに、そういうときもそっち側のほうが絶対しっくりくるはずなの」
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
しかし、その一方で、私が本当に付き合いに悔いを残している人、謝りたい、お礼が言いたいけど叶わない──、望まぬ形で別れてしまった人たちというのは、絶対に連絡をしてこない。
けれど、それでもなお、今の私が小説を書いていられるのは、急に連絡してくる“親友”たちではなく、もう二度と会うことはないかもしれないその人たちのおかげだ。もう連絡できないくらいの後悔や過ちの記憶まで含め、彼らが、私と、私の小説を作ってくれた。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
尚成の場合、学校の友達が蔑むことや気持ち悪がること、家族が地域や国家にとって悪とみなしていることに同意している時間は即ち、自分自身を蔑み気持ち悪がり、悪とみなす時間そのものでした。振り返ってみればあくまで共同体の庇護なしでは生き延びられない期間をやり過ごすための擬態だったわけですが、もちろん当時はそんなふうに割り切れておらず、この時間は永遠に続くのだと思っていました。擬態はこうして、尚成という個体を十八年間生き延びさせたあと、それと全く同じ方法で、尚成という個体の感覚を十八年分殺したのでした。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
だって、「生産性がない人なんていません」ってつまり、「どの個体も、意味や価値に始まる何かしらの生産性とは無関係ではいさせません」っていう宣言、でもありますよね?
だから、全然優しい言葉ではないんですよ。
それどころか、自分が今後どんな状態になっても、いつ何時でも、共同体にとって有用な個体でいなければならない感、すごくないですか?
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
マイノリティを差別しないのは、そういう時代だから。そうでない時代を構築した過去を本気で反省し謝罪し改善したいわけではなくて、なんかそういう時代になったから。この感じだと、何十年後、共同体や種が今よりもずっと縮小していて、かつ体内受精を始めとする有性生殖でしか次世代個体を発生させる方法がないままだったら、やっぱり同じようなノリで再び同性愛嫌悪の空気が再構築される可能性めちゃくちゃありますよ。だって、そういう時代だから。
(朝井リョウ、2024『生殖記』小学館)
ベトナムには「シンチャオ(こんにちは)」だけ覚えて行った。たった1語でも、意識して覚えようとしなければ頭に入らない。1語も身につかず帰った旅もある。1語でも、その国に暮らす人々の表情がよく見えた。レストランで、市場で、土産店で、とにかく「シンチャオ!」と言っていた。こんにちはの一言さえあれば、旅が見学じゃなくて体験になる。世界に触るか触らないか、くらいの大きな差があった。
(藤岡みなみ、2022『パンダのうんこはいい匂い』左右社)
疎外は,社会学の言説から抜け出して,メデイアの解説や日常言語に入り込んでいる.たとえば,一つの世代全体が「社会から疎外」されている,とか,若者のサブカルチャーは,主流の文化から若い人びとが疎外されている状態を表している,などという言い方を耳にするであろう.この場合,隔たりや分離といった観念が含まれていることは明らかであるが,社会学において疎外といえば,資本主義社会の不平等と関連していることに注意したい.マルクスの史的唯物論のアプローチは,人びとが仕事を組織して財とサービスをつくり出す方法から始まる.マルクスにとって,「疎外されている」とは,真の帰結へと至る客観的条件のもとにおかれていることであり,その条件を変える鍵は,私たちの考えや信念を変えることではなく,自分の状態をコントロールする力を増し加えるために,生きる方法を変えることなのである.かつての労働生活とは,より骨の折れる肉体的労役であったように思われるが,小作農や職人など多くの社会集団にとっては,熟練を要する,それ自体満足できる仕事であり,現代の製造業や大規模なオフイス環境,コールセンターやファストフード店などよりも,仕事に対するコントロールの幅が大きかった.今日の仕事は,肉体的には以前ほど重労働ではないかもしれないが,コントロールの余地を与えられていないため,より大きな疎外を生み出し続けているのである.
(友枝敏雄・友枝久美子、2018『ギデンズ 社会学コンセプト事典』丸善出版)
「要するに、同性愛者を『気持ち悪い』なんて言う人間は、頭の中で、同性愛者の体と過剰に一体化して、男同士でキスしたりするところを想像するからなんだよ。だから、そういう連中は、誰かがスゴい婆さんとつきあってるって聞いても、やっぱり『気持ち悪い』って言うよ。人の勝手だって、思えないんだよ。これはさ、AVを見てるとわかるんだ。性に関しては、人間は、簡単に他人をアバター化するから。俺はさ、中年のオッサンのアソコをじっと見つめてろなんて言われても、まあ、絶対にイヤだね。だけど、AVで女優と絡んでる時には、嬉々として凝視してるんだよ。その関係性に入り込んで、その男優の体と一体化して。」
(平野啓一郎、2021『本心』文藝春秋)
『相棒』シリーズを〝国民的ドラマ〟と呼ぶことに抵抗を感じる人は、まずいないだろう。そして、国民的ドラマである、ということは、こういうことなのだ。それは、ただ単に多くの人から支持されている、ということではなくて、こんなふうに愛情を持って語ることの幸せを、一人一人がそれぞれの形で持っている、ということに他ならない。家族だったり、友人だったり、同僚だったり。優れたドラマはそれだけで人の距離を近づけ、私たちの共通言語になる。[…]
誰かと語り合い、それを楽しみにすることで毎日を頑張れたりするものが、自分にあることは尊い。国民的ドラマを愛することの幸せが、そこにはある。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
自分の小説に冠ができることを喜ぶ気持ちより、受賞したことで、それまで自分なりにエッジが立った気持ちで書いてきた小説が鋭さを失ってしまうのではないかという不安の方が、ずっとずっと強かった。「大人が薦める本」の一つになどなってたまるか、という意地があった。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
ケアの倫理は、抽象的な理念ではなく、目の前の状況を敏感に感じ取る能力、生き物に対する気づかい、真の共感を要する倫理でもある。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
子どもの頃のほうが大人の今よりも自由だった人がどれくらいいるだろうか。扶養されていたぶん、労働せずに済んだという意味で自由だった人はいるだろうけど、代わりに多くの義務を背負わされていたはずだ。
私が大人だなぁと思うのは、その種の義務全般から自由であるような人である。たとえば仕事をほっぽり出して失踪しちゃうような人は「大人〜」って感じる。もちろん、学校をほっぽりだして失踪しちゃう子どもにも「大人〜」と思う。
「大人=無責任」という単純な話ではない。義務のたぐいがあるということを理解していて、その上で、そんなのはゲームのルールに過ぎない、とわかっている人──心の底からはゲームを信じていない人──が大人だと感じる。遊びに心から没頭するのは子どもっぽい。だから、大人は責任や義務からも醒めていなければならない。
(品田遊、2022『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』朝日新聞出版)
サプライズのために消してくれていたハロゲンライトが再び点灯し、引率者たちの顔が夜の山に浮かび上がった。こちらに向けられている笑顔をまじまじと見てみたが、全員驚くほど馴染みがない。曲がりなりにも今日1日を一緒に過ごした仲だというのに。怒られなくて済んだし、こんな私のためにケーキを用意してくれたのも嬉しいけれど、一度しかない19歳の誕生日を全然知らない人と過ごしているなぁ、としみじみ思ったのを覚えている。こういうのが、大人の世界なのかもしれない、とも。
(藤岡みなみ、2022『パンダのうんこはいい匂い』左右社)
孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。──同時代に対する水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力。それが、他者の存在のどこを探ってみても、見出せないということ。
(平野啓一郎、2019『マチネの終わりに』コルク)
「そのために、……死の予定を立てる、ということですか? 看取ってくれる人と、スケジュールを調整するために?」
「人生のあらゆる重大事は、そうでしょう? 死だけは例外扱いすべきでしょうか? 他者と死を分かち合うというのは、臨終に立ち会うだけじゃない。時間を掛けて、一緒に話し合う時間を持つ、ということです。」
(平野啓一郎、2021『本心』コルク)
「もちろん、人に迷惑をかけない大人になることは大事なんだけど、最近、子育ての正解ってそこにないんじゃないかって思うこともあって」
「じゃ、どんなことが正解なの?」
「成長した子どもが、大人になってから親の子育てを肯定できるかどうか」
(辻村深月、2018『噛みあわない会話と、ある過去について』講談社)
そもそも、人間にはなぜ自由が必要なのでしょうか。ミルの考えでは、それは人間の可謬性と高い修正能力ゆえです。つまり、人間はえてして判断を誤るが、それを自由な討論によって修正する能力にも富んでいるというのです。それゆえ、ミルは自由の確保を「自分自身の可謬性に対して予防策をとる」ことと見なします。これは一種の「リスクヘッジ」と言い換えてもよいでしょう。[…]
人間は誰でも失敗する。この誤謬の可能性を織り込んで、人間の考えを最大限に多様にし、オープンな討論を経て意見を修正してゆくことが、ミル的な自由主義の基本的な考え方です。
(福嶋亮大、2022『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』星海社)
〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる。
(國分功一郎、2011『暇と退屈の倫理学』朝日出版社)
そして繰り返すが、「仮想現実から拡張現実へ」というキャッチフレーズは情報産業のトレンドの変化を表現するもの以上の意味を帯びている。それは僕たちの虚構観そのものの変化でもあるのだ。20世紀的な劇映画は、ディズニーのプリンセスストーリーたちや『スター・ウォーズ』、そしてMCUが代表するように半ばグローバルなコミュニケーションツールとなり、そして『ポケモンGO』が代表する21世紀的なアプリゲームは通勤や買い物といった生活そのものを娯楽化する。「ここではない、どこか」に、外部に越境することではなく「ここ」に、内部に深く潜るための回路を、いま、僕たちは情報技術に、そして虚構そのものに求めつつあるのだ。
(宇野常寛、2020『遅いインターネット』幻冬舎)
言葉は光だ。私が目で世界を見ているのは、光があるから。同じように言葉で照らせばそこに世界が浮かぶ。
(藤岡みなみ、2022『パンダのうんこはいい匂い』左右社)
ZINEやリトルプレスと呼ばれるような小さな出版物をよく手に取ります。とりわけ惹かれるのは日記です。日常を綴るための言葉、普段遣いの言葉は、辞書には載っていなかったり、文法的に見たらおかしなところがあったりするかもしれないけれど、いわんとすることは実感としてたしかに伝わってくる。このうねり、グルーヴ感に身を委ねていたいと感じるような言葉。校正を通した出版物ではあまり見ることのない、野の言葉とでも呼びたいような言葉にふれると、書くことはもっと自由でいいのにと思います。
(牟田都子、2022『文にあたる』亜紀書房)
昨今、多くの企業や個人が創造性やイノベーションの創出やその体系化に躍起になっている。だが、創造性やイノベーションの本質は、文化人類学者レヴィ・ストロースが言うところの「ブリコラージュ」(相互に異様で異質な物事が出会うことで新しい「構造」が生まれるという意味)にあり、創造性やイノベーションの非予定調和的な性質は体系化に馴染みづらいと私は考えている。
一方で、創造性やイノベーションが生まれやすい、確率を高くする環境や土壌を創出することは可能である。イノベーションの打率を上げることと言ってもよい。創造性やイノベーションの本質がブリコラージュにあるとすれば、これまで出会わなかったヒト、モノ、コトが偶発的に出会い、交配する機会を最大化することが創造性やイノベーションの源泉となる(法学者ジョナサン・ジットレインの言葉を借りれば、「生成力(generativity)」を高める、ということになる)。そのためには可能な限り多くの情報、事物など、有形・無形のあらゆるリソース(資源)を誰もが自由にアクセスし、利用できること、リソースの自由利用性=「コモンズ」を確保することが重要になる。コモンズは、他分野からの参入障壁を破壊し、価格や品質をコモディティ化することで、その分野の境界を融解し、創造性やイノベーションを促進するのである。
(水野祐、2017『法のデザイン—創造性とイノベーションは法によって加速する』フィルムアート社)
かつて写真は非常に限られたタイミングでしか撮られず、それが現在との断絶を印象づけ、写真に備わる一種の「思い出性」とでも呼べる性質を支えていた。これは人間の記憶に似ている。大部分を忘れてしまうからこそ、覚えているごく少数の記憶が思い出として重宝される。思い出とは、その少なさに支えられている。[…]
量の問題は写真にとってとても重要だ。死ぬときに見るという走馬灯は、大部分を忘れたダイジェストだから可能な現象だろう。インスタグラムの「ストーリーズ」は写真をあくまで思い出の領域にとどめておこうとする試みのように思える。
(大山顕、2020『新写真論 スマホと顔』株式会社ゲンロン)
幼い日の畑で、祖父母が飲んでいた水筒の中のポカリスエットは、きっと少し生ぬるかったろう。毎朝、日課のようにそれを缶から水筒に移しかえていた祖母の姿も、むわっとした暑さに満ちた畑で空を仰ぐようにカップを傾けていた祖父の姿も、時が経てば経つほど、なぜか、歳月に補われるように逆に鮮明になっていく。覚えていたい、と思うからかもしれない。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
何処か遠くの、自分にはまったく馴染みのない国で作られた作物を食べるということ。それは、その作物を育んだ土地の歴史を肉体の一部として所有することです。こういう言い方がロマンチック過ぎるのであるならば、少なくともその地の一定の時間的経過を物質の形で摂取することだと言い換えてもいいでしょう。その作物を育んだ土が提供する栄養は、そもそもの地質と、気象条件と、そこで起こった様々なこと(戦場であったこともあれば、荒野であったこともあるでしょうし、その後に耕され、肥料を与えられたことも含めて)とが複雑に影響しあった結果です。
(平野啓一郎、2006『文明の憂鬱』新潮社)
「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? […] 展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」
蒔野はそう言うと、少し間を取ってから言った。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
(平野啓一郎、2019『マチネの終わりに』コルク)
「現代の日本は、目に見える身分差別はもうないですけれど、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆さん傲慢です。その一方で、善良に生きている人ほど、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて、“自分がない”ということになってしまう。傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代なのだと思います」
(辻村深月、2019『傲慢と善良』朝日文庫)
友を選ばば 書を読みて
六分の侠気 四分の熱
(与謝野鉄幹、1901『鉄幹子』「人を恋ふる歌」)
「水崎氏のこだわりは細かすぎて伝わらないヤツじゃないですか。」
「動きの鑑賞自体は別に珍しくもないんじゃない? 金魚の尻尾がヒラヒラしてるのって綺麗じゃん? 桜吹雪とかもさ。風で舞う様子が素敵なんだし、ダンスも動きのパフォーマンスじゃん。」
「アニメも動きの鑑賞すか。」
「その中でもアニメは 一番濃厚なんだよ。」
「絵に描いたものは作者が意識して描いたものだからね。」
「そう! アニメーションでデフォルメされた動きとかは、地味な仕草でも、「動きの細部に注目して描いてる」って点で強いインパクトを持ってんだよね。そこが実写とは、違うとこ。」
(大童澄瞳、2017『映像研には手を出すな!』小学館)
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
(日本国憲法・前文)
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
[…]
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
(伊丹万作、1946『映画春秋』創刊号)
トイレに行ってインスタントコーヒーを作って戻ってきた私は酸素飽和度が97に戻るのを待ってからiPhoneを手にする。
<中絶がしてみたい>
暫く考えてみて、そのツイートは下書き保存する。私はノートパソコンのブラウザからEvernoteを開く。炎上しそうな思いつきは取り敢えずここに吐き出して冷却期間を置くのだ。
<中絶と妊娠がしてみたい>
<私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう>
<出産にも耐えられないだろう>
<もちろん育児も無理である>
<でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから>
<だから中絶と妊娠はしてみたい>
<普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です>
[…]
1996年にはやっと障害者も産む側であることを公的に許してやろうよと法が正されたが、生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺しは結局、多くのカップルにとってカジュアルなものとなった。そのうちプチプラ化するだろう。
だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?
それでやっとバランスが取れない?
(市川沙央、2023『ハンチバック』文藝春秋)
たとえばセックスから介助まで、身体の接触を伴うコミュニケーションでは、言語外の、無意識の領域も含めた双方向的なコミュニケーションが発生する。このとき相手を独立した存在として尊重しつつ、互いの身体の一部を同化させることが要求される。こうしたコミュニケーションが成功したとき、自己の一部が他者と融解することで、自己を維持したまま他者に向けて開かれる。
セックスにおける相互の自己滅却の欲望が交錯した結果もたらされる生成から、介助者と被介助者との間に発生する生成まで、ときにロマンチックな修辞を凝らして語られるコミュニケーションの共通点は、自己を部分的に滅却し、他者と部分的に同一化することが、その対象を他の人間と交換することのできない存在であると認識させる点にある。このとき「私」は「私たち」になる。
(宇野常寛、2022『砂漠と異人たち』朝日新聞出版)
厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負担をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ーーー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。[…]
こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、[…] 紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。
(市川沙央、2023『ハンチバック』文藝春秋)
多様性を認め合いながら共生するのは、とても素晴らしいことに違いない。けれどそのとき僕の目に映ったのは、見間違えようもないくらいの、どのような異論も認められないほどの、圧倒的な破壊だった。僕はその破壊を誰もが認める「破壊」とするだけの言葉を持っていないけれど、それは破壊だった。そして高額納税者でもなく、世界に何の影響力も持たない一市民が破壊に対してできることといえば、破壊後の新しい世界のルールを誰よりも早く覚えて、適応することしかないのだと、僕にはわかる。そうでもしないととても生き残っていけない。
(九段理江、2024『東京都同情塔』新潮社)
なぜ人間がコミュニケーション=交換を行うかを問うても意味はない。コミュニケーションをし続ける存在が、つまり人間なのだ。
ここで「私という中心がある」ことを前提とする西洋的な近代哲学が解体されることになる。「私」が自由意志によって誰かとコミュニケーションしようとする、という前提は、「コミュニケーションの環を途切れさせないために、私がいる」というふうに、まるっと転倒させられる。人間がコミュニケーションを道具として「使っている」のではなく、コミュニケーションに人間が道具として「使われている」。[…]
イルカと一緒に泳ぐ時に、言語とは違うカタチで人間とイルカはコミュニケーションを交わす。農家が「明日は風が強そうだ」と予想して畑の作物に覆いを被せるのは、人間と植物のコミュニケーションだ。
自分の外側にある異なるものと自分の身体が相互にコミュニケーションした結果、そのフィードバック(作用)として私というものがあらわれる。最初から確固とした「私」がいるわけではなく、誰かとコミュニケーションを交わしてはじめて「私」が見えてくる。
(小倉ヒラク、2017『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』木楽舎)
「お金を稼ぐためにしかたなくすること」
「プライベートと反対の緊張する時間」
「どんどん規模を大きく発展させなければいけない」
こういう仕事観は、果たして自明なのだろうか。お金も休みも発展も必要だが、でもそれ自体は目的ではない。大事なのは、人が仕事を通して「何に気づくのか」だろう。お金や規模などの「結果」ではなく、働くことで自分の世界を豊かにしていく「プロセス」なのではないか。自分がどんな世界に生き、どんな存在と関わっているのか気づき、その気づきの解像度を上げていく。プロセスにこそ仕事の本質的な価値がある。
(小倉ヒラク、2017『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』木楽舎)
春のアカデミー賞で候補になった『バービー』『オッペンハイマー』『哀れなるものたち』『アメリカン・フィクション』『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』といった映画はどれも、二十世紀に白人が残した負の遺産をセルフ懺悔するコンセプトを持っていた。バービー人形という白人ルッキズムと資本主義の合成物。原爆。男女差別。黒人と白人の格差。ネイティブアメリカン虐殺。もう誰の責任か追及できないぐらい昔の、すでに起きてしまった過ちを、白人俳優たちが「私たちは自分の愚かさをちゃんと分かってます」って顔で演じてみせる映画を、ハリウッドは強迫観念のような勢いで量産した。それが単発の作品に止まらなかったのは、ひとつ大きなメリットを獲得したから。それは「白人たちの懺悔ショーであれば今まで通り白人ばかりが中心にいても問題視されない」という暗黙の了解だった。それは、作る側にも観る側にもずっと溜まっていた「白人だけのロマンスを蘇らせたい」という欲望を叶える光だった。作品賞を受賞した『関心領域』もまた、ナチスのホロコーストをスタイリッシュにまとめた、白人懺悔の文脈を引く作品といえた。ナチスの政権下、すぐ近くで起きているホロコーストの気配を無視して優雅に暮らす人々。「これこそが今パレスチナで進行中の虐殺に対する、我々の無関心さを表現しているのだ」というメッセージを、私たち観客はこの映画を観るまでもなく把握した。多くの観客が望んだのは「関心領域」の外に目を向けることでも「関心領域」の内で無慈悲に暮らすことでもなく、そうした図式そのものをシンプルに把握することだった。もう誰も本編を観ない。しんどくてめんどうな時間を一方通行に、まともな速度で過ごしたい人なんて私たち観客のなかにはほとんど残っていない。コンセプトだけでいいのだ。細かい議論は切り捨てられた。
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
「何もしないほうがいい? 何もしないはないでしょ」キースが横からまた食ってかかった。「本当は色々できたんじゃないの」
パパは話が逸れるのを恐れるように、俯いたまま返事をした。
「色々って? 君がやったようなことをですか? それ介入って言うんじゃないのか」
「別にお父さんだって、何もしないってこと、ないですよね。手術とかそういうのをさせないってことをしてますよね。こうゆう未来もあるよって情報を教えないってことを、してますよね。大人になるまで待ってほしいとか言うけどそれ、あわよくばそのまま男でいて欲しいって思ってんじゃん。あんたの何もしないって、色々やってますよね」
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
「べつに子供なんて男でも女でもいいんだよ」疲れ切ったようにパパは笑った。「っしょーじきな話。血まみれの赤ん坊が命がけで産まれてきて、それみて男か女かなんていちいち考えないだろ。それが本当の気持ちだよ。これが本当の親のエゴ。自分の子供なら、親は正直どっちでも可愛いです。まじでどっちでもいいの。親だけの気持ちでいったら、ね? でもさ汽水くん、そんなふうに子育てって決めれないんだよ。君もいつか子供持つか分かんないけど、その子が何をもって幸せかって、親が決めてはいけないんですよ。何をもって健康で、何をもって幸せと定義するのかって、あらかじめ基準がいっぱい決まってるんだよ。
いま、出生前診断っていうので世界的に障害を持った胎児の中絶が増え続けてるっていうのがあるんですけど……年々だよ? それは生まれてくる前の段階から、こうあるべきってことが決められてることも関係があるんだよ。これ綺麗事じゃない。ハーフの子供だってそう。同じようにうんと中絶の対象になってる。汽水くんやモモと同じような子供たちが、生まれてからも児童養護施設にたくさん預けられている現実があるんだよ。君のとこだって、お姉さん二人いるよね。それで末っ子の君が生まれて、その下にはもう、誰も生まれていないよね。そういう男の子が末っ子のきょうだいってすごく多いよ。多いけど、だからって親御さんに全く愛情がない訳じゃないでしょう。むしろ逆だよ。食い物ひとつとってもそう。この子にいいものをたくさん食べさせてあげたいって気持ちで与えるものが、本当にその子にとっていいものなのか。油断したら中毒を起こすかもしれない。それを一個一個親だけで判断するなんて、とても恐ろしくてできないんですよ。絶対に親だけで決めちゃいけないんだってことを、子育てしてると何度も思い知るんだよ。親なんてな、子供のこと、ほぼひとつも決めてあげられないから。 こうすべし、っていうマニュアルを一個一個執拗に潰しながら参照するしかないんだよ。男に生まれたら男に育つのが健康っていう、それが今のルールなら、おれはまずそれを参照する。僕はなるべく、自分の一番大切な子供がそうなれるように、監督する責任がある」
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
『むしろ逆かな』『うまく説明できるか』『分からないけど…』『自分にとって』『あたりまえの欲求が』『他人にとって』『暴力になるとしたら』どうする?、と促すように、おまえは眉毛をあげて彼女を見た。『欲求そのものを』『ガマンしようなんて』『自分を過信しすぎてる』『いつか自分本位に』『タガを外して』『誰かを傷付ける』『だから大切なのは』『欲望そのものが』『消滅するまで』『範囲を設定すること』『そう思う』。おまえは言葉を止めて、体を捻った。そして指を使って砂に漢字で、域、と一文字だけ書いた。『この漢字の意味は』『ゲームのフィールドとか』『フットサルのコートとか』『ボクシングのリングみたいな』『そういう意味なんだけど』『俺はこれを』『探してる』『ここは自分にとって』『そういう域だ』『不謹慎かもしれないけど』『君や彼らが』『延々とデートして』『喧嘩したり』『全力で競ってるのが』『すごく落ち着くんだ』。
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
「傷モノは絶対に泣き言を言っちゃいけないんだ」。それがMr.マドリードのルールだった。「それに現代のように、いち個人の行動とバックグラウンドとを安易に結びつける社会で、トラウマを開示することはつまり、人格をジャッジする権限を明け渡すようなものだよ。他人にペラペラ教えるべきじゃない」
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
「例えば多くの植民地には軍の基地が置かれているけど、そこでは軍人と現地民の間で子供が生まれるよね。で、フランス海軍のポリネシア撤退を訴えることは簡単だけど、その結果として生まれた子供を前に、軍をはじめから設けなければ良かったと言える人は少ない。それは現実の人間に生まれなければ良かったって言ってるのと同じだからね。デート兵は、生きた子供を使って、『歴史上のこれ以前には逆行できない』っていう杭を打った。植民地ではいろんなものが兵器になるんだ。銃、核、選挙権、性欲、愛、子供……ほぼ全ての行動が、力関係の中で兵器になれる。おれたちの笑顔も、この世界を温存させ、時間の流れを固定していく。 […] 」
(安堂ホセ、2024『DTOPIA』河出書房新社)
ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(Jhn Keats, 1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capability)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capability」とは、何かを達成する、あるいは何かを探究して結論に至ることのできる力を意味する。しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて留保することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
世界の多様性。それは世界の複雑性に直結している。この複雑性を豊富さととる人もいれば、難解さととる人もいる。豊富さととる人の中には、それを広げようとする人もいれば、自分たちのためだけにとっておこうとする人もいる。難解さととる人の中には、理解しようとする人もいれば、拒絶する人もいる。その対処からして、多様であって、複雑である。複雑さは決して混沌を意味しない。しかし混沌と見誤っても仕方のないほどのスピードで現代の情報社会は流動し、あれもこれも今すぐいっぺんに押し寄せる。それはほとんど、一個人のキャパシティを超えてしまっている。多くの場合、人々はそれに対し、反射的に畏怖こそすれ、あるがまま愛することは難しい。世界は多様である、という真理と同じくらい、世界はいかに一つであるべきか、という問いの出自は古い。その二つはいわば抱き合わせで、特に一神教をその基盤とする西洋的知性において、何度も繰り返し問われてきた。
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
「ああ、まったく」と「先生」は頷く。「実生活から取ってこようと、書物から取ってこようと、そんなことはどうでもよいのだ、使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ! 私のメフィストフェレスも、シェイクスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェイクスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものを作り出さなければならないのだろうか? 芸術には、すべてを通じて、血統というものがある。かつてのドイツの若者は会話の節々で聖書を引用することができるように教育されたが、それは結局、感情や事件というものが永遠に回帰することを暗示し明示するのだ。我々の思想を表現するのに先人の吟味された教養ある言葉を用いるとき、彼らが我々の心の奥深くを我々以上に巧みに開いて見せることを認めるのだ。巨匠を見れば、常にその巨匠が先人の長所を利用していて、そのことが彼を偉大にしているのだ」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
「でも、これはまさにそういう話。結局、我々は過去の時代について、残された断片から想像するしかない。古典学者が勘違いしたのも仕方ない。だが、我々が新たな物の見方を獲得したと同時に、古代人の見方を失ってもいることは忘れてはいけないけれど」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
「 […] でもね、言葉はどこまでいっても不便な道具です。使い慣れる、ということがない。僕は未だに和子と喧嘩するよ。たまに会う若い学生さんの言葉を遮りもする。誰かの言っているとが全然分からなくて、耳が悪いふりで誤魔化したり……その代わりになるものがなかなか見つからないから、ずっと使っているだけのことでさ。僕はねぇ、こう考えたことだってあるんだよ? 例えばセックスはどうだろうって?」
學がこんな露骨な単語を口にすることに統一は眉を顰めると同時に、思わず姿勢を正してしまう。
「うん、これは言葉より確かだ。近く感じる。何より温かい。でも続かない。やはり、僕は言葉の方が性に合う。何かと刹那的な感覚に辟易している世代だから、不変的な、それでいて普遍的なものが欲しいんですね。そして、結局、僕には祈りしかなかったんだよ。つまり、今自分が語っている限界のある言葉を、聖霊が翻訳して、神に届けてくれる。それによって、何はともあれ、すべてやがてよしとなる、と信じること。もしかしたら、あらゆる言葉は何らかの形で祈りになろうとしている、ともいえるかもしれない、とこう思うんだね……や、悪いなぁ、君にはいつもこうやってお説教をしてしまって。 […] 」
(鈴木結生、2025『ゲーテはすべてを言った』朝日新聞出版)
「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」
(村田沙耶香、2021『コンビニ人間』文藝春秋)
勧善懲悪の物語が成立するためには、冷酷非情な殺人者といった懲らしめられるべき〝悪人〟が必要だ。しかし、私は保育園などで、まだ生まれて間もない子供たちを見ていて思うのだが、この無邪気な子供たちの誰かが、将来、殺人者になるとして、それは本当にこの子たちの自己責任なのだろうか? 子供たちは、社会の中で様々な分人化を経験して、大人になる。そうすると、犯罪の責任の半分は、やはり社会の側にある。
(平野啓一郎、2012『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』講談社)
「何か、よほどのことがあれば、人を殺してもいいという考え自体を否定することが、殺人という悪をなくすための最低条件だと思う。簡単ではないけど、目指すべきはそっちだろう。犯人のことは決して赦さないだろうけど、国家は事件の社会的要因の咎を負うべきで、無実のフリをして、応報感情に阿るのではなくて、被害者支援を充実させることで責任を果たすべきだよ。いずれにせよ、国家が、殺人という悪に対して、同レヴェルまで倫理的に堕落してはいけない、というのが、俺の考えだよ。」
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
「そうですね、……大祐さんの人生と混ざっていくのか、同居してるのか。──そうなると、僕たちは誰かを好きになる時、その人の何を愛してるんですかね? ……出会ってからの現在の相手に好感を抱いて、そのあと、過去まで含めてその人を愛するようになる。で、その過去が赤の他人のものだとわかったとして、二人の間の愛は?」
美涼は、それはそんなに難しくないという顔で、
「わかったってところから、また愛し直すんじゃないですか? 一回、愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう? 色んなことが起きるから。」と言った。
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
グラフィック・デザインの目的は、イヴェントにせよ商品にせよ、何かが存在していることの告知である。知らされなければ、それは、そもそも存在していないかのように黙殺されてしまう。ポスターは、「ここにこれがある!」ということを、美の力を借りて訴えるのであり、結果、その表現は芸術の域にまで高められることもある。
しかし、芸術とはその実、資本主義とも大衆消費社会とも無関係に、そもそも広告的なのではあるまいか?──例えば、燃えさかるようなひまわりの花瓶がある。草原を馬が走っている。寂しい生活がある。戦争の悲惨さがある。自ら憎悪を抱えている。誰かを愛している。誰からも愛されない。……すべての芸術表現は、つまるところ、それらの広告なのではないか?
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
直接のきっかけは、修学旅行でオーストラリアに行く時に、パスポートが気になるなら帰化してはどうかと、父親に勧められたからだった。城戸はそれに従ったが、その時に、父が、韓国という国には、お前の「実感」がないから、万が一、旅先で何かあっても、やはり保護してくれるのは日本政府の方だろう、と言ったのが忘れられなかった。韓国政府は、お前という人間がこの世に存在していることを、今現在、まったく捕捉していないから、と。
父は、たった一度しか言わず、城戸も聞き返さなかったが、「実感」ではなく、「実体」と言いたかったのだろうと思っていた。彼は、韓国で生活をしたことがなく、国民としての「実体」が、そこにないことは事実だった。
しかし、それからもう二十年以上経っても、その時の「実感」というふしぎな言葉は、彼の頭に染みついて離れなかった。一種の擬人法で、韓国という国家に、自分の存在の「実感」を持たれていない、という奇妙な想像だったが、彼自身が逆に、韓国という国を「実感」し得たのは、恐らくその時が初めてだった。
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
「異性の性器に性的な関心があるのは、どうして自然なことなんですか」
寺井検事、と、越川の声が聞こえる。
「ひとりの異性に何十年も性的に興奮し続けることは、誰かにこうして取り調べられることがないくらい自然なことなんですか」
(朝井リョウ、2021『正欲』新潮社)
「そう。そういうのが強調されると、その人の持ってる他の色んな面が無視されちゃうでしょう? 人間は、本来は多面的なのに、在日って出自がスティグマ化されると、もう何でもかんでもそれですよ。悪い意味だけじゃなくて、正直僕は、在日の同胞に、俺たち在日だしなって肩を組まれるのも好きじゃないんです。それは、俺たち石川県人だもんな、でも同じですよ。〝加賀乞食〟なんて、自虐ネタをフラれても、そういうところがある気がしないでもないけど、何かにつけて言われるとね。……弁護士だろう、とか、日本人だろう、とか、何でもそうですよ。アイデンティティを一つの何かに括りつけられて、そこを他人に握り締められるってのは、堪らないですよ。」
(平野啓一郎、2018『ある男』文藝春秋)
時計に目を遣って、僕は、三十三分間という、この電車に乗っている時間のことを考えた。下車後の僕は、乗車前の僕より、既に三十三分、死に接近しているのだった。実際には、通勤のストレスは、乗車時間以上に寿命を縮めているだろうが。
それが、一日二回、数十年に亘って繰り返されるということ。……
僕は生きる。しかし、生が、決して後戻りの出来ない死への過程であるならば、それは、僕は死ぬ、という言明と、一体、どう違うのだろうか? 生きることが、ただ、時間をかけて死ぬことの意味であるならば、僕たちには、どうして、「生きる」という言葉が必要なのだろうか?
(平野啓一郎、2021『本心』文藝春秋)
僕の生活には、そもそも、もうそれほど、後退れる余裕がないのだった。背後にすぐに、たった独りになってしまう、という孤独が控えている時、人は、足場が狭くなる不自由よりも、とにかく何であれ、摑まる支えが得られたことの方を喜ぶものだろう。
(平野啓一郎、2021『本心』文藝春秋)
人は一般に、愛の方が性欲よりも崇高で、純粋だと勘違いしています。しかし、私に言わせれば、これは言語道断の誤解であって、愛などというのは、偽りと打算に満ちた、遥かに不純な代物です。愛が脆いのは、その混ぜ物のせいです。
しかし性欲は純粋です。それはただ、ひたすらに合一化だけを夢見る欲望であって、決して愛だとか、況してや生活だとか(!)に堕落することはないのです。
(平野啓一郎、2014『透明な迷宮』新潮社)
「そう。記憶は、いつまでも同じじゃなくて、思い出す度に上書きされるって言うでしょう? 今日、あの夜の光景を思い出したら、明日は、今日思い出したあの夜の光景しか思い出せない。ヴィデオで撮影して、二人でそれを見れば、あの夜の記憶にも、きっとそれが上書きされる。消そうとしないで、そうやって今の二人を塗り重ねていった方がいいと思う。」
(平野啓一郎、2014『透明な迷宮』新潮社)
パート先の常連客の言葉に傷ついて母の胃に潰瘍ができたり、泉が彼氏の言葉に耳を真っ赤にしたりするのを見ればわかる。自分だけの体を持っている人はいない。みんな気がついていないだけで、みんなくっついて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあっていて、独占できるものなどひとつもない。
(朝比奈秋、2024『サンショウウオの四十九日』新潮社)
音楽を人に届ける段階に入って必要なのはやっぱりコミュニケーションで、独りっきりで思い込みの強い状態でやるよりも複数人とやったほうがより多くの人に届くだろう、というのはいつも思うことである。いわばアレンジャーやレコード会社の人、MV監督というのは最初にアーティストが思いついたアイデアを世間に伝えるコミュニケーションのプロなのである。ただこうしてフィルターが多数入っていくと、ただでさえぼんやりした音楽というものの輪郭がさらにぼやけてしまい、自分の作ったもの、という感覚から離れてしまうような錯覚に陥る。自分に関して言えば一定の割合以下の作業しかしていないものに関しては急激に記憶の中から薄れてしまうという現象がある。自分が決めている範囲というのは個性を決定する上でとても大事な要件だと思う。
(tofubeats、2022『トーフビーツの難聴日記』ぴあ)
「俺はな、自分が知りもしないものやこと、人を、他人が垂れ流した無責任な情報に便乗して叩こうとするやつが吐き気をもよおすほど嫌いなんだよ。実際、なかなか面白かったぞ。読んでるときは夢中になったし、健太がはまる理由もわかる。言っただろう? コミュニケーションは相手のことを知りたいと思う気持ちから始まるんだ」
(裕夢、2019『千歳くんはラムネ瓶のなか』小学館)
しかし、ルソーの構想においては、人民が社会契約で生み出したのはあくまでも一般意志であり特定の政府ではないので、そういう話にはならない。政府は一般意志の執行のための暫定的な機関にすぎない。だから、人民はいつでもその首をすげかえることができる。ルソーははっきりと記している。「たまたま人民が世襲の政府を設ける場合、それが一家族による君主政であろうと、市民の一階級による貴族政であろうと、人民が行なったことはけっして約束ではない。それは、人民が別の統治形態をとろうという気を起こすまで、人民が統治機関に与えた仮の形態にすぎないのである」。この主張がフランス革命を準備した。
社会契約は、あくまでも個人と個人のあいだで結ばれるものであり、個人と政府のあいだで結ばれるものではない。主権は、人民の一般意志にあり、政府=統治者の意志にはない。
(東浩紀、2011『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社)
目の前で苦しんでいるひとがいたら、自分の利害はともかく、とりあえず放っておけないという憐れみの感情。反省以前の情念。精神分析の言葉を用いるならば「無意識」の反応。じつはローティは、たいへん興味深いことに、そのような心の状態こそを「リベラル」と呼ぼうという提案を行っている。「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びとが、リベラルである」と彼は宣言している。これはずいぶんと奇妙な提案である。というのも、「リベラル」ないし「リベラリズム」は一般には、あらためて指摘するまでもなく、自由という理念を重視する人々、およびその思想を意味する政治用語であり思想用語だからである。にもかかわらず、ローティは、それをあえて、理念を必要としない、身体的な反応を意味する言葉として捉え返した。ここには明らかに、自由とは、抽象的な理念ではなく、むしろ、動物としての人間がたがいに憐れみを抱き感情移入をしあう、その具体的な状態をこそ意味する言葉だったのではないか、そのような問題提起が込められている。
(東浩紀、2011『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社)
みんな本当は、気づいているのではないだろうか。
自分はまともである、正解であると思える唯一の拠り所が“多数派である”ということの矛盾に。
三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。
(朝井リョウ、2021『正欲』新潮社)
世界に素手で触れていること、その手触りを人間間の相互評価のゲームではなく、開かれた事物の生態系に関与できることで得られる場所であること、それが「庭」の条件として必要になる。これは、これまで確認してきた「庭」のふたつの条件を総合したものでもある。そして、このとき重要なのが、私たちがそこにある事物とその生態系に「かかわる」ことができても、「支配」することはできないということだ。
私たちが庭の花に手を入れたとき、たしかにその場所に関与し、変化を与えることができる。しかし私たちはその場所を、完全に支配することはできない。庭の生態系は庭の外部に常に開かれている。花の種は虫に運ばれて、次の春には私たちが予想もしなかった庭の隅に芽を出すかもしれないし、外側から飛来した見知らぬ草の種が芽吹いて丁寧に刈りこんだ芝生を台なしにしてしまうかもしれない。あるいは、どこからともなく飛来したバッタの群れが、すべてを食い荒らすかもしれない。人間には「庭」を完全に支配し、コントロールすることができないのだ。しかし、この不完全性こそがその場所を、プラットフォームの貧しさから解放するのだ。
(宇野常寛、2024『庭の話』講談社)
ナショナリズムは近代国家を構成する欠かせない「イズム」だが、その内実はじつはあまりない。第六章でも名前を挙げた大澤真幸が指摘するように、ナショナリズムには、自由主義や社会主義や共産主義のような哲学的な基礎が欠けている。にもかかわらず、それはふしぎなことに世界中の人々を惹きつけ続けている。その事実は、ナショナリズムの力が、理性ではなく欲望に、国民の意識ではなく無意識に根ざしたものであることを意味している。ナショナリズムとはまずは情念の問題なのだとすれば、ナショナリズムに駆動された国民に対して、欲望の対象がいかに魅力を欠いているか(国家がいかに虚像で覆われているか)、欲望の実現がいかに「高くつく」 ものなのか(排外主義がいかに経済的に損になるか)、一所懸命説いたとしてもたいして効果は望めないのもまた当然のことだろう。実際に過去四半世紀、知識人たちは理知的なナショナリズム批判をあちこちで繰り返してきたが、政治的にはほとんど影響力をもつことができなかった。
(東浩紀、2011『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社)
結局のところコンテンツの相場というものは、人間が社会的にそのコンテンツにどれだけ依存しているかによってバランスが決まるというのがぼくの考えです。コンテンツというのは生きるための必需品ではありませんから、依存度で決まるというのはピンと来ないかもしれませんが、コンテンツを消費したりお金を払う人というのは、なにかしらそうせざるをえない自分の中での必然性があるのです。個人の生活リズムの中だったり、周囲の人たちとの社会的な付き合いのためだったり、潜在的なストレスや欲求の解消のためだったり、なんらかの必然性でもってコンテンツに依存するようになるのです。コンテンツを無料でもいいから配布することでプロモーションをするという戦略は、まずコンテンツへの依存をつくるという意味では正しいのです。コンテンツを利用していない段階では、まだそのコンテンツのある生活に依存していないのですから、無料という価格が適切になりえます。そしてコンテンツにある程度、依存し始めた状態で課金をすれば、今度はお金を払ってくれる確率が高くなります。言い方は悪いですが、コンテンツビジネスというのは、人間をある種の中毒みたいな状態にすることでお金を払ってもらえるようにするという構造があるのです。もちろん中毒とはいってもその作用は人間を幸せにしたり辛いことを忘れさせたり夢中にさせたり楽しい気分にしたりといった罪のないものではあるのですが。
(川上量生、2015『鈴木さんにも分かるネットの未来』岩波書店)
ルネッサンスとは何だったのか? たとえば、聖母マリアを例に取ると分かりやすい。マリアを描き、彫刻に彫るときの大きなテーマはキリスト教の祈り。ルネッサンスの始まりは、そのマリアを荒々しいリアリズムで表現したことにあったそうです。
それが、時代が進むと、マリアにはその古典となるべき完成形が誕生し、さらに時代が進むと、今度は細部にこだわるようになり、最後はぎらぎら飾り立てるものになったといいます。細部にこだわったときには、本来のテーマであった「祈り」はどこかへ行ってしまい、残ったのは、たんなる女体だったそうです。
以上をまとめると、アーカイズム→クラシック→マニエリスム→バロックという流れになり、美術の歴史はこの四つのサイクルの移り変わりになるというのが高畑さんの説です。
(川上量生、2015『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』NHK出版)
そして彼の中のひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。「先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい』。これが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様に大切である。『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』」。
(新約聖書「マタイによる福音書」22章 35〜39節)
社会学にとどまらず、人類学や経営学、政治学、アートなど幅広い分野で応用されている「アクターネットワーク理論」(以下、ANT)というものがある。フランスの社会学者であるブリュノ・ラトゥールが代表的な提唱者だ。
ANTは人びとの集まりが「社会」を構成するのではなく、非人間(生物、無生物、 人工物、技術などあらゆる要素)を含む異種多様なアクターの連関が「社会的なもの」を組み立てていると考える。
ラトゥールは社会を基本的に複数の人間の集まりと捉える「社会的なものの社会学」を批判し、非人間を二次的なものと位置づけることのない「連関の社会学」を打ち立てた。
要するに、行為する主体としての人間だけではなく、人間以外のさまざまな要素が果たすネットワークをたどり、その結果として社会を見る必要を訴えたのである。人間/非人間にかかわらず、アクターは他のアクターとの連関を通じてエージェンシー(行為や作用を生み出す力行為主体性)を発揮する。ANTはこのように近代の人間中心主義からの脱却を前提にして「社会」を捉える理論だといえるだろう。
たとえば、ANTからすれば、子供が遊具を主体的に用いて遊んでいるとは捉えない。子供の遊びを構成するのは、人間の行為だけではなく、遊びの空間を構成するあらゆる要素遊具、大地、自然、天気、技術、素材などのアクターである。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
中島岳志は、「合理的利他主義」が、自ら「利他」だと思った行為が、そのまま利他として受け取られることが前提となっていることの危うさについて触れ、与え手が意思をもって利他的行為をしても、それが利他であるかはわからないという。
自分の行為の結果は所有できるものではない。あくまでも与え手の意思を超えて、 受け手がその行為を「利他的なもの」として受け取ったときに、初めて相手を利他の主体に押しあげることができるのである。
伊藤亜紗は、「私の思い」による利他的な行為が他者をコントロールし、支配することに警鐘を鳴らす。これをすれば相手は喜ぶはずだという利他の心は、善意の押しつけにもなりうるし、容易に他者の支配へと転じるという。
[…] だからこそコントロールを手放す。不確実性を受け入れる。伊藤は「うつわ的利他」という言葉で、相手が入り込める「余白」をもつことの重要性を説いている。 […]
伊藤はまた、他者への「ケアとしての利他」に意外性を見出す。行為者の計画通りに進む利他は押しつけになりがちだが、ケアとしての利他は、計画外の出来事へと開かれ、他者の潜在的な可能性に耳を傾け、それを引き出すと論じる。さらにそこには自分自身も変化する可能性があるという。一方的でない利他とは「他者の発見」であると同時に「自分の変化」をともなうのである。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
アフォーダンスとは、動物が事物に関わることによって、一定の反応が返ってくる環境の傾向性のことである。簡単な例をあげれば、穴はそこに入ることや中を覗くことを動物に提供(アフォード)する。あるいは石はつかむことや投げることをアフォードする。
ギブソンによれば、ガラスの壁は見ることをアフォードするが、通り抜けることはアフォードしない。モノに限らず、他者の身体もまた、それを知覚する動物に応答的行為をアフォードする。
つまり、環境を感じつつ自ら動くものである動物が、その行為によって周囲の媒質(medium)との関係が変わり、新たな情報が伝わって、またさらなる行為へと導かれてゆく絶え間ない知覚と行為の循環、すなわち取り巻く環境と出合う場面で知覚されるものがアフォーダンスなのである。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
だが、大学は本来、「わかる」ことばかりを積み重ねていくだけではなく、「わからなさ」と向きあう場所でもある。いや、大学こそ後者を「知恵」として涵養する場所のはずだった。何かを知る、わかる、というのも大事だが、大学ではむしろ、当然だと思っていたこと、前提である知識を疑うことが何より必要になる。
だから課題を発見し、「問いを立てる」ことの重要性が執拗に叫ばれる。予備校が大学合格を目的としているのに対して、大学はそれ以上に、問題を見つけ、いかに乗り越えるかを考えることに時間をかけるのだ。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
ホッブズの考えはこうだ。人間はそもそも平等である。それは平等の権利をもっているとか、平等に扱われなければならないとかいった意味ではない。人間など一人一人はどれも大して変わらないということである。
たしかに力の強い人間もいるし、反対に非常に力の弱い人間もいる。しかし、どんなに力が強い人間であっても、何人かで徒党を組んで立ち向かえば打ち倒せないほどではない。人間の間の力の差とはその程度のものである。体を動かせない人間ですら、仲間を集めて彼らに指示すれば、力の強い人間を押さえつけることができるだろう。人間の力比べは所詮ドングリの背比べの域を出ない。ホッブズはこのような人間の力の平等を議論の出発点とする。
ここから次のような帰結が導き出されることになる。人間がその力において大差ないとすると、人間はだれもが同じように同じものを希望すると予想されることになる。なぜなら、「あいつがあれをもっているなら、俺もそれをもっていていいはずだ」と思えるようになるからだ。これを〈希望の平等〉と言う。
[…]
ホッブズの考えでおもしろいのは、彼が平等を無秩序の根拠と考えているところだ。不平等なら秩序が自然に生まれる。だれがだれに従わねばならないかが明確であり、疑いようがないからだ。だが、人間の力は平等であり、たいした差はない。それ故に〈希望の平等〉が、そして無秩序が生じる。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
あまり自覚されることはないが、20世紀とは「映像の世紀」であるのと同程度には「エンジンの世紀」でもあった。そして前世紀後半のオートバイと自動車の大衆化は、先進国に「交通戦争」とすら呼ばれる状況をもたらした。つい半世紀前まで、この国でも交通事故の死者は1万人を超えていた。しかし、今日においてそれはおよそ1/3以下に減っている。自動車の安全性能の向上、政府の法規制と啓蒙の強化がその主要因と言われているが、同時に人類がエンジンのもたらすスピードという幻想、それを手にしておよそ100年で醒めつつあることが指摘できる。片岡義男(『スローなブギにしてくれ』『彼のオートバイ、彼女の島』)からしげの秀一(『バリバリ伝説』『頭文字D』)まで、20世紀のポップカルチャーにおいて定位置を占めていたこれらの機械への欲望は大きく後退している。強く、大きく、そして「速い」機械による身体拡張の快楽に人類は酩酊し、それがつい数十年前までは工業社会下における男性性の成熟と重ね合わされていた。しかし、21世紀の今日に生活の必要とは無縁にこのような文化に親しむ人々は、次第にかつての香港のカンフー映画を愛好する人々のようにレトロな文化に親しむ趣味人と見なされつつある。
(宇野常寛、2023「いま必要なのは「新しい生活様式」の反省と再評価だという話」note)
小森はるかは震災後、すぐにボランティアで支援活動をするためにアーティストで友人の瀬尾夏美と東北に行ったが、彼女の記録映画を観ていくと、援助をしにいったはずの彼女たちが、いろいろな家に招かれ、食べ物をご馳走になったり、手土産にフルーツをもらったり、与える以上にたくさん受け取る姿が映し出されている。どちらが支援されているのか、わからなくなる。与える/受け取るという二項対立が曖昧化し、主客の転倒が起こる。
利他には必ず「他」としての受け手が存在する。だから利他を与え手の意志のもと百発百中で成功させることなどできない。それならば、利他行為を直接的に他者へと差し向けるのではなく、主体/客体、能動/受動が流動化していく、利他を生み出す可能性を高める環境を作ることに傾注する必要があるだろう。
「効果的利他主義」はこうした懐疑が前提としてほとんど共有されていない。利他は与え手が意志的に「起こす」ものではなく、受け手によって偶然「起きる」ものである。その可能性を高める環境は、ある程度意識して作り出せるのではないだろうか。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
日々行っていることを考えてみよう。私たちはどうやって様々なプロセスを決着させているのか。二人の喧嘩が「程よい」ところでどうでもよくなる──納得したからだろうか、疲れたからだろうか。ネットニュースの渉猟をやめて、ランチに出かける──腹が減ったから、だろうか。プロセスが止まる。止まってしまう、止まることになった。他にもたくさんの可能性が考えられるのに、ある「ここまで」に逢着してしまった。仮に? 説明できる面はある、説明責任を取れる面はある。だがその「ここまで」は、偶々のことでもある。説明可能な因果性がすべてではない、かといって偶然性がすべてなのでもない。因果性と偶然性にまたがるグレーゾーンを考えなければならない。それを示すのに、日本語の「~してしまう」や「~することになった」などの言い回しはとても便利である。私たち=人間がこれらを使った文の主語になるとき、その文は、私たち=人間の(意志にもとづく)責任をいくらか免除する、非人間的な、他の原理の存在をほのめかしている。半分はそれのせいなのだ……。それが、実践のプロセスを、主体の外部において中断する、有限化させる──外的な有限化の原理。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
環境に浸っているのではなく、環境から「浮いている」ような状態。
まずこのことを「例外的」に存在している、と概念化してみます。環境に溶解しないモノらしいモノ。いささか唐突ですが、ここで私は精神分析的に「ファルス」(男根の象徴)の概念を参照するのがひとつの手ではないかと考えます。ファルスとは単一の、まさしく特権的な例外者です。人間の身体においてそれは、その場所だけ特権的に出っ張っている例外的なものです。精神分析の基本的な図式によれば、ファルスはエロスの集中する性感帯として特権的な場所であり、性感帯ではない通常の場所はそれに対立している。したがって、モノらしく切断的にある建築とは「例外的ではない=通常の」エリアから「屹立」したモノ、すなわちファルスを連想させる、と考えてみましょう。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
というのもハーマンの根底には、オブジェクト一個一個が「無限のポテンシャル」を内包するという考えがあるからです。たとえば、ここにあるペットボトルは、私との関係においては「水飲み可能性」や「摑み可能性」など、様々なアフォーダンスを惹起するものとして存在しているわけです。ところがこのペットボトルは、私との関係を超えて、はるかに多くのプロパティを有している。薬物をかけたり、燃やしたりしたときに生じる反応など、私というオブジェクトとの関係においては解き放たれないようなポテンシャルが内在している。この剰余をハーマンは「無限の」と形容する。オブジェクトの内奥は「ブラックホール」だといった言い方をしたりもしています。
しかし、オブジェクトの内奥にあるポテンシャルの無限性が数学的にどういう意味なのはよくわかりません。ハーマンはそこを説明していないと思います。この無限性という点では、レヴィナスを想起させるものがあると私は思います。実際、ハーマンはレヴィナスから影響を受けています。つまり、他者は無限の遠さにあり、私たちがどんなに理解しようとしてもその理解を越えてしまうような、他者の他者性があるという議論です。レヴィナスの場合では、無限に遠い「人間」こそを特別に尊重しなければいけないという立場です。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
まさぐるようにクリックして窃視する、これこそ当時のマルチメディアの、ハイパーリンクの経験である。クリック=愛撫=窃視。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
無償の窃視という素朴さ! 「不思議の国」を覗き回ってそれで済まされるという素朴さ! いまやリンクを「踏む」というのは多少なり詐欺(グローバルな)に引っかかることであり、利害の分岐にコミットすることであり、かつてヴァーチャルと言われたネット空間は、厳しい現実にすっかり飲み込まれてしまった。もはやヴァーチャル「でしかない」ものではない。マルチメディアもハイパーリンクも、生臭い食い扶持になってしまった。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
他の可能性を絶対的に押しのける最善の判断などありえない。人間の判断は、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、もっと多様にありえた考慮を偶然的に切り捨てて「しまった」結果であるしかない。何かが「実質的に」重要だという判断が、唯一、排他的に真であるわけがない。こうした判断の偶然性をあたかも無化して(エビデンスにもとづいて)判断できるかのような幻想が、今日において「安心」や「安全」という幻想を条件づけている。
逆説的に聞こえるかもしれないが、次のように言うべきなのだ。何かを「ある程度」の判断によって、大したことではないと受け流す、適当に略して対応する、ついには忘却していく……このような、「どうでもよさ」、「どうでもいい性」の引き受けは、裏切りの可能性を受忍しつつそれでも他者を信じることと不可分なのであり、そしてそれは、エビデンスの収集によって説明責任を処理することよりもはるかに重く、個として「実質的に」責任を担うことに他ならないのだ、と。
どうでもよさは、説明責任よりもはるかに真摯である。
誤解を避けるために補足する。この問題提起は、エビデンスによる科学的な議論・批判の重要性を減じるものではない。現下の、強迫的な、あるいは、たんに事務処理的であると言えるだろうエビデンシャリズムが前景化している状況においては、意識的・方法的に「ある程度の」どうでもよさの権利擁護をすることが必要なのだ、ということである。どうでもよさの「ある程度」は、根源的には偶然性によって強制終了される判断──その「ある程度」──によって調整されるしかない。
いわゆる「反知性主義」において、恣意的にエビデンスを無視したり、恣意的にエビデンスめいたものを喧伝することがあるとして、本稿はその手の「行動力」を支持するものではない。反知性主義が批判されるべきであるとすればそれは、反知性主義が、どうでもよさの「ある程度」の設定、また、いくらかのエビデンスの設定を、何らかの不当な利益確保のために行っているからである。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
食事というものは、広義に「あまじょっぱい」ものだ。甘みのある穀類を、塩気(と甘み)のあるおかずと一緒に食べるのだから。あまじょっぱい、それは、生と死の、有機と無機の、エロスとタナトスの往還に他ならない。食事は、死に近づこうとする自己破壊の実験でもある。満腹になって眠くなる(あるいは、セックスをして眠くなる)。満腹になって仮死状態になる。食事は、生きて考える持続を中断することである。生きて考えることに疲れ、倒れ込むようにしてなされる食事は、実質的にエネルギーの回復であっても、形式的・儀式的には、死のシミュレーションでありうる。労働の後で、もういい、もうだめだと、食事へ倒れ込むのである。逆に、 食事を死のシミュレーションにしない=生の持続をそのまま延長するためには、食べすぎてはいけない、つまり、眠くならないように調整する(労働の前の少しの朝食、労働の途中に補給する糖)。
(千葉雅也、2018『意味がない無意味』河出書房新社)
ここでインゴルドの「知識」と「知恵」の対比を参照するならば、前者は「モノを固定して説明したり、ある程度予測可能にしたりするために、概念や思考のカテゴリーの内部にモノを固定しようとする」が、「知識の要塞に立てこもれば立てこもるほど、周りで何が起きているのかに対して、私たちはますます注意を払わなくなる」。
(北村匡平、2024『遊びと利他』集英社)
しかし、自然状態ではだれもが自分の生命を守るために好き勝手なことをしており、それ故に平和が訪れない。そこには、だれもが自分の身を守ろうとするが故に、全員の身が危うくなっているという矛盾がある。
ならばどうすればよいか? この矛盾をどう解消すればよいか? ホッブズの議論は簡単だ。自分の身を守るために全員が好き勝手にしているのを、全員で止めればいい。自然が人間に与えた「何でもできるし、何をしてもよい」権利、すなわち「自然権」を放棄し、法の支配を打ち立てればよい(これを第二の自然法則と言う)。
こうして、全員で一つの国家を形成し、一つの権威に従うという社会契約の必然性が導き出される。ホッブズによれば、社会契約は、戦争状態たる自然状態を考察するなら必ずや導き出される必然的な行為なのである。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
(新約聖書「コリントの信徒への手紙」12章 15〜19節)
アレントによれば〈労働〉とは、人間の肉体によって消費されるものに関わる営みである。たとえば食料や衣料品の生産などがそれに当たる。それはかつて奴隷によって担われていた。だから〈労働〉は忌み嫌うべき行為であった(この点はヴェブレンの『有閑階級の理論』を思い出せば簡単に理解できるだろう)。
それに対し、〈仕事〉は世界に存在し続けていくものの創造であり、たとえば芸術がその典型である。〈労働〉の対象は消費されるが、〈仕事〉の対象は存続する。ゆえに〈仕事〉は〈労働〉に比べて高い地位を与えられてきた。肯定的に捉えられてきたのである。
このように両者を区別した後で、アレントは次のように言う。なぜ労働が否定されたり、肯定されたりするのか? それは哲学者たちが〈労働〉と〈仕事〉を混同していたからである。同じ行為の〈労働〉的側面がピックアップされれば否定的に論じられるし、〈仕事〉的側面が注目されれば好意的に受け止められるというわけである。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
しばしば世間では、考えることの重要性が強調される。教育界では子どもに考える力を身につけさせることが一つの目標として掲げられている。
だが、単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっていくのは必然である。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
すると、ひなたぼっこするトカゲについて考えることは案外困難である。トカゲの身になってトカゲを眺める必要があるからだ。私たち人間はそこにトカゲ/岩/太陽の三つの独特の関係を見ているが、それはトカゲ自身にとってはいかなるものなのだろうか? トカゲ自身は太陽の光や岩をどう経験しているのだろうか?
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
問題はここに言われる「快」が何かということである。それはたとえば「快楽」という言葉で想像するような激しい興奮状態のことではない。その正反対である。生物は興奮状態を不快と受け止める。生物は自らを一定の状態に保とうとする。
だから一見したところでは不思議に思われるかもしれないが、生物にとっての快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大なのである。生物はつまり、ある一定の状態にとどまることを快と受け止めるのだ。
そうするとすぐにこうした反論が出てくるだろう。性の快楽は人間が強くもとめる快楽であるが、これは興奮量の増大としか考えられないのではないか? ならばフロイトの言う快原理はこの単純な事実と矛盾しているのではないか?
フロイト自身がこの反論をあげて、答えを出している。性の快楽は快原理と矛盾しないのである。なぜなら性の快楽は、高まった興奮を最大限度まで高めることで一気に解消する過程に他ならないからである。オルガズムを得ると、興奮は一気にさめ、心身は安定した状態を取り戻す(フロイトは性的絶頂の後の身体は死と似た状態にあるとも述べている)。性の快楽はこの安定した状態への復帰のためにあるのだ。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
人は何かが分かったとき、自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。「これが分かるということなのか……」という実感を得る。
人はそれぞれ物事を理解する順序や速度が違う。同じことを同じように説明しても、だれしもが同じことを同じように理解できるわけではない。だから人は、さまざまなものを理解していくために、自分なりの理解の仕方を見つけていかなければならない。
どうやってそれを見つけていけばよいか? 特別な作業は必要ではない。実際に何かを理解する経験を繰り返すことで、人は次第に自分の知性の性質や本性を発見していくのである。なぜなら、「分かった」という実感は、自分にとって分かるとはどういうことなのかをその人に教えるからである。スピノザは理解という行為のこのような側面を指して「反省的認識」と呼んだ。認識が対象だけでなく、自分自身にも向かっている(反省的)からである。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
これは次のことを意味する。楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、 楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、 思考に対して開かれている。
しかも、楽しむためには訓練が必要なのだった。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。
これは少しも難しいことではない。
食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何で出来ていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。映画が好きでいつも映画を見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。これはいったい誰が作った映画なのか、なぜこんなにすばらしいのかを考えるようになる。他にいくらでも例が挙げられよう。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
当たり前のことだが、どんなにすばらしいものであっても、誰もがそれにとりさらわれるわけではない。ならば自分はいったい何にとりさらわれるのか? 人は楽しみながらそれを学んでいく。
思考は強制されるものだと述べたジル・ドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。彼の著作には映画論や美術論がある。そのドゥルーズは、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか? その努力はいったいどこから来ているのか?」という質問に答えてこう言ったことがある。「私は待ち構えているのだ」。
ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。〈動物になること〉が発生する瞬間を待っている。そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった。
(國分功一郎、2021『暇と退屈の倫理学』新潮社)
私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。
だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
これまで「意図の誤謬」(Intentional Fallacy)や「作者の死」(La mort de l’auteur)の名の下に、芸術家の意図は批評行為から排除されてきた。「誤読の権利」や「読みの多様性」と称して、作家の思想を恣意的に排除する身振りは、あまりにも怠慢であったと自省しなければならない時期にきている。作家のコード化のプロセスもまた作品を見極める重要なポイントに違いないからだ。
ただし、意図が表現に明確に反映されている場合もあれば、それを裏切って異なる表現が成立していることもあるだろう。むしろ作者が語り得なかったこと、あるいは作家の無意識的な実践のほうに芸術批評の営為は向けられるべきである。真に創造的な表現者は、意図やコントロールを超越したところで優れた作品を産み落とす。作品には(無意識的に)厖大な日常経験や偶発性が投影されているのだ。それを見逃すことなく作品の細部を見出すこと。そして作品が生成する歴史的条件=コンテクストにも目を配ること。そうすることで作品の内部に思いがけない作家の実践を発見し、作品を捉え直すことができると同時に、予想だにしない作品同士が共鳴し始めることだろう。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
新宿は歌舞伎町界隈が戦後の赤線の灯と闇市的な露天商文化を継承し、同時に左翼の学生や演劇青年、ミュージシャン等を抱え込み、雑多な群衆が集まるアングラ文化の拠点として60年代にピークを迎える。吉見は政治的・文化的・風俗的なものの尖鋭を吞み込み、エネルギーが渦巻くこの街の特徴を四つ挙げる──①「ありとあらゆる種類のヒトやモノを無差別に受け入れ、それでいておのれの独自性を失わない強烈な消化能力」、②「新宿という街は、過去を語るにはふさわしくない。ただひたすら現在が重要な街」(松本孝)として次々に新しいドラマが繰り広げられてゆく「先取り的性格」、③「次に何が起こるかわからない不確定性」を常に孕む「無限に変幻自在な顔」、④唐十郎のテント興行や西口地下広場でのフォーク集会等、「参与する人びと相互の濃密なコミュニケーションを媒介」に生み出される「共同性の交感」。「新宿」に群れ集った人びとが醸成させていたのは「〈触れる=群れる〉という身体感覚であった」。
一方、それに代わって1970年代から台頭する〈渋谷的なるもの〉の特徴は、西武資本系のパルコの戦略によって、「近代的」「現代的」な都会生活のスタイルで身を固めた若者たちが「私」を演じにやって来る「見る/見られる」のファッションの街である。触覚性を特徴とする「新宿」とは異なる視覚性が演出する街としての「渋谷」へ──。そこでは「種々雑多な身体が触れあい、群れていること」は、ただ単に「ダサい」のであり、「渋谷」は〈未来〉が(単一性を失いながらも)その都度「意味の備給によって保証されている盛り場」なのだ。
(北村匡平、2022『椎名林檎論 乱調の音楽』文藝春秋)
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