
新しいヘッドホンの調子がいい。 買った日の夜、少し触ってみてやや期待外れなかんじもあり、「これはやってしまったか……」と思っていたのだが、使っているうちに、だんだんとよく聴こえるようになってきた。 ヘッドホンを買い替えるのは八年ぶりである。以前使っていたのはBOSEの「QuietComfort 35 II」というもので、たしか購入当時で四万円くらいしたと記憶…
One thing I can tell you is you got to be free!
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どんな集団にもある程度のルールが必要だってことぐらい俺にもわかる。だけど、こいつらの気に食わねぇとこは、頭ん中がルールでガチガチのくせに、自分たちがやっていることを〝個性〟だの〝自由〟だのと呼んでいることだ。
いつも頭の中がルールでガチガチだから、いずれ大学の面接の時期になったら茶髪を黒髪に戻してロン毛を短髪にすることも余裕でやってのける。大学に入ったらまたルールに従ってブリーチして、そんで社会に出るタイミングでまたルールに従って黒髪に戻す。それの何が悪いと言われたら、何も悪くない。むしろ、正しい。そうだ、どうせ正しいんだろ?
若林正恭『青天』(文藝春秋、2026年)
「あ……! 前に話したことあったっけ? カミュのシーシュポスの神話の話」
「いえ、多分、聞いてないです」
「神話なんだけど、シーシュポスっていう人が、神々から大きな岩を山のてっぺんまで転がして運ぶっていう罰を受けるのよ。で、シーシュポスは言われた通り、岩をてっぺんまで運ぶんだけど、運んだ途端、岩がまた平原まで落とされちゃう。勝手に落ちるのかな? とにかく落ちる。でも、シーシュポスはこの不条理な労働を運命だと受け入れて、平原まで下りて行って、またてっぺんまで岩を運ぶのよ。何度も何度も。永遠に。運んでも何もならないのに。なんでだと思う?」
「何もならないのに……」リプトンの紙パックの中身はすでに空だった。
「ここからは私の解釈なんだけど、運命、それを神からの制約だとしましょうよ。あなたがその遼西高校に、絶対に勝てない存在であることが運命だとして、それにあなたの意志で抗うことは、たとえその運命が変わらないとしても、自由を行使するということ。運命は神が作った制約だとしても、なぜか運命に抗うことは神も止めることができない。人間に決定権がある。だったら、その自由を行使するってことが、自由に生きるってことなんじゃないかしら?」
「運んでも何もならないのにですか?」
「運んだら何かになることばかり社会も学校も勧めるわよね。でも、たとえば、大学受験の勉強をしている最中に死んでしまったら、その勉強は無意味だったか? もし、無意味だと言う人がいたら、その人はきっと結果の世界の住人よね? でも、もし、勉強そのものが楽しくて、この際もう楽しくなくてもいいわ、主体的にその人が勉強をするんだと決めてやっていたら、ごめんね、物語の結末を言うわね。その人のことを幸せな人だと思わねばならぬ、とカミュは言うのよ」
なんの前触れもなく、突然、蛇口を捻られたように涙が溢れ出した。
岩崎が節くれだった手で机の上のクリネックスを取って、目の前に差し出す。その所作がとても洗練されていて、岩崎の人生でこういうことが何度かあったんだろうなと思った。
「負けるのはわかっていて、それでもあなたの意志で毎朝タイヤを押しているなら、それを自由と呼ぶんじゃないかしら? 自由に生きるってことなんじゃないかしら?」
若林正恭『青天』(文藝春秋、2026年)
「加害者に回りたかったわけじゃない。必死に生きようとしたら、誰かを傷つけた。自分の人生を摑もうとがむしゃらに手を振り回したら、誰かの人生を殴ってしまった。おれはそれを罪と思えない。 […] 」
町田そのこ『蛍たちの祈り』(東京創元社、2025年)
「ずっと振り回されて生きてきたのに、これからも我慢し続けるなんて無理だよ。そんなのわたしの方が死んでしまう。わたしはママを殺さなくちゃ、自由に生きられないの! もう、ぎりぎりなんだよっ」
「じゃあ、梅野さんが死ぬしかない」
桐生が何でもないことのように告げ、可憐はひゅっと息を吞む。桐生の目には、どんな感情の波もない。
「ひとが己の手で終わらせていいのは、己の命だけだよ。他者の命は決して奪ってはいけない」
強い風が吹き、道路から小さな悲鳴が聞こえた。やだあ、髪が崩れちゃう。どこか浮ついた女の子たちの声がふわふわと響き、遠ざかる。
「絶対に、奪うだけではすまない。命の代わりに大きな罪と臭いを背負って生きなければいけないんだ。その苦しみは、奪って手に入れたものを軽く凌駕する」
そんなはずがない。殺さなければこの不幸から抜け出せない。そう言い返したいのに、言えない。可憐が、いつの間にか滲んだ涙を乱暴に拭うと、桐生が困ったように視線をさ迷わせる。
「ごめん、言い方が悪かったな。おれは喋るのがあまり得意じゃないんだ。ええとね、ひとを殺したって、ちっとも救われないんだ。苦しみが姿を変えるだけ。例えば……君はお母さんが憎いんだよね? でもお母さんを殺すと、今度は『母殺し』という別の苦しみに向き合わないといけなくなる。その罪が明らかになろうが、なるまいが関係ない。自分だけは知ってるんだから。そしてね、お母さんとはいつか縁を切ろうと思えば切れるけど、『母殺し』という自分の苦しみからは一生逃れられないんだ」
「だから、自殺するしかないってこと?」
愛を殺しても、愛との関係のかたちが変わるだけで離れられないというのなら、自分が死ぬしかない。新しい絶望に言葉を失う可憐を見て、桐生は「死ねって言ってるわけじゃなくてさ」と頭をがりがり搔いた。
「ごめん。おれの言い方が完全に悪い。命のやり取りまでしなくても、現状から抜け出せる道は絶対にあるってことを言いたいんだ。 […] 」
町田そのこ『蛍たちの祈り』(東京創元社、2025年)