麻雀牌の写真集『Jampai』を作りました(文フリ東京43に出店します)

ご存知の方も多いかと思うが、この世には「麻雀牌」という美しい事物が存在する。中国に生まれ、日本をはじめ古くから東アジアの人々に親しまれてきた「麻雀」というもののために作られた道具である。

麻雀とは、牌を集めて並べた形を作り、その完成までの速さと、できあがった手の価値を競う遊びだ。初めに配られた手牌を原型として、山から牌を一枚持ってきて、要らない牌を一枚河に捨てる。あるいは、他人が捨てた牌を拾ったりしながら、自分の手牌を理想の形に向けて整えていく。

では「理想の形」とは、どんなものか。麻雀に覚えのない者は戸惑うかもしれないが、何も難しいことはない。まずは「美しい並びを作ること」を目指していけばよいのだ。

おそらく、三索のそばには二索か四索を、あるいは同じ三索を並べたくなるだろう。わざわざそこへ八筒や五萬や中や發や北などを持ってこようとはしないはずだ。つまり、形が似たようなものを順番に並べたり、同じ柄を揃えたりしたくなる。麻雀のルールを知らなくても、あるいは数の概念を持たずとも、人が持つ美意識に従えば、きっとそのように手が動くはずだ。何を捨てたらよいか悩んだら、並びを見て、美しくないものを捨てればよい。

つまり、「麻雀とは何か」と聞かれれば、「麻雀牌という美しいものを、より美しい状態にしていく営みである」といえるだろう。麻雀とは、美に向かっていく運動である。それは美との対話であり、己の中の美を確かめ続ける時間であるともいえる。


あるとき、いつものように雀荘で見知らぬオッサンたちと卓を囲み(気づけば僕もそうしたオッサンの一人となりつつあるわけだが)、手牌を眺めていると、突如としてこんな考えが降りてきた。

「この美しき牌は、より美しく在るために、組み合わさる相手を求めている。だが、なぜ相手を探す場所が、この卓上の狭い世界に限られているのだろう」

「この牌にふさわしい相手は、もっと他にいるのではないか。麻雀牌の相手は麻雀牌でなければならぬという理もあるまい」

「ならば、その相手は、この世の森羅万象の中に求めるべきではないか」

それはほとんど「啓示」のようだった。


それから僕は、牌を雀荘の外へと連れ出し、世界との接触を試みるようになった。

日の当たる山道や、雨上がりの水たまり、貝殻の散らばる砂の上、飲み屋街の路地、雑踏。あらゆる場所に牌を置き、その姿を写真に収めることをはじめたのである。

日々、ポケットに数枚の麻雀牌を入れて歩き、その牌が美しくあれる状況を、この世界に探し求める。

雀荘にいるとき、僕は手牌を眺めては必要牌を考え、それを決められたルールに則って手に入れることばかり考えていた。

しかし、いまは違う。ポケットに眠るこの牌が輝ける相手は、世界のどこに、いつ現れるか分からない。

僕はさまざまな景色の中に牌を置き、あらゆる角度から眺めながら、これでよいのかと迷い続けた。まるで、決められた相手とのお見合いから、自由恋愛の世界へと踏み出したようだ。無限とも思える選択肢から相手を選べるようになったぶん、誰と一緒にいるのがよいのか、自分で考えなければならない。

そこには、自由に生きてよいからこその苦悩があり、「どこかにもっとよい相手がいるかもしれない」という底なし沼のような果てなき期待があった。僕は幾度となくシャッターを切り、その牌の生き方を思った。


そんな生活をはじめて半年以上が過ぎた頃、横浜の赤レンガ倉庫へと向かう道で、ちょっとした草木が植えられたところを通りかかった。そのとき僕は何気なく、本当に何気なくその土塊の上に三筒を置いた。

なぜそこに置いたのかはわからない。そこは特別よいところではなかった。ただの土でしかなかったし、三筒を選んだのも、ポケットの中で最初に指に触れたというだけで、まったく理由はなかった。ただ、この頃になると、もうそういった軽率な試みも珍しくはなくなっていた。

手慰みにシャッターを切っていると、ふらふらっと赤い何かが飛んできて、三筒のそばにとまった。それが何かは、レンズ越しにでもすぐに分かった。幸運のシンボル、ナナホシテントウだ。

瞬間、僕の頭はカッと熱くなって、それから、まるで自分が透明になったような浮遊感を覚えた。そのとき、世界はその土塊と多少の草木、三筒、ナナホシテントウで完結していた。円環が閉じたのだ。

無意識にシャッターを切った。シャッターチャンスを狙うでもなく、ただ自然と指が、重力に従うようにしてわずかに沈んだ。

この三筒は、卓の上で決められた役割を果たすためではなく、つまりピンフやタンヤオやホンイツやジュンチャンなどを作るためではなく、「いま、このときのために生まれてきたのだ」と思った。きっとナナホシテントウにとってもそうであったに違いない。そのときレンズの中に写っているものたちは、その瞬間のために存在していた。

このときばかりは、さすがに、神の存在を信じざるを得なかった。否応なし、といったかんじである。無数の偶然が重なった奇跡としか呼べない光景を目にしたとき、人は理外を超えた大きな力を思わずにはいられない。


この写真を友人たちに見せると、みんなとても褒めてくれる。それは写真を撮った僕の技量や、表現活動としての面白さを褒めてくれているのだが、僕にはどうもそれがピンとこない。それは、僕がこれを自分の能動的な活動だと思っていないからだろう。

雀荘で啓示を受けたあの日から、ずっと何かに導かれているような気がする。何かが僕を使役して、この世界に麻雀牌を美しくあらせようとしているのだ。

僕は写真の中ではなく、カメラのこちら側にいる。その美しさの中に僕の存在が必要とされないように、この世界が美しくあるための従者の一人として、僕は使命を全うしたい。

麻雀牌の写真集『Jampai』を作って、文フリ東京43に出店します

神か何かに導かれ、組写真を編みました。A5サイズ、本文二十六ページ。今年撮った写真の中から厳選した二十八点を掲載しています。需要も在庫の置き場所も何も考えず、二百部刷りました。

十一月八日(日)の「文学フリマ東京43」で販売します。ブースは、東京ビッグサイト南3・4ホールの「け-62」。友達と四人で出店しており、サークル名は「走馬灯」です。

通常価格は1,000円ですが、文フリ当日は500円で販売します。ぜひ遊びにきてください!


「文フリには行けないけど写真集は欲しい!」という人は、僕にDMかLINEで郵送先の住所を送ってください。いまならもれなく布教用に配れるカードを同封します。

一緒に麻雀牌の美しさを広めましょう!!


▶︎ Instagramアカウント作りました: @jampai_photo