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先週の後半から、完全なる病人となっていた。

三十九度台の熱が三日ほど続いた。体温が一度二度上がっただけで身動きすらままならない。病気のたびに思うが、人間の身体というのはなんて貧弱なのだろう。インフル、コロナは陰性。近所の内科医の診断によれば「急性リンパ節炎」とのことであった。

病院で処方された解熱剤を飲むと、二時間もしないうちに三十七度台まで下がるのだが、そこから四〜五時間かけて再び三十九度台まで上がっていく。これを三日三晩繰り返していた。なんだか交互浴の説明のようだが、当然ながら「ととのう」ことなどない。どちらかといえば「くずれる」「ばらける」「ひしゃげる」といったかんじだ。


自律神経がおかしくなっていたのか、暑くて暑くてたまらないかと思えば、一転して凍えるような寒さに襲われ、いくら着込んでも震えがとまらず毛布を被って丸まったりしていた。

汗をかき続けており、一時間もしないうちにシャツがびしょ濡れになってしまうのだが、人一倍多く持っているバンドTシャツが役に立った。ライブやフェスで「買わない後悔よりも買って後悔!」とせっせとカードを切って買い集めてきた甲斐があったというものだ。KIKI、Monomi twins、Say Sue Me。着替えるたびにそのライブを思い出す。買っておいてよかった。ありがとうありがとう。


ある夜、体温計が三十九度五分を示したので、「成人男性が四十度近い高熱を出すと生殖能力を失う」と聞いたことを思い出し、コリャダイジョウブカイナ、と朦朧としながら調べると、一般的には「高熱を出してから一ヶ月後あたりに精子の状態が最悪となり、二、三ヶ月かけて徐々に回復していく」とのことだった。ほええ、よくできているなあ。貧弱などと見くびってしまって申し訳ない。


ふだんはあまり夢を見ないのに、悪夢にうなされて叫び、自分の声で飛び起きることまであった。バカでかい虫に襲われるという夢だ。夢の中で僕は無謀にも虫に説得を試みようとしており、そして言葉が通じないことに絶望するも、

「ああそうだ! AI で翻訳機作ればいいんですよ! バイブコーディングで!」

と得意げに言っていた。AI が人にもたらす全能感が裏目に出ている。そうこうしているうちに食われていた。

いま書いていて気づいたが、「虫」というのは「Bug(システムの不具合)」からきたイメージだったのかもしれない。何をうまいこと言おうとしているんだ、僕の脳は。そんなことにメモリを使わず回復に専念してくれ。


小康状態の間は、ぼんやりと映画やドラマを見ていた。

唯我くんから薦められていた吉田大八『敵』を見ていると、認知機能が衰え記憶が混濁していく高齢者と、高熱で衰弱しうなされている自分の姿が重なる。

老人の肉体にも情欲が残っている、というか、そういうもの「こそ」が残っている姿にリアリティを感じた。この元大学教授を演じるのに長塚京三ほどのハマり役はないだろう。インテリっぽいマゾヒスティックなフェティシズムが可笑しく、いい味になっていた。いい映画だが、不気味さが少しだけ余計な気もした。バーカウンターで本を読む河合優実が色っぽい。


話題の『ダウンタイム』も見た。僕の好きなタイプのドラマだった。

整形をめぐって、個人の問題だけでなく、美容整形業界や直美(ちょくび)の医師といった社会問題に触れている点がとても現代的に映った。そしてそういう「今」の問題を扱うと射程が短くなりがちだが、それを題材にきちんと「命より大切なもの」や「人間の尊厳」といったテーマを描けている。

研ナオコ演じる末期がんの老婆が「あなたは私を見下してる、私を愚かだと思ってるでしょう」と主人公の沼田文を詰めるシーンでは、僕自身も当然視していた何かが揺らぐのを感じた。美容整形というテーマが、安楽死のような問題と近接していることに、このとき初めて気づいたのだった。人には当然、生き延びるということ以外の「生の目的」があり、その意思の尊重は、尊厳の問題なのだということ。医療従事者はそれらのケースに相対したとき、どの立場に立つべきなのかということ。

野呂佳代が小陰唇の手術をして「こんな簡単なことだったのになんであんなに悩んでいたんだろう」と笑って泣いているシーンは、一緒になって泣いてしまった。長いこと悩んでいたのに、そこから解放された途端、なんだ、こんなことだったのかと思えることってあるよなあ。

整形を扱った作品では、コロナ禍に見た韓国のアニメーション映画『整形水』が記憶に新しい。粘土を捏ねるようにして身体を好きな造形に整えることができる魔法の水に取り憑かれていく女性の人生を描いた、人間の欲望に対する戒めを込めた教訓的な内容の作品だ。当時、整形経験のある友人と一緒に見たのだが、友人が「整形に対するイメージが古すぎる」と一刀両断していたのを覚えている。「ブスが美女に憧れて整形する」「整形したことを隠して生きようとする」というのがステレオタイプすぎるし、何より、整形が「楽して美を手に入れるもの」として描かれているのがよくない、ということだった。そのときに友人が語っていたのが「ダウンタイムのしんどさ」であった。作中では、ダイエットに耐えられない女性が整形水を使って楽に痩せる様子が描かれるのだが、実際の整形にはこんなにしんどいダウンタイムというものがあり、自分はそれを耐えるための努力をしているのに、それを「楽して美しくなろうとする浅ましい人間性」として描いているのは許せない、という話だ。

そんなやりとりをした覚えがあったので、僕はこの『ダウンタイム』というドラマのタイトルを見て、その大変なつらい期間のことを描いた作品なのかなと思っていた。しかしこの作品は、ダウンタイムを「さなぎが殻を破ってチョウに生まれ変わるための大事な時間」として、つまり、しんどい時間に「希望」という意味を見い出そうとするものだ。そして物語は、美容外科医である二人の主人公にとってのダウンタイムとなり、二人はやがて新しい羽を得て翔び立っていく。

ネトフリのオリジナルドラマにありがちな次回作への未練がなく、きちんと幕引きしてくれたのも好印象だった。

池袋の新文芸坐で、オールナイトのレオス・カラックス三本立てを見てきた。

オールナイト上映を見るのは初めてだ。子どもの頃、倉本聰のドラマ脚本でそういうシーンを読んだ覚えがあり(『前略おふくろ様』かな)、漠然と「昔はそういう文化があったのだなあ」と思っていたのだが、ひょんなことから今もやっていることを知った。

コロナ禍前、遊泳舎で働いていた頃には、深夜に仕事を終えて六本木ヒルズの TOHO シネマズで1時とか2時からやっているような映画を見ることがあったものの、朝までぶっ通しで三本となるとまた勝手が違うだろう。というか、さすがに寝てしまうだろう。


NiEW の真希さんにその話をすると、

「オールナイト上映は、寝るのも醍醐味です」

と返ってきた。

寝てしまってもよい、というだけでなく、寝ることにもよさがあるという。なんと清々しい心構えであろうか。そういうことであれば、むしろパジャマを着て寝に行ってやろうという気持ちになった。


今回見たのは、『ボーイ・ミーツ・ガール』、『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』の「アレックス」シリーズ三部作。

初めに見た『ボーイ・ミーツ・ガール』は三本のうちで最もストーリーを追いづらかったが、唯一寝ずに見られたのもこの作品だった。動く写真集を眺めているようで、とてもよかった。パーティの最中、キッチンでアレックスとミレーユが横並びになって喋っているシーンが好きだ。僕もこういう写真を撮りたい。


二本目の『汚れた血』、三本目の『ポンヌフの恋人』は、うつらうつらしながら見た。

フランス語なので音声に頼ることができず、話についていくにはずっと字幕を読まなければならないのだが、これがなかなか目に堪える。瞼を閉じると、干からびた目の玉に潤いが戻ってくるようで、実に心地よかった。うとうとしていることで、映画の幻想的な調子もいっそう増して感じられた。

『ポンヌフの恋人』の、アレックスとミシェルが酔っ払って笑いまくり、地面に仰向けになっているところが好きだった。花火と爆竹を背景に、抱き合ってくるくる踊っているシーンも最高だったが、いかにも映画として売れようとしている感じもあって、少しあざとさが鼻についた。(寝ているくせにこういうことは一丁前に言う!)


映画館の椅子はリクライニングではないので、けっして寝やすくはなかった。

休憩時間に、錆びついた身体に油を差すようにして池袋の街を散歩する。連日の長雨で冷やされた深夜の空気を肺に吸い込むのが心地よかった。池袋のやさぐれた街並み、風俗店やラブホテルの看板も、なんだか映画的に見えてくる。

今年の夏が洗い流され、新しい秋がやってきたのがわかった。

昨日は、内野と木立と『悲情城市』を見た。月イチで集まってやっている映画鑑賞会で、白金台にある木立の家に泊まる形で開催している。内野が台湾映画にハマっている時期に始まったこともあり、「台湾ニューシネマを学ぼう」的な雰囲気でやっているが、内野がそういう目的性の高いノリを嫌っているので、ひとまず「なんとなく集まって映画を見る会」ということになっている。


『悲情城市』は、日本の統治が終わった直後の混迷期を生きる「林家」の人たちを通して台湾を描いた、ホウ・シャオシェン(侯孝賢)の傑作だ。以下、感想メモ。

  • 映画は、台湾が持つ複雑なアイデンティティを見事に描いているように感じた。名作だといわれるのも頷ける。説明的な描写が少なく登場人物の名前も覚えづらいため、危うく物語を見失いそうになったのだが、途中から映像を一時停止して相関図を確認したり、副音声的にみんなで話しながら観ることで事なきを得た。

  • 僕には多くの台湾人の友人がいるが、そのルーツは内省人、外省人、原住民と様々で、それらが血縁や関わりの中で複雑に交差し、一人ひとりの内に固有の文脈を作り出している。作中で内省人と外省人との関わりや、原住民らしき人が出てくると、友人たちの顔が次々と浮かんできて、彼らのことを思ったりした。

  • 日本で台湾が語られる場面では、よく「親日」という言葉が使われるが、それは複雑な関係性の「結果として」表面に浮き出てきたものに過ぎない。いわば、瓶の蓋に書かれたラベルのようなものだ。蓋を開けたその中には、夥しいほどの生活が詰まっていて、『悲情城市』で描かれる林家の物語には、その一例を見た気がした。

  • 台湾で僕を泊めてくれているユーシュエンという友人がいるのだが、正月に彼女の実家に遊びにいったとき、日本の植民地時代を生きたユーシュエンのお爺さんと話をした。彼とその家族がどのように生きてきたか、という話を聞いた時も、蓋の中のものを覗いた気がした。

  • 蓋の中にあるものを、なるべく多くこの目で見ておきたいと思う。

  • そういえば、『悲情城市』の冒頭で「ふるさと」が歌われる場面があったが(兎追いし、彼の山〜)、ユーシュエンのお爺さんが僕に「僕は日本の歌を覚えているよ」と言って歌ってくれたのもこの「ふるさと」だった。場をわきまえず大声で歌うお爺さんに、ユーシュエンの家族は困り顔だったが、僕はその時何故か涙が止まらなかった。

  • 鑑賞後、内野と木立に台湾と日本の関係性についていくつか喋ったのだが、ずっとスベッているような感覚があった。歴史を概論として語ってしまうと、そこにあったはずの個人の物語が滑り落ちてしまう。歴史とは当然無数の「個人的な体験の集積」であるはずなのだが、それを一つひとつ言葉にして伝えるのは不可能だ。だから象徴的な物語を創作し、そこに気配を込め、どうにか伝わることに賭けるしかない。それがまさにこの映画のような存在なのだろう、というようなことを帰ってきてから考えた。

  • 役者について。圧倒的な存在感を放つ四男役のトニー・レオンもさることながら、僕は長男を演じた役者がいいなと思った。陳松勇(チェン・ソンヨン)という役者らしい。フーテンの寅さんや、ミルクボーイの内海のような見た目で、独特の愛おしさがあった。彼が刺された場面の次に鳥が空を飛ぶカットが入り、これはちいかわ的な死のメタファーだと思うのだが、これって映画技法的によくあるやつ、というか何か元ネタがあるものなのだろうか。


新宿バルト9で、アンナとエリアルと『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観てきた。台湾から観光に来ているエリアルは、四日前に台湾で翻訳版を観ており、早くも二回目の鑑賞だという。狂気。

(新宿、めちゃくちゃ上映してた)


映画の内容は完全に原作通り。うさぎのラップパートがアニメーションならではの表現で手厚く作り込まれていたのがよかった。観ていて気持ちよかった。

物語について。これは漫画を読んでいたときも思ったのだけれど、ちいかわが身内の不正義を見逃してしまうのを「優しい心」や「物分かりのいい態度」として描くのは、いかにも閉鎖的な村社会の醜悪さを表しているように思う。

人魚を食べた真犯人がヒトハとフタバであるという決定的な真相を掴んでおきながら、ちいかわはそれを明るみに出さず、事実を隠蔽して黙り込む。そしてあろうことか、犯人を差し出せと迫るセイレーンをみんなで攻撃して追い払い(その過程で身内は連帯・結束し)、「めでたしめでたし」と一件落着にしてしまう。

「自分たちの身内の空気や関係性を守ること」を最優先し、波風を立てない保身や隠蔽が、いつの間にか「優しさ」へとすり替わっていく。そしてそれをノスタルジックな音楽と美しい情景で包み込んでなんとなくいいかんじにして癒やしてしまうのは、なかなかにグロテスクじゃないか。


少し視点を変えて? もう一つ。

救いのない過酷な世界の中に愛くるしいキャラクターを放り込んで、その報われない生き様や困惑する姿を眺めて喜んでしまうのは、間違いなく嗜虐的な快楽の一つだ。「ちいかわ」という作品が、人間のそういう「可愛いものが困っている姿を見たい」という加害欲求、いわゆる「キュートアグレッション」を巧みに刺激してくるコンテンツであることは、あまり疑いの余地がないと思う。(この「嗜虐的な快楽」と、日々の理不尽な労働に耐える自分自身をちいかわ達に見立てて宥める「自傷的なケア」の奇妙な共存こそが「ちいかわ」という作品の最大の特徴。)

気にかかるのは、これを「深い話だ」「考えさせられる」と大真面目に頷き合っている世間の空気感だ。自分たちが俗な欲望(ポルノ)を消費しているという事実から、無意識に目を背けているように見える。これは、AVを観てシコっているだけなのに、そのシナリオや演出に難解な解釈を持ち出して「これは人間の生々しい本質に迫った芸術作品だ」などと語ったりすることで己の欲望を公然化しようとする(僕がよくやっていることです)心理に似ていると思う。

別に、ちいかわを深イイ話だとほめそやすのも、AVを芸術として捉えるのも個人の自由だし、それ自体を否定するつもりはないのだけれど、ただ、本質的にはかなり生臭くていやらしい人間の欲求に根ざしたポルノ的な消費だよね、というところは確認しておきたい。それをみんなして哲学的な寓話としてありがたがっている光景はちょっと不気味じゃないかいと思っているのだけど、どうだろう。

濱口竜介、三宅唱、三浦哲哉の特別鼎談「驚きはいたる所に──『旅と日々』をめぐって」を読んだ。まだ『旅と日々』を観ていない状態でこの鼎談を覗いてしまったのだけれど、作品の内容を知ったというより、それぞれが「どうやって世界を見ようとしているのか」を知ったような感じがした。

鼎談では、物語の筋立てやテーマそのものよりも、光の入り方や、偶然写り込んだ風景、カット同士の照応といった話が何度も出てくる。何かを強く説明するというより、現場で出会ったものや、あとから意味を帯びてきた画面同士の関係性を言葉にしているのが印象的だ。

濱口竜介の『悪は存在しない』を観たときにも思ったのだが、このタイプの作品は、「何が起きるのか」よりも、鑑賞者が映像を通じて「何に気づくのか」に楽しみの中心がある。作り手の意図やメッセージがあったとしても、必ずしもそれを最も重要なものとして持ち帰る必要はない。というか、それが読み取れなくてもいいのだと思う。東浩紀的にいえば、誤配可能性の高い作品ということになるだろうか。鼎談のやりとりからも、意味が一つに回収されることを前提にせず、光や風景やカットの連なりが、別の場所に、別の仕方で届いてしまう余地を残している。正しく理解されることよりも、少しずれて届くこと、思いがけないところに引っかかることを許している感じがある。

朝から体調が優れずぐったりとしていた。東京では、コロナ、インフルエンザ、ノロウィルスなどが流行っているので、どこかでもらってしまったか……と滅入った気持ちでいたが、薬を飲んで数時間横になっているとアッサリ回復した。


台灣虎航(タイガーエア)から、クリスマスセールで日台全路線で格安販売を行なっているというメールが届く。この冬、台湾に行くかもしれないと話していた友人たちに転送する。僕が冬に台湾にいることが当たり前のこととして浸透し、年々それに合わせて旅程を組んでくれる友人が増えていく。


夜、新宿の香港屋台「九龍」で、すぐる、Ray、クマガイさんと近況報告。すぐると会うのは5年ぶり、Ray と会うのは半年ぶりだが、二人とも以前会ったときとは違って会社員になっていた。

Rayはポーカープレイヤーとしての活動に一区切りつけてエンジニアに戻ったという。「この10年間ひたすらトランプをやっていました」というのは、就職活動をする上でなかなか厳しく見られるものなのだ、と割と当然に思えるようなことを、ようやく発見した真理のように語っていた。来年5月に韓国・仁川のパラダイスシティに行く予定があると話すと、「全部教えるから任せてくれ」と言われる。友人のこういう言葉は心強い。


数週間のインド出張から帰ってきたばかりのクマガイさんから、現地での小話をいくつか聞く。

イベント会場の施工現場での、インド人スタッフの働き方について。計画性はあまりないが、その日その日の課題を当日中になんとかしようとする力は強い。場当たり的であることの問題は確かに多いが、それでも「なんとか形にはなる」方向に全力で進む姿勢には、それなりのよさを見いだすこともできるという。

日本であれば、トラブルが起きればその分工期が延びるが、インドでは、やり方は粗くともその日のうちに一応の完成形までは持っていく。(ただし、日本式であれば、そもそも起きなかったであろう種類のトラブルである、という但し書きもつく。)この話を聞きながら、少年ジャンプの制作体制と似ているな、と思った。毎週のアンケートに応じて瞬間最大風速を出し続けなければならず、結果が悪ければ即座にテコ入れを行う。リアクティブなものづくりのよさもあるが、中長期的な構想を実現するような作品づくりには向かない。

また、インドで日本と同じようにトラックをデコレーションする文化を見かけたが、宗教的なモチーフや花を使うなど、その方向性がかなり違ったという。装飾の目的を現地の人に尋ねると、「商売繁盛のため」と答えたそうだ。クマガイさんはそれを、日本のトラック装飾がどちらかといえば対外的な表現であるのに対し、インドのそれは内省的なモチベーションに近い、と表現していた。


帰り道、LINEを確認すると内野功太郎から、『見はらし世代』という映画を見たか? と連絡が入っていた。最近のやりとりの中で話題にした本と主題が近しいので観てみてほしいとのこと。調べてみると、関東ではほとんどの館で上映終了となっていた。

Netflix、米ワーナーを11兆1600億円で買収 映画など主要部門(日本経済新聞)

  • Netflixが、米ワーナー・ブラザース・ディスカバリー(WBD)を約720億ドル(約11兆1700億円)で買収する最終契約を結んだ。対象は映画などを制作するスタジオ事業と、ケーブル局HBO、動画配信のHBOマックスで、ニュース専門局CNNなどは事前に分離され、買収対象から外れる。規制当局の審査を経て、買収完了は2027年夏ごろを見込むという。

  • ワーナーは「ハリー・ポッター」「バットマン」などを擁するハリウッド5大メジャースタジオの一角で、Netflixがメジャースタジオを自ら買収するのは初めて。記事では、この買収によってNetflixが著名な作品群を直接手に入れ、動画配信の魅力を高めるとともに、グッズ販売など周辺ビジネスの拡大も狙っていると整理されている。

  • また、ワーナーにはパラマウント・スカイダンスやコムキャストからも買収提案が出ており、パラマウント側は「Netflix有利な入札だった」と抗議し、独禁法審査の面でも自社の方が承認を得やすいと主張している。今後、法的措置を含む抵抗が起きる可能性にも触れられており、この大型買収は、成立までなお政治的・制度的な不確実性を抱えた案件として位置づけられている。