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ABCラジオ「こたけ正義感の聞けば無罪」を聴いていたら、ゲストに大島育宙が出ていて、自著『なぜあなたの感想はふつうなのか 独自の視点で語る技術』について喋っていた。

大島が言うには「感想を話す」というのは別に映画や小説といった話題に限った話ではないらしい。友達とご飯を食べに行ったときとか、誰かからちょっとしたお土産をもらったときのような場面での会話のことも想定しているのだという。そういうコミュニケーションにおいて「感想を話す技術」をどんどん活用していってほしい、感想を語る術がないと人間は「悪口か謙遜に逃げてしまうから」と話していた。この本に何が書かれているのか知らないが、この指摘についてはマジでその通りだなと思い、というか思い当たる節がありすぎて、皿洗いの手を止めてしまった。そして流れるような手つきで当該書籍をポチった。


「感想」といえば、今日青木宏治さんの ZINE 『Open Be-in 運動』を読んでいて、いいなと思う一節を見つけた。

表現はよき受け手がいるところでのみ、育つ。制作者としてやりたいことはなくても、美術を愛するもの達は多くいるだろう。良き受け手になろう。ここがいいとか悪いとか偉そうに話すのもそれはそれで一興だが、それよりもむしろ、見たままのプロセスをそのまま伝えてあげると、きっと作家の何かの役に立つだろう。最初は何がなんだか分からなかった、とか、ここに注目して見て、こんな風に感じ、解釈した、とか。作家の意図とは正反対に解釈している場合でも、何の問題もない。作家は伝え方について反省をするだろうから。電子メールでのアンケートにおいて、作家から返信が返って来ると、鑑賞者は見落としていた部分の指摘を受けたりできて、互いにとって有益。ただし、アートは生易しいものではないため、作品や感想の交流の中で互いが互いを深く傷つけあう場合もある。ネガティブな印象を作品から受けた場合のアンケート実践はどうするべきか。罵詈雑言飛ばしたいのだが、ぐっとこらえたまま、いまだ答えは見つからない。良き受け手への道は険しい。とはいえ、没交渉の死んだ沈黙こそが、文化振興にとっての最大の敵。この認識からはじめよう。

「ここがいいとか悪いとか偉そうに話すのもそれはそれで一興だが、それよりもむしろ、見たままのプロセスをそのまま伝えてあげる」というのが、最近の僕に対する大きな指南のように思えた。

ここ数日僕は Chooning にフジロックの感想を書きかけて止まっていたり、最近見た映画だと『FUJIKO』や『急に具合が悪くなる』『海辺の一日』あたりについても書きたいと思いつつ、しかしなかなか書き出せずにいた。が、「見たままのプロセスをそのまま伝えるように書く」と想像したとき、ああなんかスルスル書けそうだなという気がしたのだ。

明日からスルスル書くぞ、書くぞ。

数日前に唯我くんから送られてきた PK shampoo のブログを何度も読み返してしまう。文章の勢いがいい。雑に書かれているようだが、引き込まれ、読ませられる。特に後半の思考の反芻をそのまま垂れ流しているようなところが好きだ。

https://pkshampoo.jp/%e4%b8%83%e6%9c%88/

俺は昔、家に居場所がなくて学校も大嫌いで、気質的に欲しいものも買いたいものも全然ないタイプだから働くことにも絶望的に向いてない自分にほとほと嫌気がさしてたけど、頼んでもないのに私はあなたの味方だよ、学校なんて辛かったら行かなくてもいいんだよ、みたいことを言いながら猫撫で声で擦り寄ってくるタレントやミュージシャンには絶対感化されたくなかったし、だからどんなにクソな人間関係や教育制度の荒波に飲まれようと真っ向から学校を卒業して絶対に社会に迷惑をかけてやるぞと目を閉じ耳を塞ぎ息を止めながら青春時代を早足で歩き抜けたのだが、このバンドはやっぱりその先というか道中で、つまりはどうしようもない大学生活の中で偶然出会った俺以上にバカな奴らとの縁で出来上がったものだし、アレは嫌だ!コレは失敗だ!とかgdgd言いながらでもとにかく続けてたらやっぱりその先というか道中で何か素晴らしいものに出会えるかもなあ、なんてことをぼんやり期待したりもする。まぁ実際にはこの先おもしろいことなんて何一つなくて、サルに当たりの確率下がっていくボタンを押させまくる実験みたいな状態に陥ってるのかもしれないし、さっさと関西戻ってレコードかけれるBARでもやりてえなあ、と三日に一回くらいは思うけど、それでも月に一回くらいは、たとえば今回のZepp DiverCityの時なんかは、やっぱり続けてて良かったなあと思ったりするものだ。