真空ジェシカとオズワルドのツーマンライブ「笑い屋キャリー」を見てきた。
野方区民ホールは地下にあるため、電波が入らない。つまり配信ができない。よってオフレコトーク満載の会となり、控えめに言って最高の時間だった。

帰り道、「せっかく野方まで来たのだから」という言い訳を自分にして、野方ホープ本店へ。
大量の油分を摂取する現実から目を背けるようにして若林正恭の小説『青天』を読みはじめる。主人公がクラブのモッシュでムカつく奴らにタックルをしかけるというシーンでグッと引き込まれ、そのまま歩いて高円寺駅の北口広場に移動し、高円寺的な喧騒の中で読み続けた。作中には中央線沿線の街がよく出てくるので、これはなかなかオツな読書体験であったと思う。
『青天』は、他人と距離を置きがちな主人公・アリが、アメフト部での経験を通じて、徐々に他人に「ヒット(アメフトで、相手に体当たりをして衝撃を与えるプレーのこと)」することを覚えていく成長物語。自信をつけていくこと、自分を好きになることが描かれている。
物語の構造として、倫理の教師・岩崎の話と、アメフト部での活動が呼応しているのが特徴的で、よかった。ヤスパースの「彼が彼自身でなければ、私は私自身にはなりえない」という実存的な交わりについて、岩崎は「自分が本当のことを言わないと、他人も本当のことを言わないってこと」と説明する。アリはこれを聞いて、少しずつ部員たちに本音をぶつけるようになっていく。易経の陰陽魚を見せて岩崎が「大きな怖さの中に小さな勇気がある」と説明する場面でも、アリはアメフトの試合中の感覚と重なってハッとする。
最後の方に、カミュのシーシュポスの神話について、アリがアメフトをやっているがゆえの新解釈を生み出し、岩崎を感心させるシーンがあって、このあたりはグッときた。というか、アリと岩崎先生の会話はどれもずっとよかった。RCサクセションの「僕の好きな先生」など、落ちこぼれとそれを気にかけるはぐれものの先生、という関係を見ると「ああいいなあ」と思ってしまう。自分にも同じような経験があるからなのか、それとも割と一般的な感性なのだろうか。
特に一番好きだったやりとりを引用しておく。アリたちは、圧倒的な実力差があり、100%勝てないと思う高校との試合を控えながらも、なぜか一生懸命練習することをやめられない。そんな局面でのやりとり。
「あ……! 前に話したことあったっけ? カミュのシーシュポスの神話の話」
「いえ、多分、聞いてないです」
「神話なんだけど、シーシュポスっていう人が、神々から大きな岩を山のてっぺんまで転がして運ぶっていう罰を受けるのよ。で、シーシュポスは言われた通り、岩をてっぺんまで運ぶんだけど、運んだ途端、岩がまた平原まで落とされちゃう。勝手に落ちるのかな? とにかく落ちる。でも、シーシュポスはこの不条理な労働を運命だと受け入れて、平原まで下りて行って、またてっぺんまで岩を運ぶのよ。何度も何度も。永遠に。運んでも何もならないのに。なんでだと思う?」
「何もならないのに……」リプトンの紙パックの中身はすでに空だった。
「ここからは私の解釈なんだけど、運命、それを神からの制約だとしましょうよ。あなたがその遼西高校に、絶対に勝てない存在であることが運命だとして、それにあなたの意志で抗うことは、たとえその運命が変わらないとしても、自由を行使するということ。運命は神が作った制約だとしても、なぜか運命に抗うことは神も止めることができない。人間に決定権がある。だったら、その自由を行使するってことが、自由に生きるってことなんじゃないかしら?」
「運んでも何もならないのにですか?」
「運んだら何かになることばかり社会も学校も勧めるわよね。でも、たとえば、大学受験の勉強をしている最中に死んでしまったら、その勉強は無意味だったか? もし、無意味だと言う人がいたら、その人はきっと結果の世界の住人よね? でも、もし、勉強そのものが楽しくて、この際もう楽しくなくてもいいわ、主体的にその人が勉強をするんだと決めてやっていたら、ごめんね、物語の結末を言うわね。その人のことを幸せな人だと思わねばならぬ、とカミュは言うのよ」
なんの前触れもなく、突然、蛇口を捻られたように涙が溢れ出した。
岩崎が節くれだった手で机の上のクリネックスを取って、目の前に差し出す。その所作がとても洗練されていて、岩崎の人生でこういうことが何度かあったんだろうなと思った。
「負けるのはわかっていて、それでもあなたの意志で毎朝タイヤを押しているなら、それを自由と呼ぶんじゃないかしら? 自由に生きるってことなんじゃないかしら?」


