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第二回「鴫原杯」ということで、海野と内野と麻雀を打ってきた。去年の夏に亡くなった鴫原さんを偲ぶという名目で、こうしてときどき十条の鴫原邸に集まって卓を囲んでいる。

年始に開催した第一回のときは、まだ鴫原さんが使っていた仕事道具や生活の欠片が部屋の隅々に残っていたが、今日訪ねるとそれらは綺麗に片づいていた。


鴫原さんの遺影に挨拶し、線香をあげて洗牌をはじめる。

カチャカチャと牌を混ぜながらの近況報告。海野は三歳になった娘とよく侍従川で魚を突いているそうだ。最近は大きなクロダイを獲ったという。内野は長年勤めた塾講師を辞め、小説を書いて文藝賞に応募した。一年くらい無職でぼうっとしようと思っていたらしいが、縁あって家庭教師として一人の受験生を見ているとのこと。

こういうかんじの麻雀が好きだ。僕は麻雀というとフリーが多いので、まず友達と打つのが楽しいというのもあるが、それより何より「手積み」が大事な要素だと思う。自動卓で打っているときよりも会話が生まれる余白が大きい。

局が終わって山を崩し、牌を混ぜ、積み上げているときに、先ほどまでの緊張がほぐれ、短く感想戦が行われたりする。舞台裏とか、楽屋の雰囲気があっていい。やがてその空気がまた自然と戦いの雰囲気に移ろっていくのにも風情を感じる。

フロイトの快原理によれば、生物にとっての快は「興奮量の減少」であり、不快とは「興奮量の増大」であるという(一見、直感に反するところがこの説の面白いところだ)。例えば、性の快楽は、高まった興奮を最大限度まで高めてから一気に解消する「過程」にあると説明されている。オルガズムを得て興奮が一気にさめ、心身が安定した状態へ復帰するまでの一連のプロセスが重要なのだ。この理屈を借りれば、自動卓での麻雀には「興奮量の減少」にあたるフェーズが極めて短く、前局の興奮を引きずったまま次局が開始されてしまうところがよくない、といえるだろう。効率を求めた結果、全体のプロセスを壊してしまっている。

数日前、新宿のジャズバーで Uboat が、タバコを喫う時間やコーヒーをドリップする時間を例に挙げながら「間を生む行為」の価値について話していた。Uboat は「丁寧な暮らしとは、間を生むことである」とも言っていた。こういった行為も、生活の中の「興奮量の減少」を担うパートなのかもしれない。


ハーフタイムになると、さおりさんが鴫原さんの好物だった鮭チャーハンを運んできてくれた。うずらの卵とかぼちゃの煮付け、そして具だくさんの豚汁。鴫原さんの愛した味が、僕たちのお腹を満たしていく。

のんびりと三半荘を打ち終え、そろそろ引き揚げようかと話していると、ざああああと強い雨が降り出した。やがてすぐ近くの空で、ゴロゴロとわざとらしく雷まで鳴り響いてきた。

「高起さんが、みんなを帰したくないんだねえ」

とさおりさんがつぶやき、僕らも「本当に寂しがり屋だからなあ」などと笑う。


しばらくそうして和んでいたが、各々次の予定が迫ってきてしまった。覚悟を決め、雨の中を駅に向かって走り出す。傘は全く役に立たなかった。スニーカーの中が絶望的な冷たさでグショグショに沈んでいくのを感じる。

ふと、まだ鴫原さんが生きているときに、最後にこの家に来た日のことを思い出した。去年の年始のことだ。テツと二人で鍋を食べに来て、鴫原さんに「泊まっていったっていいんだぞ」と誘われたのを二人して固辞し、この道を走って終電に駆け込んだのだった。あの夜、慌てて帰る僕らを見送った後、鴫原さんはどんな夜を過ごしたのだろう。……


電車内で海野と内野と別れ、上野に向かう。3COINS でサンダルを買って履き替え、福田くんとさっちゃんと合流し、御徒町の中華『老酒舗』へ。僕が台湾にいてパーティーに参加できなかったので、あらためて二人の結婚祝い。

会話のなりゆきで、二人が出店予約している11月の文フリに相乗りさせてもらうことになった。福田くんとさっちゃんはそれぞれエッセイ集を販売するという。僕はここ最近撮りためている麻雀牌の写真集を出す。一冊の本にするにはまだ作品数が足りていないので、残り二ヶ月間で追い込まなければならない。


帰りの電車で、おいとこから薦められた川上未映子の短編集『ウィステリアと三人の女たち』を読んだ。

女性の身体に訪れる現実、嫉妬や執着、孤独といった内面の歪みを凝視するような作品だった。ファンタジー的な色合いが強いのに、現実的な話題が続いているのが面白い。正直、当事者としての実感から遠く、ピンとこない心理描写が多かったが、しかし読んでよかったなと感じた。直前まで、福田くんやさっちゃんと「経験を超えたものを想像すること」について話していたからかもしれない。

話のきっかけは「同質的な環境ではなく、多様な経験が得られる場に身を置くことの大切さ」が話題に上がったことだ。要するに、いろいろな経験をすることが大切だよね、という話である。もちろん、その考え自体に異論はない。けれど僕は二人に「自分の関心はもう少し別のところにある」と言った。それは、どうしたら人は「自分が経験したこと」だけに依存せずに考えられるのか、ということだ。

人間が経験できることには、物理的な限界がある。どれだけ多様な場に身を置き、知見を深めたとしても、二つ以上の身体を生きることはできない。例えば、僕は健康な成人男性であり、日本で暮らす日本人である。僕にとって障害を抱える人、女性や異なる性自認を持つ人、あるいは老人や子ども、日本で暮らす外国人が直面する現実は経験できない。

しかし、僕はそれらの立場に立って考えることができる。僕が特別なのではなく、人間には大なり小なりそういったイマジネーション、想像力が備わっている、ということだ。

自らの境界線を飛び越えるための想像力は、小説やドラマ、映画、演劇、漫画といった創作物から受け取ることができる。僕にとって『ウィステリアと三人の女たち』はまさにそういった作品だった。子どもの頃、父に「小説を読んでいると、自分とは違う考え方をする主人公が出てくるだろう。十冊読めば、十通りの考え方が分かる」と言われたことを思い出す。


人は、自分の肉体を超えた想像力を持つことができる。これを共通の前提であり、希望としたい。

これは自戒を込めて書くが、「裕福な育ちには貧困のつらさが分からない」「高学歴には学歴に悩む気持ちが分からない」「男性には女性の苦しみが分からない」と端から決めてかかってはならない。そうした態度は、人の持つ想像力に対する敬意を欠いた振る舞いだと反省されなければならない。

「あなたは経験していないから分からないでしょうね」といった態度の先には、決裂しかない。もちろん、同じ立場になければ、すぐには気づけなかったり、知らずに人を傷つけてしまったりすることはあるだろう。けれど、対話を諦めなければ、相手に想像してもらうチャンスは残されている。

相互理解とは、相手を想像しようという努めることと、相手もまた想像してくれるはずだと信じることによって成り立つのではないだろうか。