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僕が使っている「小杉湯となり」というコワーキングスペースには、会員が自由に飲めるフリードリンクのサービスがある。

そこで、僕がカップに三分の一ほどコーヒーを注ぎ、さらに迷いなく冷水を注ぎ足して薄めていると、後ろに並んでいた人にギョッとされることがある。めざといスタッフに見つかったときなどは、「ごめんなさい、コーヒー濃すぎましたか……?」と申し訳なさそうな顔で心配されてしまったりする。


コーヒーの水割り、いわゆる「アメリカン」をよく飲むようになったのは、今年の六月に韓国で生活をしてからだ。

韓国はコーヒーの国である。僕が暮らしていたのはソウルから電車で一時間以上揺られた郊外の町だったが、そんな町ですら徒歩圏内に十数軒のコーヒーショップが乱立していた。

人々が頼むのは決まって「アイスアメリカーノ」で、気候が二十五度前後に差し掛かる初夏の頃、散歩して火照った身体にあの冷たい液体を流し込むのは最高の涼だった。薄いアメリカンだからこそ、大きなサイズでがぶがぶと煽っても、カフェインの悪酔いを起こさずに済む。そうやって気になるカフェをハシゴしていると、この町をいくらでも歩いていけるような気した。


また、コーヒーを水で割るのはアイスに限った話ではない。当時、お世話になっていたホームステイ先では、毎朝ホストファミリーのお婆さんが朝食と一緒にドリップコーヒーを用意してくれた。大きなサーバーからカップへ注いでくれるのだが、お婆さんはそのまま僕に渡すのではなく、そこに当然のような顔でお湯をなみなみと足してから手渡してくれるのだ。日本の喫茶店で出てくるアメリカンを、さらに半分に割ったくらいの薄さである。

「これではコーヒーの香りがついた白湯では……」と困惑したが、それを啜りながらお婆さんの話を聞いていると、コーヒーの風味だけがスイスイと僕の喉を通っていく。まるで水と同じように体の中にすーっと吸い込まれていくようだ。引っかかるノイズが何ひとつない。気づけば何杯もおかわりしてしまっていて、数日経った頃にはその頼りない薄味がすっかりクセになっていた。


滞在中、日曜日になると近所の教会に足を運んだ。信徒にはなり損ねたが、十代の頃にミッションスクールで叩き込まれた聖書や讃美歌の素養は、海外の旅先で思いがけず役に立つことがある。教会に行けばタダで食事が食べられるし、地元の人たちとも親しくなりやすい。

ある日、教会の食堂で顔なじみになった男性と立ち話をしていると、彼は慣れた手つきでコーヒーメーカーからカップへ数センチほど注ぎ、軽く匂いを嗅ぐと、隣に置かれた寸胴のステンレスキーパーからコックをクイッとひねって躊躇なく水を注ぎ足した。僕との会話を途切れさせず、あまりにも自然に行われたその一連の動作に、僕は思わず言葉を忘れて見入ってしまった。

以来、僕もその作り方を真似するようになったのだが、その日の気分に合わせた味を出すのはけっこう難しい。そもそも、ベースとなるコーヒーの濃さが日によって変わる。だから、まずカップの底に少しだけコーヒーを注ぎ、一口舐めて味を確かめてから、コーヒーや水を注ぎ足す。慣れれば香りを嗅ぐだけで判別できるのだろうが、その域は遥か先だ。

味だけではなく、所作としての美しさも求めたい。僕が見た男性の仕草には「粋」のようなものがあった。コツは、ゆっくりと、しかし迷いなく行うことだ。あまり丁寧に味を調整している感じが出るとダサい。印象としては、雑然とした動作なのだ。「生まれてこの方ずっとこうして飲んでます」というかんじを目指したい。そうして練習を重ねて、納得のいく一杯が作れるようになってきたとき、僕は自分の身体がこの町に馴染んでいることに気がついた。

滞在中、韓国語は一向に上達しなかったので、これだけが僕が韓国で習得した唯一の技術といえるだろう。それを忘れてしまわぬよう、今日もコーヒーの水割りを作って飲んでいる。