杉並区の公園は、八月いっぱいまで花火ができる。ということで、八月最後の思い出づくりをしてきた。





明寿香が「自分たちはイワモトさんと普通に話すけれど、上の代の先輩たちは少し緊張している」と話していた。
明寿香や大介、唯菜は、僕が大学院にいた頃の学部生だ。僕は一度社会人を経験してから進学したため、彼らとは一回りほど歳が離れている。大学院生というポジションは学部生の縦社会から少し浮いていたこともあり、僕らは互いにフラットに話すようになった。けれど、彼らの先輩にあたる代は、僕と在学期間が重なっておらず、その人たちにとって僕は「先輩の先輩」になる。だからどうしても緊張感が生じるのだという。なるほど、これは面白い発見だった。
僕は、一人の人間が、置かれる文脈によってまったく異なる接され方をしているのを見るのが好きだ。人間関係は少し混沌としている方が美しいと思うし、自分自身もできるだけ多くの相対性が重なり合う場所に身を置いていたいと思う。
中学校の頃、恐る恐る接していた部活の厳しい先輩が、ふらっと現れたOBに小さくなっている姿。同級生の家に遊びに行ったとき、学校でのキャラクターからは想像もつかないような扱いを家族から受けている姿。こういう光景に出会うと、何だか嬉しくなってしまう。平野啓一郎のいう「分人」的なものを実感するからだ。高校時代には、友人が後輩から妙に馴れ馴れしく話しかけられていて不思議に思っていたら、中学時代の元恋人だった、なんてこともあった。
ある人が、高校の友人からは当時のあだ名で呼ばれ、大学の友人からはまた別の呼び名で呼ばれ、職場の同僚からは敬称付きで呼ばれている。そんな光景を目にすると心が躍る。家では子どもから「お父さん」と呼ばれ、パートナーからは聞いているこちらが照れてしまうような愛称で呼ばれているのかもしれない、と想像が広がっていく。
人間は、たったひとつの「本当の自分」という固定された存在を生きているわけではない。誰といるか、どんな関係性の中に立つかによって、立ち現れる人格がくるくると変化していく。相手によって、あるいは時間や場所によって、幾重もの顔を使い分けながら生きている。多面体のように変化するその姿こそが、人間の持つ豊かさなのだと思う。