夜、高円寺駅北口のロータリーに「フリー哲学」と書かれた看板を出してる男性がいた。
彼の前には小太りの明らかな酔っ払いのオッチャンが立っていて、フリー哲学の人はそのオッチャンの話に大きく頷きながらめちゃくちゃ丁寧に話を聞いているようだった。というか、フリー哲学などと書いてあるからそれは辛うじて「傾聴の姿勢」に見えたものの、看板がなければ気のよさそうな人が酔っ払いに絡まれているようにしか見えなかっただろう。
看板の脇には「自由に読んでください」的な本が並べられており、覗き込んでみると、少し気になっていた本屋メガホンの『ケアをクィアする』が置かれていた。僕は酔っ払いに絡まれないように細心の注意を払いながらにじり寄っていき「これ、読んでいいすか」と声をかけてみたのだった。が、なんやかんやあって気づけば酔っ払いのおっちゃんも含めて僕たち三人は一時間もその場で話し込んでしまった。
別れ際、フリー哲学の人こと青木さんから『Open Be-in 運動』と題された ZINE をもらった。そしていま向かいのデニーズに入り、ドリンクを飲みながらページをめくっているのだが、ちょっとその内容に圧倒されてしまっている。

ここに書かれているのは、青木さんがなぜ路上に立ち「フリー哲学」なんてものを始めるに至ったのかという、剥き出しで切実な生の告白だ。
43歳、非正規雇用の極貧生活、孤独。中年になってアートを商品として売る才能もなく、かといって趣味と割り切ることもできない。葛藤の果てに青木さんが行き着いたのは、表現活動を「政治化=社会運動化」することだった。そうして表現という行為そのものを社会の中に無理やりにでも位置づけ、この生きづらい世界で己のアートを生き残らせるための試みを行なっているのだという。
かつてブルーハーツの狂おしいステージやビート文学に救われた青木さんにとって、表現とは個人の最も奥深い部分を曝け出す「切実な自己解放」そのものだった。けれど、今の社会には本当の自分を開示し、本音を受け止めてもらえる場が圧倒的に足りない。だからこそ、青木さんは自分の足で路上に立ち続けたり、こうした ZINE を作ったりしている。
ページには、青木さんが日常のあらゆる隙間に仕掛けようとしている、驚くほど具体的で泥臭い実践のアイデアがびっしりと並んでいる。それらはどれも、効率や生産性を求める社会の中で孤独に押し込められ、声を失ってしまった人々の「存在」と「声」を取り戻すための切実な抵抗の希望のように見えた。


