たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)
たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。
北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)
環境に浸っているのではなく、環境から「浮いている」ような状態。
まずこのことを「例外的」に存在している、と概念化してみます。環境に溶解しないモノらしいモノ。いささか唐突ですが、ここで私は精神分析的に「ファルス」(男根の象徴)の概念を参照するのがひとつの手ではないかと考えます。ファルスとは単一の、まさしく特権的な例外者です。人間の身体においてそれは、その場所だけ特権的に出っ張っている例外的なものです。精神分析の基本的な図式によれば、ファルスはエロスの集中する性感帯として特権的な場所であり、性感帯ではない通常の場所はそれに対立している。したがって、モノらしく切断的にある建築とは「例外的ではない=通常の」エリアから「屹立」したモノ、すなわちファルスを連想させる、と考えてみましょう。
千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)
音楽を人に届ける段階に入って必要なのはやっぱりコミュニケーションで、独りっきりで思い込みの強い状態でやるよりも複数人とやったほうがより多くの人に届くだろう、というのはいつも思うことである。いわばアレンジャーやレコード会社の人、MV監督というのは最初にアーティストが思いついたアイデアを世間に伝えるコミュニケーションのプロなのである。ただこうしてフィルターが多数入っていくと、ただでさえぼんやりした音楽というものの輪郭がさらにぼやけてしまい、自分の作ったもの、という感覚から離れてしまうような錯覚に陥る。自分に関して言えば一定の割合以下の作業しかしていないものに関しては急激に記憶の中から薄れてしまうという現象がある。自分が決めている範囲というのは個性を決定する上でとても大事な要件だと思う。
tofubeats『トーフビーツの難聴日記』(ぴあ、2022年)
私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。
だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。
北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)
アフォーダンスとは、動物が事物に関わることによって、一定の反応が返ってくる環境の傾向性のことである。簡単な例をあげれば、穴はそこに入ることや中を覗くことを動物に提供(アフォード)する。あるいは石はつかむことや投げることをアフォードする。
ギブソンによれば、ガラスの壁は見ることをアフォードするが、通り抜けることはアフォードしない。モノに限らず、他者の身体もまた、それを知覚する動物に応答的行為をアフォードする。
つまり、環境を感じつつ自ら動くものである動物が、その行為によって周囲の媒質(medium)との関係が変わり、新たな情報が伝わって、またさらなる行為へと導かれてゆく絶え間ない知覚と行為の循環、すなわち取り巻く環境と出合う場面で知覚されるものがアフォーダンスなのである。
北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)
すると、ひなたぼっこするトカゲについて考えることは案外困難である。トカゲの身になってトカゲを眺める必要があるからだ。私たち人間はそこにトカゲ/岩/太陽の三つの独特の関係を見ているが、それはトカゲ自身にとってはいかなるものなのだろうか? トカゲ自身は太陽の光や岩をどう経験しているのだろうか?
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)
ひとはみずからの身体を駆使してさまざまなものを「思いどおりになる」よう操作し、変形してきた。そのことで「自然の主」(デカルト)になろうとしてきた。けれどもそういう操作という行為の媒体である身体という存在が、よりによってじぶんの意のままにならないということ。このこともまた、病気一つ取り上げるまでもなく人びとが日常よく経験してきたことである。ここにも《所有》の両義的な構造がしかと映しだされている。ここでわたしたちが突き当たるのは、あらゆる《所有》の媒体である「わたしの身体」をわたしは所有するのではないという事態である。
鷲田清一『所有論』(講談社、2024年)