しかし、むしろ、物語的に世界を理解することには危険が伴うのではないだろうか。人生を一貫した物語として描くことは、個々の経験の断片性や曖昧さを排除し、特定の解釈を人生に押し付けることになる。さらには過去を書き換え、未来を固定化する危険がある。逆にいえば、自らの人生を明確なナラティブとして語ることができない場合、人は自身の生が意味を欠いたものなのではないか? という不安にさらされることになる。
例えば、アメリカに長らく住む一人の白人男性が、移民によって就労の機会が奪われていると感じたり、性的少数者のためにばかり国家が支援を行っている──白人こそが迫害されているのだ、という物語を信じていたとして、この人が信じる物語は正しいのだろうか。もちろん、この人の苦しみはリアルであり真実である。だが、その真実の苦しみの理由として信じる物語は、フェイクであり嘘であるかもしれない。移民や性的少数者のせいではなく、巨額の富を得ている人々がさらにその富を殖やすために、アメリカの格差を放置し続けていただけかもしれない。だが、物語というものはおしなべてリアリティがありすぎて、それに反駁することが難しい点に危険があるのだ。
難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)