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祐治は人の一生を想像した。

生まれ落ちた時に水のいっぱい入った皿を持たされ、こぼさないように歩く。歩いている途中でいつの間にか水は蒸発したり、躓いた拍子にこぼれ落ちたり、また人に与えたりして減っていく。人によって皿が空になる時間はまちまちである。

水をたっぷり残しても、褒められるわけでも、何かもらえるわけでもない。弱いもの同士で寄り合い、危険を避け、見て見ぬ振りを決め込んで辛いことや嫌なことをやり過ごして一生を終えてどうする。儚い時間を歯を食いしばって耐えて何になるだろう。

佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社、2023年)

「このクジラの声はね、誰にも届かないんだよ」

少年が目を微かに見開き、首を傾げる。

「普通のクジラと声の高さが――周波数って言うんだけどね、その周波数が全く違うんだって。クジラもいろいろな種類がいるけど、どれもだいたい10から39ヘルツっていう高さで歌うんだって。でもこのクジラの歌声は52ヘルツ。あまりに高音だから、他のクジラたちには、この声は聞こえないんだ。いま聞いているこの音もね、人間の耳に合わせて周波数をあげているらしいから、実際はもっと低い声らしいんだけど……」

52ヘルツのクジラ。世界で一番孤独だと言われているクジラ。その声は広大な海で確かに響いているのに、受け止める仲間はどこにもいない。誰にも届かない歌声をあげ続けているクジラは存在こそ発見されているけれど、実際の姿はいまも確認されていないという。

「他の仲間と周波数が違うから、仲間と出会うこともできないんだって。例えば群がものすごく近くにいたとして、すぐに触れあえる位置にいても、気付かないまますれ違うってことなんだろうね」

本当はたくさんの仲間がいるのに、何も届かない。何も届けられない。それはどれだけ、孤独だろう。

町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』(中央公論新社、2023年)

そういうところがとても好きだったのに、そういうところが佐伯であるとさえ思っていたのに、そうではなかった。宙が好きだった姿、佐伯そのものだと信じていた部分は、驚くほど簡単に、削ぎ落とされてしまった。

その原因は、二年前に佐伯の父が病で急逝し、『ビストロ サエキ』の二代目オーナーになったことだと宙は思う。店を継ぐ、ということがどれだけ大変なのか、宙には分からない。ずっと共に生きてきたひとと『死』によって別れる辛さも、知らない。佐伯の父は宙を可愛がってくれていて、だからその死はとても哀しかったけれど、別れが寂しくて泣いたけれど、だからといって宙の中の何かが大きく変わったとは思えない。でも、『死』は時としてひとを変えるほどのものなのだ、ということは佐伯の変化によって知った。

以前の姿のほうが好きなのに。そう思うけれど、きっと、口にしてはいけないことだろう。佐伯を悲しませてしまうような気がする。だけど、ときどきふっと寂しくなる。同じ夏は来ないように、ひともまた変化し、同じひとには戻らないのだ。

『盆栽よ、盆栽』

佐伯の変化に戸惑う宙にそう言ったのは、花野だった。

『野放図に枝葉広げて気持ち良く生きるのは楽に見えるかもしれないけどさ、大きくなってくるとなかなか大変なんだよ。枝が重くて折れちゃうこともあるし、栄養が足りなくなって枯れちゃうかもしれない。自分を守るために自分自身を剪定しなきゃいけないときって、あんのよ。でもそれは自分の芯、幹を守るためだから、幹は絶対失われないのよ。だから、大丈夫よ』

町田そのこ『宙ごはん』(小学館、2025年)

「高慢? 死人がかい」

「あたし、兄さんのことを考えると、いつも腹が立つのよ。馬鹿にされたような気分になる。死者はいつも生き残った人間をせせら笑ってるんだわ。まだ、そんなことやってるのか、って。ご飯を食べたり、会社へ行ったり、恨んだり、怒ったり、笑ったり、傷つけ合ったり。死者から見れば、あたしたちってずいぶん頓馬に見えるはずよ」

「そう……かな」

「立ち去っていく側は格好はいいわよ。この前、夜中のテレビで『シェーン』を見たわ。あの坊やが〝シェーン・カムバック!〟って叫んでも、シェーンは去っていくだけよね。当たり前よ。忘れものして取りに帰ってきたりしたら、ずいぶん間抜けだもの。シェーンは二度と帰ってこない。だって、映画がそこで終わりなんだもの。でも、もしカメラがずっと回り続けているのなら、あの牧場でお母さんと坊やは黙々と働き続けるのよ。毎日まいにち、木の切り株を抜いたり、麦を植えたり、牛にエサをやったり、単調な作業を続けていく。坊やは年々大きくなって、そのうちに大人になるんだろうけど、坊やの心の中で、シェーンは思い出になって生き続けている。それも年々きれいなあざやかな思い出になっていく。シェーンが格好よく立ち去ったっていうのは、あいつの卑怯な手口なのよ。思い出になっちゃえば、もう傷つくことも、人から笑われるような失敗をすることもない。思い出になって、人を支配しようとしているんだわ」

「それが、死人のやり口ってわけだな」

「死者は卑怯なのよ。だからあたしは死んだ人をがっかりさせてやるの。思い出したりしてあげない。心の中から追い出して、きれいに忘れ去ってやるの」

中島らも『今夜、すベてのバーで』(講談社、1991年)

「みじめな状態でいるよりは意識を失っていたほうがマシ」

……か。

みじめな人間がすべてジャンキーになるのだったら、世界中にシラフの人間は一人もいなくなるだろう。同じ苦痛を引き受けて生きていても、中毒になる人間とならない人間がいる。幸か不幸か、なにかの依存症になってしまった人間が、一番言うべきでないのが、プレスリーの台詞なのではないか。中毒におちいった原因を自分の中で分析するのはけっこうだが、〝みじめだから中毒になりました〟というのを他人さまに泣き言のように言ったって、それは通らない。それでは、みじめでなおかつ中毒にならない人に申し訳がたたない。〝私のことをわかってくれ〟という権利など、この世の誰にもないのだ。

中島らも『今夜、すベてのバーで』(講談社、1991年)

「何故、そうやって武装するくせに、人を求めるんだ。ならば、一人で居なさい。人を信じられるようになるまで、ずっと一人で居ることだよ。少しも恥ずかしいことではないんだよ。 […] 」

柚木麻子『ナイルパーチの女子会』(文藝春秋、2015年)

「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」

村田沙耶香『コンビニ人間』(文藝春秋、2021年)