リンクをコピーしました

祐治は人の一生を想像した。

生まれ落ちた時に水のいっぱい入った皿を持たされ、こぼさないように歩く。歩いている途中でいつの間にか水は蒸発したり、躓いた拍子にこぼれ落ちたり、また人に与えたりして減っていく。人によって皿が空になる時間はまちまちである。

水をたっぷり残しても、褒められるわけでも、何かもらえるわけでもない。弱いもの同士で寄り合い、危険を避け、見て見ぬ振りを決め込んで辛いことや嫌なことをやり過ごして一生を終えてどうする。儚い時間を歯を食いしばって耐えて何になるだろう。

佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社、2023年)

「何故、そうやって武装するくせに、人を求めるんだ。ならば、一人で居なさい。人を信じられるようになるまで、ずっと一人で居ることだよ。少しも恥ずかしいことではないんだよ。 […] 」

柚木麻子『ナイルパーチの女子会』(文藝春秋、2015年)

「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」

村田沙耶香『コンビニ人間』(文藝春秋、2021年)

飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。

井戸川射子『この世の喜びよ』(講談社、2024年)

食事というものは、広義に「あまじょっぱい」ものだ。甘みのある穀類を、塩気(と甘み)のあるおかずと一緒に食べるのだから。あまじょっぱい、それは、生と死の、有機と無機の、エロスとタナトスの往還に他ならない。食事は、死に近づこうとする自己破壊の実験でもある。満腹になって眠くなる(あるいは、セックスをして眠くなる)。満腹になって仮死状態になる。食事は、生きて考える持続を中断することである。生きて考えることに疲れ、倒れ込むようにしてなされる食事は、実質的にエネルギーの回復であっても、形式的・儀式的には、死のシミュレーションでありうる。労働の後で、もういい、もうだめだと、食事へ倒れ込むのである。逆に、 食事を死のシミュレーションにしない=生の持続をそのまま延長するためには、食べすぎてはいけない、つまり、眠くならないように調整する(労働の前の少しの朝食、労働の途中に補給する糖)。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

どんな狂気も、他人事ではない。おなじアパートに住む、おなじような生活水準の人間のやったことなのだから、なおさらである。

なにをそんなに狂うことがあるのかとは思うけれども、それは自分が狂っていないから、そんなに悠長なことを思えるのだ。

狂気は、とうに私たちのなかで眠っているのだから、いつ自分が他人の洗濯ものをばら撒くようになるかわからない。きっかけひとつで、すべてがひっくり返ってしまうことを、私たちはよく知っているはずだ。

小原晩『これが生活なのかしらん』(大和書房、2023年)

孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。──同時代に対する水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力。それが、他者の存在のどこを探ってみても、見出せないということ。

平野啓一郎『マチネの終わりに』(コルク、2019年)