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幼い日の畑で、祖父母が飲んでいた水筒の中のポカリスエットは、きっと少し生ぬるかったろう。毎朝、日課のようにそれを缶から水筒に移しかえていた祖母の姿も、むわっとした暑さに満ちた畑で空を仰ぐようにカップを傾けていた祖父の姿も、時が経てば経つほど、なぜか、歳月に補われるように逆に鮮明になっていく。覚えていたい、と思うからかもしれない。

辻村深月『図書室で暮らしたい』(講談社、2015年)

「高慢? 死人がかい」

「あたし、兄さんのことを考えると、いつも腹が立つのよ。馬鹿にされたような気分になる。死者はいつも生き残った人間をせせら笑ってるんだわ。まだ、そんなことやってるのか、って。ご飯を食べたり、会社へ行ったり、恨んだり、怒ったり、笑ったり、傷つけ合ったり。死者から見れば、あたしたちってずいぶん頓馬に見えるはずよ」

「そう……かな」

「立ち去っていく側は格好はいいわよ。この前、夜中のテレビで『シェーン』を見たわ。あの坊やが〝シェーン・カムバック!〟って叫んでも、シェーンは去っていくだけよね。当たり前よ。忘れものして取りに帰ってきたりしたら、ずいぶん間抜けだもの。シェーンは二度と帰ってこない。だって、映画がそこで終わりなんだもの。でも、もしカメラがずっと回り続けているのなら、あの牧場でお母さんと坊やは黙々と働き続けるのよ。毎日まいにち、木の切り株を抜いたり、麦を植えたり、牛にエサをやったり、単調な作業を続けていく。坊やは年々大きくなって、そのうちに大人になるんだろうけど、坊やの心の中で、シェーンは思い出になって生き続けている。それも年々きれいなあざやかな思い出になっていく。シェーンが格好よく立ち去ったっていうのは、あいつの卑怯な手口なのよ。思い出になっちゃえば、もう傷つくことも、人から笑われるような失敗をすることもない。思い出になって、人を支配しようとしているんだわ」

「それが、死人のやり口ってわけだな」

「死者は卑怯なのよ。だからあたしは死んだ人をがっかりさせてやるの。思い出したりしてあげない。心の中から追い出して、きれいに忘れ去ってやるの」

中島らも『今夜、すベてのバーで』(講談社、1991年)

「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? […] 展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」

蒔野はそう言うと、少し間を取ってから言った。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

平野啓一郎『マチネの終わりに』(コルク、2019年)

飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。

井戸川射子『この世の喜びよ』(講談社、2024年)

かつて写真は非常に限られたタイミングでしか撮られず、それが現在との断絶を印象づけ、写真に備わる一種の「思い出性」とでも呼べる性質を支えていた。これは人間の記憶に似ている。大部分を忘れてしまうからこそ、覚えているごく少数の記憶が思い出として重宝される。思い出とは、その少なさに支えられている。[…]

量の問題は写真にとってとても重要だ。死ぬときに見るという走馬灯は、大部分を忘れたダイジェストだから可能な現象だろう。インスタグラムの「ストーリーズ」は写真をあくまで思い出の領域にとどめておこうとする試みのように思える。

大山顕『新写真論 スマホと顔』(株式会社ゲンロン、2020年)

「そう。記憶は、いつまでも同じじゃなくて、思い出す度に上書きされるって言うでしょう? 今日、あの夜の光景を思い出したら、明日は、今日思い出したあの夜の光景しか思い出せない。ヴィデオで撮影して、二人でそれを見れば、あの夜の記憶にも、きっとそれが上書きされる。消そうとしないで、そうやって今の二人を塗り重ねていった方がいいと思う。」

平野啓一郎『透明な迷宮』(新潮社、2014年)

元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か、と祐治は思う。十年前か。二十年前か。一人ひとりの「元」はそれぞれ時代も場所も違い、一番平穏だった感情を取り戻したいと願う。

道路ができる。橋ができる。建物が建つ。人が生活する。それらが一度ひっくり返されたら元通りになどなりようがなかった。やがてまた必ず足下が揺れて傾く時がくる。海が膨張して押し寄せてくる。この土地に組み込まれるようにしてある天災がたとえ起こらなかったとしても、時間は一方向にのみ流れ、一見停止しているように見える光景も絶え間なく興亡を繰り返し、めまぐるしく動き続けている。人が住み、出ていく。生まれ、死んでいく。

佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社、2023年)