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「でも、これはまさにそういう話。結局、我々は過去の時代について、残された断片から想像するしかない。古典学者が勘違いしたのも仕方ない。だが、我々が新たな物の見方を獲得したと同時に、古代人の見方を失ってもいることは忘れてはいけないけれど」

鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版、2025年)

「ああ、まったく」と「先生」は頷く。「実生活から取ってこようと、書物から取ってこようと、そんなことはどうでもよいのだ、使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ! 私のメフィストフェレスも、シェイクスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェイクスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものを作り出さなければならないのだろうか? 芸術には、すべてを通じて、血統というものがある。かつてのドイツの若者は会話の節々で聖書を引用することができるように教育されたが、それは結局、感情や事件というものが永遠に回帰することを暗示し明示するのだ。我々の思想を表現するのに先人の吟味された教養ある言葉を用いるとき、彼らが我々の心の奥深くを我々以上に巧みに開いて見せることを認めるのだ。巨匠を見れば、常にその巨匠が先人の長所を利用していて、そのことが彼を偉大にしているのだ」

鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版、2025年)

私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。

だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。

北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)

アフォーダンスとは、動物が事物に関わることによって、一定の反応が返ってくる環境の傾向性のことである。簡単な例をあげれば、穴はそこに入ることや中を覗くことを動物に提供(アフォード)する。あるいは石はつかむことや投げることをアフォードする。

ギブソンによれば、ガラスの壁は見ることをアフォードするが、通り抜けることはアフォードしない。モノに限らず、他者の身体もまた、それを知覚する動物に応答的行為をアフォードする。

つまり、環境を感じつつ自ら動くものである動物が、その行為によって周囲の媒質(medium)との関係が変わり、新たな情報が伝わって、またさらなる行為へと導かれてゆく絶え間ない知覚と行為の循環、すなわち取り巻く環境と出合う場面で知覚されるものがアフォーダンスなのである。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

「そうですね、……大祐さんの人生と混ざっていくのか、同居してるのか。──そうなると、僕たちは誰かを好きになる時、その人の何を愛してるんですかね? ……出会ってからの現在の相手に好感を抱いて、そのあと、過去まで含めてその人を愛するようになる。で、その過去が赤の他人のものだとわかったとして、二人の間の愛は?」

美涼は、それはそんなに難しくないという顔で、

「わかったってところから、また愛し直すんじゃないですか? 一回、愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう? 色んなことが起きるから。」と言った。

平野啓一郎『ある男』(文藝春秋、2018年)

「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? […] 展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」

蒔野はそう言うと、少し間を取ってから言った。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

平野啓一郎『マチネの終わりに』(コルク、2019年)

都市は「読まれるべきテクスト」である、という言い方がたとえできるとしても、ひとはそれを、まるで書物を読むときのように椅子に腰かけて「外側から」読んでいるわけではなく、字義通りの意味で身をもって都市のなかに入り、そこで歩き、働き、遊び、食べ、憩うことを通じて、自分でも気づかない間に「内側から」読んでいる。そしてその際、彼は他者のまなざしに晒され、自らテクストの登場人物ともなっている。

つまり、都市というテクストにあっては、テクストの読者とテクストの登場人物を区別することができない。読む者と読まれる者、まなざす者とまなざされる者の関係は最初から相互媒介的であり、ひとは、そうした二重の役柄を無意識のうちに演じているのだ。ただしその場合、彼はこの都市=テクストのなかに自由に参入できるわけでは必ずしもない。都市のなかの読者/登場人物のまなざしの布置は、都市を構成する諸装置によって条件づけられており、ひとは、これらの諸装置に媒介された場のコードに従ってはじめてテクストの読者/登場人物となることができるのである。

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008年)