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環境に浸っているのではなく、環境から「浮いている」ような状態。

まずこのことを「例外的」に存在している、と概念化してみます。環境に溶解しないモノらしいモノ。いささか唐突ですが、ここで私は精神分析的に「ファルス」(男根の象徴)の概念を参照するのがひとつの手ではないかと考えます。ファルスとは単一の、まさしく特権的な例外者です。人間の身体においてそれは、その場所だけ特権的に出っ張っている例外的なものです。精神分析の基本的な図式によれば、ファルスはエロスの集中する性感帯として特権的な場所であり、性感帯ではない通常の場所はそれに対立している。したがって、モノらしく切断的にある建築とは「例外的ではない=通常の」エリアから「屹立」したモノ、すなわちファルスを連想させる、と考えてみましょう。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。

北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)

アフォーダンスとは、動物が事物に関わることによって、一定の反応が返ってくる環境の傾向性のことである。簡単な例をあげれば、穴はそこに入ることや中を覗くことを動物に提供(アフォード)する。あるいは石はつかむことや投げることをアフォードする。

ギブソンによれば、ガラスの壁は見ることをアフォードするが、通り抜けることはアフォードしない。モノに限らず、他者の身体もまた、それを知覚する動物に応答的行為をアフォードする。

つまり、環境を感じつつ自ら動くものである動物が、その行為によって周囲の媒質(medium)との関係が変わり、新たな情報が伝わって、またさらなる行為へと導かれてゆく絶え間ない知覚と行為の循環、すなわち取り巻く環境と出合う場面で知覚されるものがアフォーダンスなのである。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

すると、ひなたぼっこするトカゲについて考えることは案外困難である。トカゲの身になってトカゲを眺める必要があるからだ。私たち人間はそこにトカゲ/岩/太陽の三つの独特の関係を見ているが、それはトカゲ自身にとってはいかなるものなのだろうか? トカゲ自身は太陽の光や岩をどう経験しているのだろうか?

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)

ひとはみずからの身体を駆使してさまざまなものを「思いどおりになる」よう操作し、変形してきた。そのことで「自然の主」(デカルト)になろうとしてきた。けれどもそういう操作という行為の媒体である身体という存在が、よりによってじぶんの意のままにならないということ。このこともまた、病気一つ取り上げるまでもなく人びとが日常よく経験してきたことである。ここにも《所有》の両義的な構造がしかと映しだされている。ここでわたしたちが突き当たるのは、あらゆる《所有》の媒体である「わたしの身体」をわたしは所有するのではないという事態である。

鷲田清一『所有論』(講談社、2024年)

というのもハーマンの根底には、オブジェクト一個一個が「無限のポテンシャル」を内包するという考えがあるからです。たとえば、ここにあるペットボトルは、私との関係においては「水飲み可能性」や「摑み可能性」など、様々なアフォーダンスを惹起するものとして存在しているわけです。ところがこのペットボトルは、私との関係を超えて、はるかに多くのプロパティを有している。薬物をかけたり、燃やしたりしたときに生じる反応など、私というオブジェクトとの関係においては解き放たれないようなポテンシャルが内在している。この剰余をハーマンは「無限の」と形容する。オブジェクトの内奥は「ブラックホール」だといった言い方をしたりもしています。

しかし、オブジェクトの内奥にあるポテンシャルの無限性が数学的にどういう意味なのはよくわかりません。ハーマンはそこを説明していないと思います。この無限性という点では、レヴィナスを想起させるものがあると私は思います。実際、ハーマンはレヴィナスから影響を受けています。つまり、他者は無限の遠さにあり、私たちがどんなに理解しようとしてもその理解を越えてしまうような、他者の他者性があるという議論です。レヴィナスの場合では、無限に遠い「人間」こそを特別に尊重しなければいけないという立場です。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

ロックが提示したところの、労働は労働する者自身のものであるがゆえに事物はそれを作りだした者のものであるという考え方。それは皮肉にも、資本主義的な所有論とそれを批判するコミュニズム的な所有論の双方で、それぞれ論拠をなしてきたものである。たとえば資本主義的な生産理論において、賃労働という労働形式の正当化がまさにこの〈労働所有論〉によってなされた。労働力は労働者一人ひとりのもの、つまり彼らに固有のものであるとするなら、それをだれか生産手段を所有する者に譲渡し、労賃と引き換えに貸与する権限もそれぞれの労働者その人にあるはずだからだ。が、もう一方で、たとえばマルクスの労働理論において、資本主義的な生産様式における労働がつねに「疎外された労働」という形態をとるのは、本来各人のものである労働が資本家に売り渡されるからだとされる。そこでは、労働による生産物、すなわち労働者自身の本質を外部へと対象化したものが(労働がもはや彼自身のものではないがゆえに)彼自身に所属しないという、いわゆる「疎外」(Entfremdung)という事態が発生するとされる。「疎外」とは、とりもなおさず、各人に固有(proper)のものとしての労働が、その固有性=所有権(property)を剝奪されているという事態にほかならないからである。

鷲田清一『所有論』(講談社、2024年)