「このクジラの声はね、誰にも届かないんだよ」
少年が目を微かに見開き、首を傾げる。
「普通のクジラと声の高さが――周波数って言うんだけどね、その周波数が全く違うんだって。クジラもいろいろな種類がいるけど、どれもだいたい10から39ヘルツっていう高さで歌うんだって。でもこのクジラの歌声は52ヘルツ。あまりに高音だから、他のクジラたちには、この声は聞こえないんだ。いま聞いているこの音もね、人間の耳に合わせて周波数をあげているらしいから、実際はもっと低い声らしいんだけど……」
52ヘルツのクジラ。世界で一番孤独だと言われているクジラ。その声は広大な海で確かに響いているのに、受け止める仲間はどこにもいない。誰にも届かない歌声をあげ続けているクジラは存在こそ発見されているけれど、実際の姿はいまも確認されていないという。
「他の仲間と周波数が違うから、仲間と出会うこともできないんだって。例えば群がものすごく近くにいたとして、すぐに触れあえる位置にいても、気付かないまますれ違うってことなんだろうね」
本当はたくさんの仲間がいるのに、何も届かない。何も届けられない。それはどれだけ、孤独だろう。
町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』(中央公論新社、2023年)