人は一般に、愛の方が性欲よりも崇高で、純粋だと勘違いしています。しかし、私に言わせれば、これは言語道断の誤解であって、愛などというのは、偽りと打算に満ちた、遥かに不純な代物です。愛が脆いのは、その混ぜ物のせいです。
しかし性欲は純粋です。それはただ、ひたすらに合一化だけを夢見る欲望であって、決して愛だとか、況してや生活だとか(!)に堕落することはないのです。
平野啓一郎『透明な迷宮』(新潮社、2014年)
人は一般に、愛の方が性欲よりも崇高で、純粋だと勘違いしています。しかし、私に言わせれば、これは言語道断の誤解であって、愛などというのは、偽りと打算に満ちた、遥かに不純な代物です。愛が脆いのは、その混ぜ物のせいです。
しかし性欲は純粋です。それはただ、ひたすらに合一化だけを夢見る欲望であって、決して愛だとか、況してや生活だとか(!)に堕落することはないのです。
平野啓一郎『透明な迷宮』(新潮社、2014年)
問題はここに言われる「快」が何かということである。それはたとえば「快楽」という言葉で想像するような激しい興奮状態のことではない。その正反対である。生物は興奮状態を不快と受け止める。生物は自らを一定の状態に保とうとする。
だから一見したところでは不思議に思われるかもしれないが、生物にとっての快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大なのである。生物はつまり、ある一定の状態にとどまることを快と受け止めるのだ。
そうするとすぐにこうした反論が出てくるだろう。性の快楽は人間が強くもとめる快楽であるが、これは興奮量の増大としか考えられないのではないか? ならばフロイトの言う快原理はこの単純な事実と矛盾しているのではないか?
フロイト自身がこの反論をあげて、答えを出している。性の快楽は快原理と矛盾しないのである。なぜなら性の快楽は、高まった興奮を最大限度まで高めることで一気に解消する過程に他ならないからである。オルガズムを得ると、興奮は一気にさめ、心身は安定した状態を取り戻す(フロイトは性的絶頂の後の身体は死と似た状態にあるとも述べている)。性の快楽はこの安定した状態への復帰のためにあるのだ。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)
ナショナリズムは近代国家を構成する欠かせない「イズム」だが、その内実はじつはあまりない。第六章でも名前を挙げた大澤真幸が指摘するように、ナショナリズムには、自由主義や社会主義や共産主義のような哲学的な基礎が欠けている。にもかかわらず、それはふしぎなことに世界中の人々を惹きつけ続けている。その事実は、ナショナリズムの力が、理性ではなく欲望に、国民の意識ではなく無意識に根ざしたものであることを意味している。ナショナリズムとはまずは情念の問題なのだとすれば、ナショナリズムに駆動された国民に対して、欲望の対象がいかに魅力を欠いているか(国家がいかに虚像で覆われているか)、欲望の実現がいかに「高くつく」 ものなのか(排外主義がいかに経済的に損になるか)、一所懸命説いたとしてもたいして効果は望めないのもまた当然のことだろう。実際に過去四半世紀、知識人たちは理知的なナショナリズム批判をあちこちで繰り返してきたが、政治的にはほとんど影響力をもつことができなかった。
東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)
「そうですね、……大祐さんの人生と混ざっていくのか、同居してるのか。──そうなると、僕たちは誰かを好きになる時、その人の何を愛してるんですかね? ……出会ってからの現在の相手に好感を抱いて、そのあと、過去まで含めてその人を愛するようになる。で、その過去が赤の他人のものだとわかったとして、二人の間の愛は?」
美涼は、それはそんなに難しくないという顔で、
「わかったってところから、また愛し直すんじゃないですか? 一回、愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう? 色んなことが起きるから。」と言った。
平野啓一郎『ある男』(文藝春秋、2018年)
「異性の性器に性的な関心があるのは、どうして自然なことなんですか」
寺井検事、と、越川の声が聞こえる。
「ひとりの異性に何十年も性的に興奮し続けることは、誰かにこうして取り調べられることがないくらい自然なことなんですか」
朝井リョウ『正欲』(新潮社、2021年)
「もし、なんていうの、下半身が着脱式で、セックスするときに好きなほうを選べるみたいなことになったら、私絶対男性器を選ぶし挿入する側に回る自信があるんだよね。幹事とか運転役に自然になるみたいに、そういうときもそっち側のほうが絶対しっくりくるはずなの」
朝井リョウ『生殖記』(小学館、2024年)
たとえばセックスから介助まで、身体の接触を伴うコミュニケーションでは、言語外の、無意識の領域も含めた双方向的なコミュニケーションが発生する。このとき相手を独立した存在として尊重しつつ、互いの身体の一部を同化させることが要求される。こうしたコミュニケーションが成功したとき、自己の一部が他者と融解することで、自己を維持したまま他者に向けて開かれる。
セックスにおける相互の自己滅却の欲望が交錯した結果もたらされる生成から、介助者と被介助者との間に発生する生成まで、ときにロマンチックな修辞を凝らして語られるコミュニケーションの共通点は、自己を部分的に滅却し、他者と部分的に同一化することが、その対象を他の人間と交換することのできない存在であると認識させる点にある。このとき「私」は「私たち」になる。
宇野常寛『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版、2022年)