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都市は「読まれるべきテクスト」である、という言い方がたとえできるとしても、ひとはそれを、まるで書物を読むときのように椅子に腰かけて「外側から」読んでいるわけではなく、字義通りの意味で身をもって都市のなかに入り、そこで歩き、働き、遊び、食べ、憩うことを通じて、自分でも気づかない間に「内側から」読んでいる。そしてその際、彼は他者のまなざしに晒され、自らテクストの登場人物ともなっている。

つまり、都市というテクストにあっては、テクストの読者とテクストの登場人物を区別することができない。読む者と読まれる者、まなざす者とまなざされる者の関係は最初から相互媒介的であり、ひとは、そうした二重の役柄を無意識のうちに演じているのだ。ただしその場合、彼はこの都市=テクストのなかに自由に参入できるわけでは必ずしもない。都市のなかの読者/登場人物のまなざしの布置は、都市を構成する諸装置によって条件づけられており、ひとは、これらの諸装置に媒介された場のコードに従ってはじめてテクストの読者/登場人物となることができるのである。

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008年)

パート先の常連客の言葉に傷ついて母の胃に潰瘍ができたり、泉が彼氏の言葉に耳を真っ赤にしたりするのを見ればわかる。自分だけの体を持っている人はいない。みんな気がついていないだけで、みんなくっついて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあっていて、独占できるものなどひとつもない。

朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』(新潮社、2024年)

私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。

だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。

北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)

中島岳志は、「合理的利他主義」が、自ら「利他」だと思った行為が、そのまま利他として受け取られることが前提となっていることの危うさについて触れ、与え手が意思をもって利他的行為をしても、それが利他であるかはわからないという。

自分の行為の結果は所有できるものではない。あくまでも与え手の意思を超えて、 受け手がその行為を「利他的なもの」として受け取ったときに、初めて相手を利他の主体に押しあげることができるのである。

伊藤亜紗は、「私の思い」による利他的な行為が他者をコントロールし、支配することに警鐘を鳴らす。これをすれば相手は喜ぶはずだという利他の心は、善意の押しつけにもなりうるし、容易に他者の支配へと転じるという。

[…] だからこそコントロールを手放す。不確実性を受け入れる。伊藤は「うつわ的利他」という言葉で、相手が入り込める「余白」をもつことの重要性を説いている。 […]

伊藤はまた、他者への「ケアとしての利他」に意外性を見出す。行為者の計画通りに進む利他は押しつけになりがちだが、ケアとしての利他は、計画外の出来事へと開かれ、他者の潜在的な可能性に耳を傾け、それを引き出すと論じる。さらにそこには自分自身も変化する可能性があるという。一方的でない利他とは「他者の発見」であると同時に「自分の変化」をともなうのである。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

「何故、そうやって武装するくせに、人を求めるんだ。ならば、一人で居なさい。人を信じられるようになるまで、ずっと一人で居ることだよ。少しも恥ずかしいことではないんだよ。 […] 」

柚木麻子『ナイルパーチの女子会』(文藝春秋、2015年)

これまで「意図の誤謬」(Intentional Fallacy)や「作者の死」(La mort de l'auteur)の名の下に、芸術家の意図は批評行為から排除されてきた。「誤読の権利」や「読みの多様性」と称して、作家の思想を恣意的に排除する身振りは、あまりにも怠慢であったと自省しなければならない時期にきている。作家のコード化のプロセスもまた作品を見極める重要なポイントに違いないからだ。

ただし、意図が表現に明確に反映されている場合もあれば、それを裏切って異なる表現が成立していることもあるだろう。むしろ作者が語り得なかったこと、あるいは作家の無意識的な実践のほうに芸術批評の営為は向けられるべきである。真に創造的な表現者は、意図やコントロールを超越したところで優れた作品を産み落とす。作品には(無意識的に)厖大な日常経験や偶発性が投影されているのだ。それを見逃すことなく作品の細部を見出すこと。そして作品が生成する歴史的条件=コンテクストにも目を配ること。そうすることで作品の内部に思いがけない作家の実践を発見し、作品を捉え直すことができると同時に、予想だにしない作品同士が共鳴し始めることだろう。

北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)

アフォーダンスとは、動物が事物に関わることによって、一定の反応が返ってくる環境の傾向性のことである。簡単な例をあげれば、穴はそこに入ることや中を覗くことを動物に提供(アフォード)する。あるいは石はつかむことや投げることをアフォードする。

ギブソンによれば、ガラスの壁は見ることをアフォードするが、通り抜けることはアフォードしない。モノに限らず、他者の身体もまた、それを知覚する動物に応答的行為をアフォードする。

つまり、環境を感じつつ自ら動くものである動物が、その行為によって周囲の媒質(medium)との関係が変わり、新たな情報が伝わって、またさらなる行為へと導かれてゆく絶え間ない知覚と行為の循環、すなわち取り巻く環境と出合う場面で知覚されるものがアフォーダンスなのである。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)