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そもそも、人間にはなぜ自由が必要なのでしょうか。ミルの考えでは、それは人間の可謬性と高い修正能力ゆえです。つまり、人間はえてして判断を誤るが、それを自由な討論によって修正する能力にも富んでいるというのです。それゆえ、ミルは自由の確保を「自分自身の可謬性に対して予防策をとる」ことと見なします。これは一種の「リスクヘッジ」と言い換えてもよいでしょう。[…]

人間は誰でも失敗する。この誤謬の可能性を織り込んで、人間の考えを最大限に多様にし、オープンな討論を経て意見を修正してゆくことが、ミル的な自由主義の基本的な考え方です。

福嶋亮大『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』(星海社、2022年)

この未来への開かれについて考えるために、哲学者、エルンスト・ブロッホの時間論を参照しよう。ブロッホは、時間の進行を単なる直線的なものではなく、未来へと絶えず開かれた未完了のものと捉えた(ブロッホ 2012)。ブロッホにとって、「現在」とは、過去の遺産を受け継ぐだけのものではなく、つねに未来を先取りして生成し続ける場所だ。ブロッホの時間論の核心には、「先取り」がある。これは、現在の時間が未来を取り入れながら進行するという考え方だ。私たちの経験する「いま」は、未来の可能性によって導かれている。私たちは単に過去から現在へと流れる時間の中にいるのではなく、未来を手繰り寄せようとする。社会運動や政治的変革は、現状の不満や過去の亡霊による抑圧から生じるだけでない。マイナスをゼロにするだけではなく、「未来をこのようにしたい」という想像力によっても規定される。決して不平等は解消されない、という未来を描き信じてしまえば、その通り未来は変わらない。なぜなら、私たちの未来像に従って私たちの未来が形作られているのだから。つまり、私たちの〈生きている時間〉には未到来の時間が絶えず到来してくる。未来の光が現在を照らし、その光にしたがって私たちの行動が決定される。私たちは現在に生きながらも、未来を想像し、それによって現在を変えようとする。

現在の時間はつねに未来に開かれ、先取りされている。ブロッホ的な時間概念に基づけば、私たちの生きる時間は過去の亡霊によって形作られるだけでなく、未来の「まだ来ていないもの」によっても方向づけられている。私たちは「層状の時間」の中で、過去と未来の両方に開かれた現在を生きることになる。

難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)

「あ……! 前に話したことあったっけ? カミュのシーシュポスの神話の話」

「いえ、多分、聞いてないです」

「神話なんだけど、シーシュポスっていう人が、神々から大きな岩を山のてっぺんまで転がして運ぶっていう罰を受けるのよ。で、シーシュポスは言われた通り、岩をてっぺんまで運ぶんだけど、運んだ途端、岩がまた平原まで落とされちゃう。勝手に落ちるのかな? とにかく落ちる。でも、シーシュポスはこの不条理な労働を運命だと受け入れて、平原まで下りて行って、またてっぺんまで岩を運ぶのよ。何度も何度も。永遠に。運んでも何もならないのに。なんでだと思う?」

「何もならないのに……」リプトンの紙パックの中身はすでに空だった。

「ここからは私の解釈なんだけど、運命、それを神からの制約だとしましょうよ。あなたがその遼西高校に、絶対に勝てない存在であることが運命だとして、それにあなたの意志で抗うことは、たとえその運命が変わらないとしても、自由を行使するということ。運命は神が作った制約だとしても、なぜか運命に抗うことは神も止めることができない。人間に決定権がある。だったら、その自由を行使するってことが、自由に生きるってことなんじゃないかしら?」

「運んでも何もならないのにですか?」

「運んだら何かになることばかり社会も学校も勧めるわよね。でも、たとえば、大学受験の勉強をしている最中に死んでしまったら、その勉強は無意味だったか? もし、無意味だと言う人がいたら、その人はきっと結果の世界の住人よね? でも、もし、勉強そのものが楽しくて、この際もう楽しくなくてもいいわ、主体的にその人が勉強をするんだと決めてやっていたら、ごめんね、物語の結末を言うわね。その人のことを幸せな人だと思わねばならぬ、とカミュは言うのよ」

なんの前触れもなく、突然、蛇口を捻られたように涙が溢れ出した。

岩崎が節くれだった手で机の上のクリネックスを取って、目の前に差し出す。その所作がとても洗練されていて、岩崎の人生でこういうことが何度かあったんだろうなと思った。

「負けるのはわかっていて、それでもあなたの意志で毎朝タイヤを押しているなら、それを自由と呼ぶんじゃないかしら? 自由に生きるってことなんじゃないかしら?」

若林正恭『青天』(文藝春秋、2026年)

タクシーを止めて乗り込む。後ろへ後ろへすっ飛んでいく街のネオンを見ているうちに、おれは奇妙な解放感を味わった。

金もないのにタクシーに乗っている。さっき会ったばかりの男と、これから見も知らぬ人間の家へ行って泊めてもらうことになる。

どういう目にあうのか知らないが、どうなってもいいような気がした。さし当たって、失うものは何もない。ただただ流れに身をまかせて、夜の果てのどこかへ運ばれていく。それは妙に心楽しい体験だった。

おれはひょっとして、いま、「自由」なのではないか、とそう思った。「自由」という言葉は、青臭い若者たちの手垢にまみれた、気恥かしい単語だった。ただ、おれは生まれてこのかた、自分を「自由」だと感じたことは一度もなかったのだ。「自由」というのがどんな手触わりで、いかなる気配のものなのか、おれは知らなかった。

無賃乗車で夜のいずこかへ運び去られていく、タクシーの窓から、おれは夜の空気の中にかすかな香り、自由の香りを嗅いだような気がした。

中島らも『今夜、すベてのバーで』(講談社、1991年)

「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? […] 展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」

蒔野はそう言うと、少し間を取ってから言った。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

平野啓一郎『マチネの終わりに』(コルク、2019年)

遠くに行きたかった。遠くというのはずっと距離のことだと思っていた。両親も弟も繰り返しを繰り返していた。おれは多分それが嫌だった。遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。自転車便をやっていた頃の後輩がいつだったかに言っていた「ゴール」も多分そこのことだった。

「ほんの少しだけ違うことをさ、認めるだけでおんなじような毎日が、だから変わっていくんじゃないかなあ。ぼくもさ、ずっと変わらない毎日を変わっちゃいけない毎日だと思い込もうとしてたから苦しかった気がするんだよなあ」

砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)

目の前で苦しんでいるひとがいたら、自分の利害はともかく、とりあえず放っておけないという憐れみの感情。反省以前の情念。精神分析の言葉を用いるならば「無意識」の反応。じつはローティは、たいへん興味深いことに、そのような心の状態こそを「リベラル」と呼ぼうという提案を行っている。「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びとが、リベラルである」と彼は宣言している。これはずいぶんと奇妙な提案である。というのも、「リベラル」ないし「リベラリズム」は一般には、あらためて指摘するまでもなく、自由という理念を重視する人々、およびその思想を意味する政治用語であり思想用語だからである。にもかかわらず、ローティは、それをあえて、理念を必要としない、身体的な反応を意味する言葉として捉え返した。ここには明らかに、自由とは、抽象的な理念ではなく、むしろ、動物としての人間がたがいに憐れみを抱き感情移入をしあう、その具体的な状態をこそ意味する言葉だったのではないか、そのような問題提起が込められている。

東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)