問題はここに言われる「快」が何かということである。それはたとえば「快楽」という言葉で想像するような激しい興奮状態のことではない。その正反対である。生物は興奮状態を不快と受け止める。生物は自らを一定の状態に保とうとする。
だから一見したところでは不思議に思われるかもしれないが、生物にとっての快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大なのである。生物はつまり、ある一定の状態にとどまることを快と受け止めるのだ。
そうするとすぐにこうした反論が出てくるだろう。性の快楽は人間が強くもとめる快楽であるが、これは興奮量の増大としか考えられないのではないか? ならばフロイトの言う快原理はこの単純な事実と矛盾しているのではないか?
フロイト自身がこの反論をあげて、答えを出している。性の快楽は快原理と矛盾しないのである。なぜなら性の快楽は、高まった興奮を最大限度まで高めることで一気に解消する過程に他ならないからである。オルガズムを得ると、興奮は一気にさめ、心身は安定した状態を取り戻す(フロイトは性的絶頂の後の身体は死と似た状態にあるとも述べている)。性の快楽はこの安定した状態への復帰のためにあるのだ。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)