ここでインゴルドの「知識」と「知恵」の対比を参照するならば、前者は「モノを固定して説明したり、ある程度予測可能にしたりするために、概念や思考のカテゴリーの内部にモノを固定しようとする」が、「知識の要塞に立てこもれば立てこもるほど、周りで何が起きているのかに対して、私たちはますます注意を払わなくなる」。
北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)
ここでインゴルドの「知識」と「知恵」の対比を参照するならば、前者は「モノを固定して説明したり、ある程度予測可能にしたりするために、概念や思考のカテゴリーの内部にモノを固定しようとする」が、「知識の要塞に立てこもれば立てこもるほど、周りで何が起きているのかに対して、私たちはますます注意を払わなくなる」。
北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)
これは次のことを意味する。楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、 楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、 思考に対して開かれている。
しかも、楽しむためには訓練が必要なのだった。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。
これは少しも難しいことではない。
食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何で出来ていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。映画が好きでいつも映画を見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。これはいったい誰が作った映画なのか、なぜこんなにすばらしいのかを考えるようになる。他にいくらでも例が挙げられよう。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)
だが、大学は本来、「わかる」ことばかりを積み重ねていくだけではなく、「わからなさ」と向きあう場所でもある。いや、大学こそ後者を「知恵」として涵養する場所のはずだった。何かを知る、わかる、というのも大事だが、大学ではむしろ、当然だと思っていたこと、前提である知識を疑うことが何より必要になる。
だから課題を発見し、「問いを立てる」ことの重要性が執拗に叫ばれる。予備校が大学合格を目的としているのに対して、大学はそれ以上に、問題を見つけ、いかに乗り越えるかを考えることに時間をかけるのだ。
北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)
他の可能性を絶対的に押しのける最善の判断などありえない。人間の判断は、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、もっと多様にありえた考慮を偶然的に切り捨てて「しまった」結果であるしかない。何かが「実質的に」重要だという判断が、唯一、排他的に真であるわけがない。こうした判断の偶然性をあたかも無化して(エビデンスにもとづいて)判断できるかのような幻想が、今日において「安心」や「安全」という幻想を条件づけている。
逆説的に聞こえるかもしれないが、次のように言うべきなのだ。何かを「ある程度」の判断によって、大したことではないと受け流す、適当に略して対応する、ついには忘却していく……このような、「どうでもよさ」、「どうでもいい性」の引き受けは、裏切りの可能性を受忍しつつそれでも他者を信じることと不可分なのであり、そしてそれは、エビデンスの収集によって説明責任を処理することよりもはるかに重く、個として「実質的に」責任を担うことに他ならないのだ、と。
どうでもよさは、説明責任よりもはるかに真摯である。
誤解を避けるために補足する。この問題提起は、エビデンスによる科学的な議論・批判の重要性を減じるものではない。現下の、強迫的な、あるいは、たんに事務処理的であると言えるだろうエビデンシャリズムが前景化している状況においては、意識的・方法的に「ある程度の」どうでもよさの権利擁護をすることが必要なのだ、ということである。どうでもよさの「ある程度」は、根源的には偶然性によって強制終了される判断──その「ある程度」──によって調整されるしかない。
いわゆる「反知性主義」において、恣意的にエビデンスを無視したり、恣意的にエビデンスめいたものを喧伝することがあるとして、本稿はその手の「行動力」を支持するものではない。反知性主義が批判されるべきであるとすればそれは、反知性主義が、どうでもよさの「ある程度」の設定、また、いくらかのエビデンスの設定を、何らかの不当な利益確保のために行っているからである。
千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)
しばしば世間では、考えることの重要性が強調される。教育界では子どもに考える力を身につけさせることが一つの目標として掲げられている。
だが、単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっていくのは必然である。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)
人は何かが分かったとき、自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。「これが分かるということなのか……」という実感を得る。
人はそれぞれ物事を理解する順序や速度が違う。同じことを同じように説明しても、だれしもが同じことを同じように理解できるわけではない。だから人は、さまざまなものを理解していくために、自分なりの理解の仕方を見つけていかなければならない。
どうやってそれを見つけていけばよいか? 特別な作業は必要ではない。実際に何かを理解する経験を繰り返すことで、人は次第に自分の知性の性質や本性を発見していくのである。なぜなら、「分かった」という実感は、自分にとって分かるとはどういうことなのかをその人に教えるからである。スピノザは理解という行為のこのような側面を指して「反省的認識」と呼んだ。認識が対象だけでなく、自分自身にも向かっている(反省的)からである。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)