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というのもハーマンの根底には、オブジェクト一個一個が「無限のポテンシャル」を内包するという考えがあるからです。たとえば、ここにあるペットボトルは、私との関係においては「水飲み可能性」や「摑み可能性」など、様々なアフォーダンスを惹起するものとして存在しているわけです。ところがこのペットボトルは、私との関係を超えて、はるかに多くのプロパティを有している。薬物をかけたり、燃やしたりしたときに生じる反応など、私というオブジェクトとの関係においては解き放たれないようなポテンシャルが内在している。この剰余をハーマンは「無限の」と形容する。オブジェクトの内奥は「ブラックホール」だといった言い方をしたりもしています。

しかし、オブジェクトの内奥にあるポテンシャルの無限性が数学的にどういう意味なのはよくわかりません。ハーマンはそこを説明していないと思います。この無限性という点では、レヴィナスを想起させるものがあると私は思います。実際、ハーマンはレヴィナスから影響を受けています。つまり、他者は無限の遠さにあり、私たちがどんなに理解しようとしてもその理解を越えてしまうような、他者の他者性があるという議論です。レヴィナスの場合では、無限に遠い「人間」こそを特別に尊重しなければいけないという立場です。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。

北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)

ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(Jhn Keats, 1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capability)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capability」とは、何かを達成する、あるいは何かを探究して結論に至ることのできる力を意味する。しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて留保することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)

アフォーダンスとは、動物が事物に関わることによって、一定の反応が返ってくる環境の傾向性のことである。簡単な例をあげれば、穴はそこに入ることや中を覗くことを動物に提供(アフォード)する。あるいは石はつかむことや投げることをアフォードする。

ギブソンによれば、ガラスの壁は見ることをアフォードするが、通り抜けることはアフォードしない。モノに限らず、他者の身体もまた、それを知覚する動物に応答的行為をアフォードする。

つまり、環境を感じつつ自ら動くものである動物が、その行為によって周囲の媒質(medium)との関係が変わり、新たな情報が伝わって、またさらなる行為へと導かれてゆく絶え間ない知覚と行為の循環、すなわち取り巻く環境と出合う場面で知覚されるものがアフォーダンスなのである。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

僕は干潟に腰を下ろし、時間が経つのを忘れカメラを回した。カニのような小動物は、人間との意思の疎通ができない。カニたちはまったく人間と重なり合う部分がない独自の環世界(ユクスキュル)を生きている。その理解できなさが、人間に不気味さを与える。そしてその不気味さに僕は途方もなく惹かれる。この世界が自分の見えているものだけで構成されているのではないという確信を与えてくれる。

宇野常寛『ラーメンと瞑想』(集英社、2025年)

環境に浸っているのではなく、環境から「浮いている」ような状態。

まずこのことを「例外的」に存在している、と概念化してみます。環境に溶解しないモノらしいモノ。いささか唐突ですが、ここで私は精神分析的に「ファルス」(男根の象徴)の概念を参照するのがひとつの手ではないかと考えます。ファルスとは単一の、まさしく特権的な例外者です。人間の身体においてそれは、その場所だけ特権的に出っ張っている例外的なものです。精神分析の基本的な図式によれば、ファルスはエロスの集中する性感帯として特権的な場所であり、性感帯ではない通常の場所はそれに対立している。したがって、モノらしく切断的にある建築とは「例外的ではない=通常の」エリアから「屹立」したモノ、すなわちファルスを連想させる、と考えてみましょう。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。

井戸川射子『この世の喜びよ』(講談社、2024年)