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「要するに、同性愛者を『気持ち悪い』なんて言う人間は、頭の中で、同性愛者の体と過剰に一体化して、男同士でキスしたりするところを想像するからなんだよ。だから、そういう連中は、誰かがスゴい婆さんとつきあってるって聞いても、やっぱり『気持ち悪い』って言うよ。人の勝手だって、思えないんだよ。これはさ、AVを見てるとわかるんだ。性に関しては、人間は、簡単に他人をアバター化するから。俺はさ、中年のオッサンのアソコをじっと見つめてろなんて言われても、まあ、絶対にイヤだね。だけど、AVで女優と絡んでる時には、嬉々として凝視してるんだよ。その関係性に入り込んで、その男優の体と一体化して。」

平野啓一郎『本心』(文藝春秋、2021年)

よしながふみの『きのう何食べた?』は、同性愛を生きる史朗と賢二の二人暮らしのなかで流れる「いい時間」を描く。彼らは弁護士と美容師としての仕事の時間と、プライベートの時間をうまく縫いながら、いっけんなんでもないが満ち足りた時間を二人で過ごす。しかし、とりわけゲイであることを職場にはカミングアウトしていない史朗には、「結婚しないのか」あるいは「もう五十代なのだからパートナーといっしょにならないのか」といった、マジョリティが生きる時間感覚が押し付けられる。史朗たちはそれをうまく躱しながらも、彼らが生きる時間と、彼らの周りの人々が要求する時間にははっきりとしたずれがあることを感じ取る。「結婚」という制度がある種の〈時計〉として働き、彼らを抑圧する現実が描かれている。

難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)

(1)この一つの社会を全体としてみたとき、その構造はどのようなものか? その本質的な構成部分とは何と何で、それぞれ相互にどう関わり合っているのか? それは他の社会秩序のバリエーションとどのように異なるか? 社会のある側面は、秩序の持続や変化に対して、どういう意味をもっているのか?

(2)この社会は、人類史のどのような地点に立っているのか? この社会が変動していく仕組みとはどのようなものか? 人類全体の発展においてこの社会はどのような位置を占め、またそれに対してどのような意味をもつのか? 私たちが検討しているある一つの特質が、その時代に対してどのような影響を与え、また逆にそこからどのような影響を受けているか? さらに、この時代というものについて言うならば、それがもっている本質的な特徴とは何で、他の時代とどのように違っていて、その歴史形成に特徴的な道筋とは何であるのか?

(3)この時代のこの社会において、現在どのような種類の人間たちが顕著になってきていて、これから先、それがどうなっていくか? どのような方法で、そうした人間たちは選別され、あるいは形成されているか? どのように彼らは解放され、あるいは抑圧されているか? どのように彼らの感覚は過敏なものにさせられ、あるいは麻痺させられているか? この社会のこの時代における行動や性格を観察することで、どのような「人間性」が明らかになるのか? そして、私たちが検討している社会のありとあらゆる特質一つ一つは、「人間性」に対してどのような意味があるのか?

[…] 傑出した社会分析家たちが行ってきた問いかけは右の三つである。これらは、社会における人間をめぐる古典的研究の知的な中心軸をなしてきたものであり、さらに言えば、社会学的想像力の精神をもつ者が、絶えず問いかけてきたものである。

С・ライト・ミルズ『社会学的想像力』(ちくま学芸文庫、2017年)

パート先の常連客の言葉に傷ついて母の胃に潰瘍ができたり、泉が彼氏の言葉に耳を真っ赤にしたりするのを見ればわかる。自分だけの体を持っている人はいない。みんな気がついていないだけで、みんなくっついて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあっていて、独占できるものなどひとつもない。

朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』(新潮社、2024年)

「でも、これはまさにそういう話。結局、我々は過去の時代について、残された断片から想像するしかない。古典学者が勘違いしたのも仕方ない。だが、我々が新たな物の見方を獲得したと同時に、古代人の見方を失ってもいることは忘れてはいけないけれど」

鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版、2025年)

「異性の性器に性的な関心があるのは、どうして自然なことなんですか」

寺井検事、と、越川の声が聞こえる。

「ひとりの異性に何十年も性的に興奮し続けることは、誰かにこうして取り調べられることがないくらい自然なことなんですか」

朝井リョウ『正欲』(新潮社、2021年)

都市は「読まれるべきテクスト」である、という言い方がたとえできるとしても、ひとはそれを、まるで書物を読むときのように椅子に腰かけて「外側から」読んでいるわけではなく、字義通りの意味で身をもって都市のなかに入り、そこで歩き、働き、遊び、食べ、憩うことを通じて、自分でも気づかない間に「内側から」読んでいる。そしてその際、彼は他者のまなざしに晒され、自らテクストの登場人物ともなっている。

つまり、都市というテクストにあっては、テクストの読者とテクストの登場人物を区別することができない。読む者と読まれる者、まなざす者とまなざされる者の関係は最初から相互媒介的であり、ひとは、そうした二重の役柄を無意識のうちに演じているのだ。ただしその場合、彼はこの都市=テクストのなかに自由に参入できるわけでは必ずしもない。都市のなかの読者/登場人物のまなざしの布置は、都市を構成する諸装置によって条件づけられており、ひとは、これらの諸装置に媒介された場のコードに従ってはじめてテクストの読者/登場人物となることができるのである。

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008年)