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「高橋のバカがよ、昨日の伝票整理しねえで直帰しちゃったから」

サクマは苦笑した。サクマは自分の性質からいくつかの職を転々としていた。男ばかりの職場がほとんどだったが、そういう職場は陰湿なところが多かった。あのねちっこさは性別なんかではなくて、実際は働く人や組織の同質性の高さによってもたらされるものだった、と言葉ではなく皮膚で学んだ。いずれにしてもそういう空気が好きじゃなかった。積極的に関わっても、関わらなくても不利益になるが、最後の最後の部分まで自分を切り売りする気にはなれないでいて、そしてそういう性向が定期的に職を替えざるを得ない原因の一つでもあった。

「いい加減なやつですからね」とか「そういうやつですからね」とか一言いえばいいのに、言うべきことは分かっているのに、サクマは耐えてしまう。精一杯の阿りが苦笑ででしかできない。かといって全力でそういう自分を肯定しているのかといえばそういうわけでもなく、納得はしているが居心地の悪さとも肩を並べているのだった。

砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)

マイノリティを差別しないのは、そういう時代だから。そうでない時代を構築した過去を本気で反省し謝罪し改善したいわけではなくて、なんかそういう時代になったから。この感じだと、何十年後、共同体や種が今よりもずっと縮小していて、かつ体内受精を始めとする有性生殖でしか次世代個体を発生させる方法がないままだったら、やっぱり同じようなノリで再び同性愛嫌悪の空気が再構築される可能性めちゃくちゃありますよ。だって、そういう時代だから。

朝井リョウ『生殖記』(小学館、2024年)

多様性を認め合いながら共生するのは、とても素晴らしいことに違いない。けれどそのとき僕の目に映ったのは、見間違えようもないくらいの、どのような異論も認められないほどの、圧倒的な破壊だった。僕はその破壊を誰もが認める「破壊」とするだけの言葉を持っていないけれど、それは破壊だった。そして高額納税者でもなく、世界に何の影響力も持たない一市民が破壊に対してできることといえば、破壊後の新しい世界のルールを誰よりも早く覚えて、適応することしかないのだと、僕にはわかる。そうでもしないととても生き残っていけない。

九段理江『東京都同情塔』(新潮社、2024年)

パート先の常連客の言葉に傷ついて母の胃に潰瘍ができたり、泉が彼氏の言葉に耳を真っ赤にしたりするのを見ればわかる。自分だけの体を持っている人はいない。みんな気がついていないだけで、みんなくっついて、みんなこんがらがっている。自分だけの体、自分だけの思考、自分だけの記憶、自分だけの感情、なんてものは実のところ誰にも存在しない。いろんなものを共有しあっていて、独占できるものなどひとつもない。

朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』(新潮社、2024年)

「二谷さんと食べるごはんは、おいしい」

押尾さんがほほ笑んで言う。ほほ笑んでから言ったというよりは、その言葉を言うために唇を動かしたら目じりや頬も一緒に動いた、という感じのほほ笑み方だった。

「二谷さんは目の前にある食べ物の話をほとんどしないから、わたしも、これおいしいですねとか、すごいふわふわとか、いちいち言わないで済んで、おいしくても自分がおいしいって思うだけでいいっていうのが、すごくよかった。おいしいって人と共有し合うのが、自分はすごく苦手だったんだなって、思いました。苦手なだけで、周りに合わせてできてはしまうんですけど。甘いのが好きとか苦手とか、辛いのが好きとか苦手とか、食の好みってみんな細かく違って、みんなで同じものを食べても自分の舌で感じている味わいの受け取り方は絶対みんなそれぞれ違っているのに、おいしいおいしいって言い合う、あれがすごく、しんどかったんだなって、分かって。二谷さんとごはんを食べる時はそれがなかったからよかった。一人で食べてるみたいで。でもしゃべる相手はいるって感じで。[…]」

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社、2022年)

一般的なイメージとは異なり、生物の多様性の高い森というのは、自然状態では長続きしない。「自然の摂理」によって、どのような森もやがて単層林に近づき、そして最終的には荒れ地になる。そしてまた、徐々に動植物が集まり、森が再生していく……というサイクルを繰り返す。したがって同じエリアで長期に生物多様性の高い「豊かな森」を維持するためには、むしろ人間の介入によるメンテナンスが必要なのだ。

アメリカの環境系ジャーナリストとして知られるエマ・マリスはこうした積極的な人間の自然環境への介入を支持する。そして旧来の「手つかずの自然」を崇拝する環境保護論を批判する。彼女の述べるところによれば、そもそも「手つかずの自然」という発想は、大きな矛盾を孕んでいる。人間の影響がゼロの「自然」を想定するのならば、それは人類発生以前の自然への回帰を考えなければいけなくなる。人類の発生から現在までには人間の介入とは無関係な変化も含め地球上の生物はかなり入れ替わってしまっている。では、「手つかずの自然」を信奉する人々はどの時点の状態に戻せと言うのか、と。仮に人類発生以前の自然に「戻す」なら地球を氷期と間氷期を反復する更新世にまで戻す必要がある。

マリスは結論する。「手つかずの自然」とは二十世紀アメリカの消費社会の中で成立したカルト的な信仰に過ぎない、と。消費社会のロマンチックな外部として、実際の地球環境の実情を考慮されずに求められた観念的なものに過ぎない、と。

宇野常寛『ラーメンと瞑想』(集英社、2025年)

まず、神を特段設定していないヒトにとって、善悪は決定的なものではありません。善とは〝共同体が目指すものを促進するもの〟、悪とは〝共同体が目指すものを阻害するもの〟に結びついていることが殆どで、ひどく流動的です(一方、神を設定していれば、自ずと善悪も固定されます。キリスト教徒にとっての善悪は聖書に、イスラム教徒にとっての善悪はクルアーンに、それぞれ記されています)。

たとえば殺人。現時点の日本で殺人は悪です。ですが死刑は認められています。国家という共同体の均衡を保つための行為ならば、特定の個体を殺す行為は悪ではなくなります。

つまり、同じ行為でも、共同体にもたらす影響によっては善にも悪にもなるのです。そして、悪とみなされた場合、所属していた共同体から追放されうるのです。

朝井リョウ『生殖記』(小学館、2024年)