痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものであとは耐えられる。
砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)
痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものであとは耐えられる。
砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)
世界に素手で触れていること、その手触りを人間間の相互評価のゲームではなく、開かれた事物の生態系に関与できることで得られる場所であること、それが「庭」の条件として必要になる。これは、これまで確認してきた「庭」のふたつの条件を総合したものでもある。そして、このとき重要なのが、私たちがそこにある事物とその生態系に「かかわる」ことができても、「支配」することはできないということだ。
私たちが庭の花に手を入れたとき、たしかにその場所に関与し、変化を与えることができる。しかし私たちはその場所を、完全に支配することはできない。庭の生態系は庭の外部に常に開かれている。花の種は虫に運ばれて、次の春には私たちが予想もしなかった庭の隅に芽を出すかもしれないし、外側から飛来した見知らぬ草の種が芽吹いて丁寧に刈りこんだ芝生を台なしにしてしまうかもしれない。あるいは、どこからともなく飛来したバッタの群れが、すべてを食い荒らすかもしれない。人間には「庭」を完全に支配し、コントロールすることができないのだ。しかし、この不完全性こそがその場所を、プラットフォームの貧しさから解放するのだ。
宇野常寛『庭の話』(講談社、2024年)
「例えば多くの植民地には軍の基地が置かれているけど、そこでは軍人と現地民の間で子供が生まれるよね。で、フランス海軍のポリネシア撤退を訴えることは簡単だけど、その結果として生まれた子供を前に、軍をはじめから設けなければ良かったと言える人は少ない。それは現実の人間に生まれなければ良かったって言ってるのと同じだからね。デート兵は、生きた子供を使って、『歴史上のこれ以前には逆行できない』っていう杭を打った。植民地ではいろんなものが兵器になるんだ。銃、核、選挙権、性欲、愛、子供……ほぼ全ての行動が、力関係の中で兵器になれる。おれたちの笑顔も、この世界を温存させ、時間の流れを固定していく。 […] 」
安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社、2024年)
ひとはみずからの身体を駆使してさまざまなものを「思いどおりになる」よう操作し、変形してきた。そのことで「自然の主」(デカルト)になろうとしてきた。けれどもそういう操作という行為の媒体である身体という存在が、よりによってじぶんの意のままにならないということ。このこともまた、病気一つ取り上げるまでもなく人びとが日常よく経験してきたことである。ここにも《所有》の両義的な構造がしかと映しだされている。ここでわたしたちが突き当たるのは、あらゆる《所有》の媒体である「わたしの身体」をわたしは所有するのではないという事態である。
鷲田清一『所有論』(講談社、2024年)
ロックが提示したところの、労働は労働する者自身のものであるがゆえに事物はそれを作りだした者のものであるという考え方。それは皮肉にも、資本主義的な所有論とそれを批判するコミュニズム的な所有論の双方で、それぞれ論拠をなしてきたものである。たとえば資本主義的な生産理論において、賃労働という労働形式の正当化がまさにこの〈労働所有論〉によってなされた。労働力は労働者一人ひとりのもの、つまり彼らに固有のものであるとするなら、それをだれか生産手段を所有する者に譲渡し、労賃と引き換えに貸与する権限もそれぞれの労働者その人にあるはずだからだ。が、もう一方で、たとえばマルクスの労働理論において、資本主義的な生産様式における労働がつねに「疎外された労働」という形態をとるのは、本来各人のものである労働が資本家に売り渡されるからだとされる。そこでは、労働による生産物、すなわち労働者自身の本質を外部へと対象化したものが(労働がもはや彼自身のものではないがゆえに)彼自身に所属しないという、いわゆる「疎外」(Entfremdung)という事態が発生するとされる。「疎外」とは、とりもなおさず、各人に固有(proper)のものとしての労働が、その固有性=所有権(property)を剝奪されているという事態にほかならないからである。
鷲田清一『所有論』(講談社、2024年)
消えたいと思ったけれど、死ぬのは面倒くさくてたまらないから、できることなら森のにおいのする緑色のバブになって、家の浴槽で、泡となり、緑色のお湯となり、最後は円を描きながらするすると何処かへ流れたいと思った。それはもう願うように、祈るように、思っていた。しかし、そううまくはいかないもので、私はじりじり生きていた。しつこくたしかに生きていた。
小原晩『これが生活なのかしらん』(大和書房、2023年)
会社(資本)側としては、この労働課程を掌握しておきたいと考える。できるだけ仕事を誰にでも割り振れる形に分解して、進捗を管理しやすく、もし誰かが稼働できなくなっても、代わりを立てられる形にしておきたいのだ。逆に言えば、天才的なエンジニアや、誰にも真似できない知識や技術を持つ人がいて、その人がいないと回らない、その人の手元の仕事が全くのブラックボックスになっているような状況は、会社(資本)としては非常にやりにくい。なぜなら、そのような熟練の人物と対立することになれば、会社は要求を呑むしかないし、上から命令して言うことを聞かせることができないからだ。
全ての仕事が、誰がやっても同じになるよう分解され、交換可能な状況でこそ、資本は労働者に対して強い立場になる(あなたの代わりはいるのだから)。他方で、労働者としては、自分にしかできない仕事を持っていることは、会社と交渉する際の心強い武器となる。資本と労働者は、労働過程をめぐって、知識や経験を賭けた攻防を行っているのである。
難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)