「もし、なんていうの、下半身が着脱式で、セックスするときに好きなほうを選べるみたいなことになったら、私絶対男性器を選ぶし挿入する側に回る自信があるんだよね。幹事とか運転役に自然になるみたいに、そういうときもそっち側のほうが絶対しっくりくるはずなの」
朝井リョウ『生殖記』(小学館、2024年)
「もし、なんていうの、下半身が着脱式で、セックスするときに好きなほうを選べるみたいなことになったら、私絶対男性器を選ぶし挿入する側に回る自信があるんだよね。幹事とか運転役に自然になるみたいに、そういうときもそっち側のほうが絶対しっくりくるはずなの」
朝井リョウ『生殖記』(小学館、2024年)
〈演じる〉とは、他者たちの前で「本当の」自分とは異なる「虚構の」人物に扮し、あたかも自分がそうした人物でもあるかのように振舞うことである。つまり、一方に〈演じる〉主体としての「私」がおり、他方に〈演じられる〉対象としての様々な「役」がある。前者は後者を場面に応じて選択し、操作していくことを通じて、〈演じる〉という行為を行っている。そしてその場合、モデルとなっているのが、狭義の「演じる」、すなわち舞台上の俳優の演技であることはいうまでもない。
だがしかし、実のところ舞台上の演技とは、こうした「偽りの」自己の呈示とは、本質的に異なる性質のことがらである。多くの優れた演技においては、〈演じる〉ことの前にそうした操作を行う主体としての「私」やその対象としての「役」が存在しているわけではない。〈演じる〉という操作そのもののなかで、演じる「私」と演じられる「役」が同時的に発生してくるのであり、俳優は、そうした「私/役」の発生の現場に立ち会っているのだ。俳優は、登場人物に扮するのではなく、〈演じる〉ことを通じて登場人物を発見するのである。
[…]
〈演じる〉ことのこうした根源的なあり方が、たんに舞台上での「私」と「役」の成立についてのみ当てはまるものではなく、日常の生活場面における自己と他者の成立にも通底していることはいうまでもない。M・メルロポンティが精密に論証したように、われわれの自己なり他者なりが成立してくる存在論的淵源は、見るものと見られるもの、触わるものと触わられるもの、感じるものと感じられるものが、互いにもののただなかから生起してきて交流し、反響する、その閾に求められる。
吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008年)
人は一般に、愛の方が性欲よりも崇高で、純粋だと勘違いしています。しかし、私に言わせれば、これは言語道断の誤解であって、愛などというのは、偽りと打算に満ちた、遥かに不純な代物です。愛が脆いのは、その混ぜ物のせいです。
しかし性欲は純粋です。それはただ、ひたすらに合一化だけを夢見る欲望であって、決して愛だとか、況してや生活だとか(!)に堕落することはないのです。
平野啓一郎『透明な迷宮』(新潮社、2014年)
問題はここに言われる「快」が何かということである。それはたとえば「快楽」という言葉で想像するような激しい興奮状態のことではない。その正反対である。生物は興奮状態を不快と受け止める。生物は自らを一定の状態に保とうとする。
だから一見したところでは不思議に思われるかもしれないが、生物にとっての快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大なのである。生物はつまり、ある一定の状態にとどまることを快と受け止めるのだ。
そうするとすぐにこうした反論が出てくるだろう。性の快楽は人間が強くもとめる快楽であるが、これは興奮量の増大としか考えられないのではないか? ならばフロイトの言う快原理はこの単純な事実と矛盾しているのではないか?
フロイト自身がこの反論をあげて、答えを出している。性の快楽は快原理と矛盾しないのである。なぜなら性の快楽は、高まった興奮を最大限度まで高めることで一気に解消する過程に他ならないからである。オルガズムを得ると、興奮は一気にさめ、心身は安定した状態を取り戻す(フロイトは性的絶頂の後の身体は死と似た状態にあるとも述べている)。性の快楽はこの安定した状態への復帰のためにあるのだ。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)
ひとはみずからの身体を駆使してさまざまなものを「思いどおりになる」よう操作し、変形してきた。そのことで「自然の主」(デカルト)になろうとしてきた。けれどもそういう操作という行為の媒体である身体という存在が、よりによってじぶんの意のままにならないということ。このこともまた、病気一つ取り上げるまでもなく人びとが日常よく経験してきたことである。ここにも《所有》の両義的な構造がしかと映しだされている。ここでわたしたちが突き当たるのは、あらゆる《所有》の媒体である「わたしの身体」をわたしは所有するのではないという事態である。
鷲田清一『所有論』(講談社、2024年)
たとえばセックスから介助まで、身体の接触を伴うコミュニケーションでは、言語外の、無意識の領域も含めた双方向的なコミュニケーションが発生する。このとき相手を独立した存在として尊重しつつ、互いの身体の一部を同化させることが要求される。こうしたコミュニケーションが成功したとき、自己の一部が他者と融解することで、自己を維持したまま他者に向けて開かれる。
セックスにおける相互の自己滅却の欲望が交錯した結果もたらされる生成から、介助者と被介助者との間に発生する生成まで、ときにロマンチックな修辞を凝らして語られるコミュニケーションの共通点は、自己を部分的に滅却し、他者と部分的に同一化することが、その対象を他の人間と交換することのできない存在であると認識させる点にある。このとき「私」は「私たち」になる。
宇野常寛『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版、2022年)
「でも? やっぱり自分の脚は嫌いなの?」
「はい」
「そうか」
E藤先生は笑った。
「これは医者としてじゃなく、一人の人間として言うんだけど、怒らないでね」
「怒りませんよ」
「私は、あなたが人よりうんと頑張れる人になれたのは、その脚のお陰なんじゃないかと思うわ」
E藤先生はひらりと立ち上がった。私の脚からしっとりした手の感触が消えた。私はジーパンを上げるのも忘れ、長いあいだ壁を見ていた。
ねえ、あなたの脚が、ずっとずっと、あなたを守ってきてくれたんだとは思わない?
石田夏穂『ケチる貴方』(講談社、2023年)