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ここで感じる不快感と安心感は両立している。この先どうなるかということ──つまりは刑期が満了したら外に出られるということ──がここでは担保されており、その保証が安心と不快を伴っていたのだ。今まで気が付かなかったのが不思議なくらいだ。十年先、二十年先、自分が死ぬその瞬間までが全て決められていたら不愉快に決まっている。安心だが不愉快だ。こういうのが許されるのは刑務所だからだ。刑務所は制度だ。制度だけが未来を確たるものとして示すことができる。自分は遠くに行きたいと願いながら、一方で制度を希求していた。

砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)

「母さんは小六のときにも『そういう子なので』と言ってくれた」

苦い記憶が思い出されて、のどの奥が苦しくなる。

「ごめんね、あのときはそう言うしかなかったから……」

「わたしはうれしかったんだ」

思いがけない評価に、「へっ?」と変な声が漏れた。

「そういう子だって認めてくれているんだとわかったから、卒業文集にも『二百歳まで生きる』と書けた」

宮島未奈『成瀬は都を駆け抜ける』(新潮社、2025年)

そもそも、人間にはなぜ自由が必要なのでしょうか。ミルの考えでは、それは人間の可謬性と高い修正能力ゆえです。つまり、人間はえてして判断を誤るが、それを自由な討論によって修正する能力にも富んでいるというのです。それゆえ、ミルは自由の確保を「自分自身の可謬性に対して予防策をとる」ことと見なします。これは一種の「リスクヘッジ」と言い換えてもよいでしょう。[…]

人間は誰でも失敗する。この誤謬の可能性を織り込んで、人間の考えを最大限に多様にし、オープンな討論を経て意見を修正してゆくことが、ミル的な自由主義の基本的な考え方です。

福嶋亮大『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』(星海社、2022年)

自分はいつか結婚するんだろう、と二谷は思っている。結婚がしたいわけではなくて、結婚したくないと思ったことがないからだった。世の中には一生結婚しないと決めている人もいるけれど、そういうのは確固たる意志がある人だけが決意するものであって、特に何の希望もない自分のような者は、いつか結婚しなければ辻褄が合わない。ならば、喜んでくれる人が多いうちにしてしまうのがいいんだろう、そんなふうに考えていた。

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社、2022年)

人口一〇万人の都市で、失業者が一人とすれば、それは私的問題である。こうした場合は、救済のためには当然、その人の性格、能力、すぐに可能な雇用募集などを見ればよい。しかし、就業人口五〇〇〇万人の国において、一五〇〇万人が失業していたら、それは公的問題である。こうした場合は、特定一個人の雇用機会を見ているだけでは、解決策を見出すことはできない。雇用の構造そのものが崩壊してしまっているのだ。問題を正しく立て、的確な解決策を探るためには、個々人の生活圏や内面だけでなく、その社会の政治経済制度を検討することが必要である。

[…] ひとりひとりの個人に固有のものである多彩な生活圏において経験するものは、しばしば構造変動に起因する。したがって、多くの個人的な生活圏における変化を理解するためには、それらを超えて物をみる必要がある。そして、私たちがそのなかで生きている諸制度が、相互に関連し、複雑に絡みあえば絡みあうほど、そうした構造変動の数や種類は増える。社会構造という概念を知り、それを感性豊かに用いることで、様々な生活圏の結びつきを明らかにすることができる。それが、社会学的想像力をもつということである。

С・ライト・ミルズ『社会学的想像力』(ちくま学芸文庫、2017年)

私はティッシュを二枚とり、すばやくとんとんしながら、保育園のときにもこういうことがあったなあと思い出して、人間って変わらないなあと主語を大きくしながら恥ずかしさを誤魔化すための感慨にふけり、でも、他人と一緒に住むって、失敗を笑ってもらえるということでもあるのだなあと、うれし恥ずかし感じ入り、そういう、私たちの、はじめての夜だった。

小原晩『これが生活なのかしらん』(大和書房、2023年)

むしろ未来は、さしあたりは「ここではないどこか」としてあったのであって、必ずしも現在に対して超越的なある一点に収斂される必然性はなかったのだ。そして実際、明治末から大正にかけての「浅草」や六〇年代の「新宿」に集った人びとが未来に求めたのは、そこに群れること自体のなかからおのれの存在の根拠となるような共同性を創造していくことであった。つまり、所与としての未来と可能性としての未来、そのような二つの〈未来〉のあり方が区別されなければならないのである。

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008年)