なぜ人間がコミュニケーション=交換を行うかを問うても意味はない。コミュニケーションをし続ける存在が、つまり人間なのだ。
ここで「私という中心がある」ことを前提とする西洋的な近代哲学が解体されることになる。「私」が自由意志によって誰かとコミュニケーションしようとする、という前提は、「コミュニケーションの環を途切れさせないために、私がいる」というふうに、まるっと転倒させられる。人間がコミュニケーションを道具として「使っている」のではなく、コミュニケーションに人間が道具として「使われている」。[…]
イルカと一緒に泳ぐ時に、言語とは違うカタチで人間とイルカはコミュニケーションを交わす。農家が「明日は風が強そうだ」と予想して畑の作物に覆いを被せるのは、人間と植物のコミュニケーションだ。
自分の外側にある異なるものと自分の身体が相互にコミュニケーションした結果、そのフィードバック(作用)として私というものがあらわれる。最初から確固とした「私」がいるわけではなく、誰かとコミュニケーションを交わしてはじめて「私」が見えてくる。
小倉ヒラク『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』(木楽舎、2017年)