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元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か、と祐治は思う。十年前か。二十年前か。一人ひとりの「元」はそれぞれ時代も場所も違い、一番平穏だった感情を取り戻したいと願う。

道路ができる。橋ができる。建物が建つ。人が生活する。それらが一度ひっくり返されたら元通りになどなりようがなかった。やがてまた必ず足下が揺れて傾く時がくる。海が膨張して押し寄せてくる。この土地に組み込まれるようにしてある天災がたとえ起こらなかったとしても、時間は一方向にのみ流れ、一見停止しているように見える光景も絶え間なく興亡を繰り返し、めまぐるしく動き続けている。人が住み、出ていく。生まれ、死んでいく。

佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社、2023年)

「高慢? 死人がかい」

「あたし、兄さんのことを考えると、いつも腹が立つのよ。馬鹿にされたような気分になる。死者はいつも生き残った人間をせせら笑ってるんだわ。まだ、そんなことやってるのか、って。ご飯を食べたり、会社へ行ったり、恨んだり、怒ったり、笑ったり、傷つけ合ったり。死者から見れば、あたしたちってずいぶん頓馬に見えるはずよ」

「そう……かな」

「立ち去っていく側は格好はいいわよ。この前、夜中のテレビで『シェーン』を見たわ。あの坊やが〝シェーン・カムバック!〟って叫んでも、シェーンは去っていくだけよね。当たり前よ。忘れものして取りに帰ってきたりしたら、ずいぶん間抜けだもの。シェーンは二度と帰ってこない。だって、映画がそこで終わりなんだもの。でも、もしカメラがずっと回り続けているのなら、あの牧場でお母さんと坊やは黙々と働き続けるのよ。毎日まいにち、木の切り株を抜いたり、麦を植えたり、牛にエサをやったり、単調な作業を続けていく。坊やは年々大きくなって、そのうちに大人になるんだろうけど、坊やの心の中で、シェーンは思い出になって生き続けている。それも年々きれいなあざやかな思い出になっていく。シェーンが格好よく立ち去ったっていうのは、あいつの卑怯な手口なのよ。思い出になっちゃえば、もう傷つくことも、人から笑われるような失敗をすることもない。思い出になって、人を支配しようとしているんだわ」

「それが、死人のやり口ってわけだな」

「死者は卑怯なのよ。だからあたしは死んだ人をがっかりさせてやるの。思い出したりしてあげない。心の中から追い出して、きれいに忘れ去ってやるの」

中島らも『今夜、すベてのバーで』(講談社、1991年)

「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? […] 展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」

蒔野はそう言うと、少し間を取ってから言った。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

平野啓一郎『マチネの終わりに』(コルク、2019年)

「そう。記憶は、いつまでも同じじゃなくて、思い出す度に上書きされるって言うでしょう? 今日、あの夜の光景を思い出したら、明日は、今日思い出したあの夜の光景しか思い出せない。ヴィデオで撮影して、二人でそれを見れば、あの夜の記憶にも、きっとそれが上書きされる。消そうとしないで、そうやって今の二人を塗り重ねていった方がいいと思う。」

平野啓一郎『透明な迷宮』(新潮社、2014年)

時計に目を遣って、僕は、三十三分間という、この電車に乗っている時間のことを考えた。下車後の僕は、乗車前の僕より、既に三十三分、死に接近しているのだった。実際には、通勤のストレスは、乗車時間以上に寿命を縮めているだろうが。

それが、一日二回、数十年に亘って繰り返されるということ。……

僕は生きる。しかし、生が、決して後戻りの出来ない死への過程であるならば、それは、僕は死ぬ、という言明と、一体、どう違うのだろうか? 生きることが、ただ、時間をかけて死ぬことの意味であるならば、僕たちには、どうして、「生きる」という言葉が必要なのだろうか?

平野啓一郎『本心』(文藝春秋、2021年)

時間は「意味」と不可分である。私たちは自分が死ぬことを知り、有限性のもとで生きる。そこにこそ生きる意味や価値が生じるからだ。

難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)

そういうところがとても好きだったのに、そういうところが佐伯であるとさえ思っていたのに、そうではなかった。宙が好きだった姿、佐伯そのものだと信じていた部分は、驚くほど簡単に、削ぎ落とされてしまった。

その原因は、二年前に佐伯の父が病で急逝し、『ビストロ サエキ』の二代目オーナーになったことだと宙は思う。店を継ぐ、ということがどれだけ大変なのか、宙には分からない。ずっと共に生きてきたひとと『死』によって別れる辛さも、知らない。佐伯の父は宙を可愛がってくれていて、だからその死はとても哀しかったけれど、別れが寂しくて泣いたけれど、だからといって宙の中の何かが大きく変わったとは思えない。でも、『死』は時としてひとを変えるほどのものなのだ、ということは佐伯の変化によって知った。

以前の姿のほうが好きなのに。そう思うけれど、きっと、口にしてはいけないことだろう。佐伯を悲しませてしまうような気がする。だけど、ときどきふっと寂しくなる。同じ夏は来ないように、ひともまた変化し、同じひとには戻らないのだ。

『盆栽よ、盆栽』

佐伯の変化に戸惑う宙にそう言ったのは、花野だった。

『野放図に枝葉広げて気持ち良く生きるのは楽に見えるかもしれないけどさ、大きくなってくるとなかなか大変なんだよ。枝が重くて折れちゃうこともあるし、栄養が足りなくなって枯れちゃうかもしれない。自分を守るために自分自身を剪定しなきゃいけないときって、あんのよ。でもそれは自分の芯、幹を守るためだから、幹は絶対失われないのよ。だから、大丈夫よ』

町田そのこ『宙ごはん』(小学館、2025年)