リンクをコピーしました

すると自分を正当化しようとして、イエスに言った、「では、わたしの隣人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負おわせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリオン銀貨二枚を取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行ないをした人です」。そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

(新約聖書「ルカによる福音書」10章 29〜37節)

そして彼の中のひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。「先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい』。これが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様に大切である。『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』」。

新約聖書「マタイによる福音書」22章 35〜39節

目の前で苦しんでいるひとがいたら、自分の利害はともかく、とりあえず放っておけないという憐れみの感情。反省以前の情念。精神分析の言葉を用いるならば「無意識」の反応。じつはローティは、たいへん興味深いことに、そのような心の状態こそを「リベラル」と呼ぼうという提案を行っている。「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びとが、リベラルである」と彼は宣言している。これはずいぶんと奇妙な提案である。というのも、「リベラル」ないし「リベラリズム」は一般には、あらためて指摘するまでもなく、自由という理念を重視する人々、およびその思想を意味する政治用語であり思想用語だからである。にもかかわらず、ローティは、それをあえて、理念を必要としない、身体的な反応を意味する言葉として捉え返した。ここには明らかに、自由とは、抽象的な理念ではなく、むしろ、動物としての人間がたがいに憐れみを抱き感情移入をしあう、その具体的な状態をこそ意味する言葉だったのではないか、そのような問題提起が込められている。

東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)

ケアの倫理は、抽象的な理念ではなく、目の前の状況を敏感に感じ取る能力、生き物に対する気づかい、真の共感を要する倫理でもある。

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)

中島岳志は、「合理的利他主義」が、自ら「利他」だと思った行為が、そのまま利他として受け取られることが前提となっていることの危うさについて触れ、与え手が意思をもって利他的行為をしても、それが利他であるかはわからないという。

自分の行為の結果は所有できるものではない。あくまでも与え手の意思を超えて、 受け手がその行為を「利他的なもの」として受け取ったときに、初めて相手を利他の主体に押しあげることができるのである。

伊藤亜紗は、「私の思い」による利他的な行為が他者をコントロールし、支配することに警鐘を鳴らす。これをすれば相手は喜ぶはずだという利他の心は、善意の押しつけにもなりうるし、容易に他者の支配へと転じるという。

[…] だからこそコントロールを手放す。不確実性を受け入れる。伊藤は「うつわ的利他」という言葉で、相手が入り込める「余白」をもつことの重要性を説いている。 […]

伊藤はまた、他者への「ケアとしての利他」に意外性を見出す。行為者の計画通りに進む利他は押しつけになりがちだが、ケアとしての利他は、計画外の出来事へと開かれ、他者の潜在的な可能性に耳を傾け、それを引き出すと論じる。さらにそこには自分自身も変化する可能性があるという。一方的でない利他とは「他者の発見」であると同時に「自分の変化」をともなうのである。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

「二谷さんと食べるごはんは、おいしい」

押尾さんがほほ笑んで言う。ほほ笑んでから言ったというよりは、その言葉を言うために唇を動かしたら目じりや頬も一緒に動いた、という感じのほほ笑み方だった。

「二谷さんは目の前にある食べ物の話をほとんどしないから、わたしも、これおいしいですねとか、すごいふわふわとか、いちいち言わないで済んで、おいしくても自分がおいしいって思うだけでいいっていうのが、すごくよかった。おいしいって人と共有し合うのが、自分はすごく苦手だったんだなって、思いました。苦手なだけで、周りに合わせてできてはしまうんですけど。甘いのが好きとか苦手とか、辛いのが好きとか苦手とか、食の好みってみんな細かく違って、みんなで同じものを食べても自分の舌で感じている味わいの受け取り方は絶対みんなそれぞれ違っているのに、おいしいおいしいって言い合う、あれがすごく、しんどかったんだなって、分かって。二谷さんとごはんを食べる時はそれがなかったからよかった。一人で食べてるみたいで。でもしゃべる相手はいるって感じで。[…]」

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社、2022年)

「そうですね、……大祐さんの人生と混ざっていくのか、同居してるのか。──そうなると、僕たちは誰かを好きになる時、その人の何を愛してるんですかね? ……出会ってからの現在の相手に好感を抱いて、そのあと、過去まで含めてその人を愛するようになる。で、その過去が赤の他人のものだとわかったとして、二人の間の愛は?」

美涼は、それはそんなに難しくないという顔で、

「わかったってところから、また愛し直すんじゃないですか? 一回、愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう? 色んなことが起きるから。」と言った。

平野啓一郎『ある男』(文藝春秋、2018年)