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他の可能性を絶対的に押しのける最善の判断などありえない。人間の判断は、根源的に「偶然性」に関わっている。いかなる判断であれ、もっと多様にありえた考慮を偶然的に切り捨てて「しまった」結果であるしかない。何かが「実質的に」重要だという判断が、唯一、排他的に真であるわけがない。こうした判断の偶然性をあたかも無化して(エビデンスにもとづいて)判断できるかのような幻想が、今日において「安心」や「安全」という幻想を条件づけている。

逆説的に聞こえるかもしれないが、次のように言うべきなのだ。何かを「ある程度」の判断によって、大したことではないと受け流す、適当に略して対応する、ついには忘却していく……このような、「どうでもよさ」、「どうでもいい性」の引き受けは、裏切りの可能性を受忍しつつそれでも他者を信じることと不可分なのであり、そしてそれは、エビデンスの収集によって説明責任を処理することよりもはるかに重く、個として「実質的に」責任を担うことに他ならないのだ、と。

どうでもよさは、説明責任よりもはるかに真摯である。

誤解を避けるために補足する。この問題提起は、エビデンスによる科学的な議論・批判の重要性を減じるものではない。現下の、強迫的な、あるいは、たんに事務処理的であると言えるだろうエビデンシャリズムが前景化している状況においては、意識的・方法的に「ある程度の」どうでもよさの権利擁護をすることが必要なのだ、ということである。どうでもよさの「ある程度」は、根源的には偶然性によって強制終了される判断──その「ある程度」──によって調整されるしかない。

いわゆる「反知性主義」において、恣意的にエビデンスを無視したり、恣意的にエビデンスめいたものを喧伝することがあるとして、本稿はその手の「行動力」を支持するものではない。反知性主義が批判されるべきであるとすればそれは、反知性主義が、どうでもよさの「ある程度」の設定、また、いくらかのエビデンスの設定を、何らかの不当な利益確保のために行っているからである。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

日々行っていることを考えてみよう。私たちはどうやって様々なプロセスを決着させているのか。二人の喧嘩が「程よい」ところでどうでもよくなる──納得したからだろうか、疲れたからだろうか。ネットニュースの渉猟をやめて、ランチに出かける──腹が減ったから、だろうか。プロセスが止まる。止まってしまう、止まることになった。他にもたくさんの可能性が考えられるのに、ある「ここまで」に逢着してしまった。仮に? 説明できる面はある、説明責任を取れる面はある。だがその「ここまで」は、偶々のことでもある。説明可能な因果性がすべてではない、かといって偶然性がすべてなのでもない。因果性と偶然性にまたがるグレーゾーンを考えなければならない。それを示すのに、日本語の「~してしまう」や「~することになった」などの言い回しはとても便利である。私たち=人間がこれらを使った文の主語になるとき、その文は、私たち=人間の(意志にもとづく)責任をいくらか免除する、非人間的な、他の原理の存在をほのめかしている。半分はそれのせいなのだ……。それが、実践のプロセスを、主体の外部において中断する、有限化させる──外的な有限化の原理。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(Jhn Keats, 1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capability)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capability」とは、何かを達成する、あるいは何かを探究して結論に至ることのできる力を意味する。しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて留保することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)

ここでインゴルドの「知識」と「知恵」の対比を参照するならば、前者は「モノを固定して説明したり、ある程度予測可能にしたりするために、概念や思考のカテゴリーの内部にモノを固定しようとする」が、「知識の要塞に立てこもれば立てこもるほど、周りで何が起きているのかに対して、私たちはますます注意を払わなくなる」。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

だが、大学は本来、「わかる」ことばかりを積み重ねていくだけではなく、「わからなさ」と向きあう場所でもある。いや、大学こそ後者を「知恵」として涵養する場所のはずだった。何かを知る、わかる、というのも大事だが、大学ではむしろ、当然だと思っていたこと、前提である知識を疑うことが何より必要になる。

だから課題を発見し、「問いを立てる」ことの重要性が執拗に叫ばれる。予備校が大学合格を目的としているのに対して、大学はそれ以上に、問題を見つけ、いかに乗り越えるかを考えることに時間をかけるのだ。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

どんな狂気も、他人事ではない。おなじアパートに住む、おなじような生活水準の人間のやったことなのだから、なおさらである。

なにをそんなに狂うことがあるのかとは思うけれども、それは自分が狂っていないから、そんなに悠長なことを思えるのだ。

狂気は、とうに私たちのなかで眠っているのだから、いつ自分が他人の洗濯ものをばら撒くようになるかわからない。きっかけひとつで、すべてがひっくり返ってしまうことを、私たちはよく知っているはずだ。

小原晩『これが生活なのかしらん』(大和書房、2023年)

勧善懲悪の物語が成立するためには、冷酷非情な殺人者といった懲らしめられるべき〝悪人〟が必要だ。しかし、私は保育園などで、まだ生まれて間もない子供たちを見ていて思うのだが、この無邪気な子供たちの誰かが、将来、殺人者になるとして、それは本当にこの子たちの自己責任なのだろうか? 子供たちは、社会の中で様々な分人化を経験して、大人になる。そうすると、犯罪の責任の半分は、やはり社会の側にある。

平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社、2012年)