時間の長短の別はあれど、認めがたいことがあったとき必ずどこかで暴発していた。刑務所は制度がそれを許さない。サクマは身を以てあの罰の苦しさを知っていたので、ここへきて初めて罰を受けることの恐ろしさを味わった気がした。罰は受けている瞬間や受けた後なんかよりも、次受けるかもしれないというのが一番怖いのだ。外にいたときに感じた「おまえもこうなるぞ」という強迫観念と罰が持つ抑止力とは多分同質のものだ。
砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)
時間の長短の別はあれど、認めがたいことがあったとき必ずどこかで暴発していた。刑務所は制度がそれを許さない。サクマは身を以てあの罰の苦しさを知っていたので、ここへきて初めて罰を受けることの恐ろしさを味わった気がした。罰は受けている瞬間や受けた後なんかよりも、次受けるかもしれないというのが一番怖いのだ。外にいたときに感じた「おまえもこうなるぞ」という強迫観念と罰が持つ抑止力とは多分同質のものだ。
砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)
「加害者に回りたかったわけじゃない。必死に生きようとしたら、誰かを傷つけた。自分の人生を摑もうとがむしゃらに手を振り回したら、誰かの人生を殴ってしまった。おれはそれを罪と思えない。 […] 」
町田そのこ『蛍たちの祈り』(東京創元社、2025年)
「ずっと振り回されて生きてきたのに、これからも我慢し続けるなんて無理だよ。そんなのわたしの方が死んでしまう。わたしはママを殺さなくちゃ、自由に生きられないの! もう、ぎりぎりなんだよっ」
「じゃあ、梅野さんが死ぬしかない」
桐生が何でもないことのように告げ、可憐はひゅっと息を吞む。桐生の目には、どんな感情の波もない。
「ひとが己の手で終わらせていいのは、己の命だけだよ。他者の命は決して奪ってはいけない」
強い風が吹き、道路から小さな悲鳴が聞こえた。やだあ、髪が崩れちゃう。どこか浮ついた女の子たちの声がふわふわと響き、遠ざかる。
「絶対に、奪うだけではすまない。命の代わりに大きな罪と臭いを背負って生きなければいけないんだ。その苦しみは、奪って手に入れたものを軽く凌駕する」
そんなはずがない。殺さなければこの不幸から抜け出せない。そう言い返したいのに、言えない。可憐が、いつの間にか滲んだ涙を乱暴に拭うと、桐生が困ったように視線をさ迷わせる。
「ごめん、言い方が悪かったな。おれは喋るのがあまり得意じゃないんだ。ええとね、ひとを殺したって、ちっとも救われないんだ。苦しみが姿を変えるだけ。例えば……君はお母さんが憎いんだよね? でもお母さんを殺すと、今度は『母殺し』という別の苦しみに向き合わないといけなくなる。その罪が明らかになろうが、なるまいが関係ない。自分だけは知ってるんだから。そしてね、お母さんとはいつか縁を切ろうと思えば切れるけど、『母殺し』という自分の苦しみからは一生逃れられないんだ」
「だから、自殺するしかないってこと?」
愛を殺しても、愛との関係のかたちが変わるだけで離れられないというのなら、自分が死ぬしかない。新しい絶望に言葉を失う可憐を見て、桐生は「死ねって言ってるわけじゃなくてさ」と頭をがりがり搔いた。
「ごめん。おれの言い方が完全に悪い。命のやり取りまでしなくても、現状から抜け出せる道は絶対にあるってことを言いたいんだ。 […] 」
町田そのこ『蛍たちの祈り』(東京創元社、2025年)
花野は遠宮に手を摑まれた少年に近づき、屈んで視線を合わせた。
「あのねえ、あたしからもお願い。二度とあそこに行かないで」
「何でだよ。だってオレはお父さんのしたことのお詫びをしないといけないんだ!」
「君がしていることは、暴力なんだよ」
穏やかに花野が言い、少年が「は? なんで」と声を荒らげる。
「亡くなったひとの家族はね、失った辛さや寂しさを乗り越えるのに精いっぱいなんだ。罪を赦す余裕なんてないし、そもそも赦す必要なんてない。だってそうでしょう? 大事なひとを不条理に奪われただけで残酷なのに、どうしてその罪まで赦してあげなくちゃいけないの」
少年はまだ、ガーベラを握りしめていた。鮮やかに咲いた花がぶるぶると揺れる。
「君の『ごめんなさい』は君が赦してほしくてやってることだよ。相手の気持ちをまったく考えてない。こんなに謝ってるんだから、いいでしょう? 赦してくれたっていいでしょう? って相手に赦しを強制してるんだ。それは、暴力でしかないんだよ」
「じゃあ……、じゃあどうしろって言うんだよ。オレは本当に、お父さんのしたことを謝りたいんだ。しなくちゃいけないんだ!」
少年が地面に花を投げつけた。それを花野が拾い上げる。
「その気持ちは、いいと思う。でもね、だからって相手に押し付けていいことじゃないんだ。君がしないといけないことは、ずっと覚えていること」
花を少年の胸元に押し当て、花野は言う。失った命を、傷ついたひとの涙を、忘れないで。そして、二度とこんな哀しいことが起きないように、考えるの。どうしたらいいのか、考えて、行動するの。それが、償いだと思う。
町田そのこ『宙ごはん』(小学館、2025年)
「何か、よほどのことがあれば、人を殺してもいいという考え自体を否定することが、殺人という悪をなくすための最低条件だと思う。簡単ではないけど、目指すべきはそっちだろう。犯人のことは決して赦さないだろうけど、国家は事件の社会的要因の咎を負うべきで、無実のフリをして、応報感情に阿るのではなくて、被害者支援を充実させることで責任を果たすべきだよ。いずれにせよ、国家が、殺人という悪に対して、同レヴェルまで倫理的に堕落してはいけない、というのが、俺の考えだよ。」
平野啓一郎『ある男』(文藝春秋、2018年)
祐治は人の一生を想像した。
生まれ落ちた時に水のいっぱい入った皿を持たされ、こぼさないように歩く。歩いている途中でいつの間にか水は蒸発したり、躓いた拍子にこぼれ落ちたり、また人に与えたりして減っていく。人によって皿が空になる時間はまちまちである。
水をたっぷり残しても、褒められるわけでも、何かもらえるわけでもない。弱いもの同士で寄り合い、危険を避け、見て見ぬ振りを決め込んで辛いことや嫌なことをやり過ごして一生を終えてどうする。儚い時間を歯を食いしばって耐えて何になるだろう。
佐藤厚志『荒地の家族』(新潮社、2023年)
しかし、ルソーの構想においては、人民が社会契約で生み出したのはあくまでも一般意志であり特定の政府ではないので、そういう話にはならない。政府は一般意志の執行のための暫定的な機関にすぎない。だから、人民はいつでもその首をすげかえることができる。ルソーははっきりと記している。「たまたま人民が世襲の政府を設ける場合、それが一家族による君主政であろうと、市民の一階級による貴族政であろうと、人民が行なったことはけっして約束ではない。それは、人民が別の統治形態をとろうという気を起こすまで、人民が統治機関に与えた仮の形態にすぎないのである」。この主張がフランス革命を準備した。
社会契約は、あくまでも個人と個人のあいだで結ばれるものであり、個人と政府のあいだで結ばれるものではない。主権は、人民の一般意志にあり、政府=統治者の意志にはない。
東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)