時計に目を遣って、僕は、三十三分間という、この電車に乗っている時間のことを考えた。下車後の僕は、乗車前の僕より、既に三十三分、死に接近しているのだった。実際には、通勤のストレスは、乗車時間以上に寿命を縮めているだろうが。
それが、一日二回、数十年に亘って繰り返されるということ。……
僕は生きる。しかし、生が、決して後戻りの出来ない死への過程であるならば、それは、僕は死ぬ、という言明と、一体、どう違うのだろうか? 生きることが、ただ、時間をかけて死ぬことの意味であるならば、僕たちには、どうして、「生きる」という言葉が必要なのだろうか?
平野啓一郎『本心』(文藝春秋、2021年)