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そして繰り返すが、「仮想現実から拡張現実へ」というキャッチフレーズは情報産業のトレンドの変化を表現するもの以上の意味を帯びている。それは僕たちの虚構観そのものの変化でもあるのだ。20世紀的な劇映画は、ディズニーのプリンセスストーリーたちや『スター・ウォーズ』、そしてMCUが代表するように半ばグローバルなコミュニケーションツールとなり、そして『ポケモンGO』が代表する21世紀的なアプリゲームは通勤や買い物といった生活そのものを娯楽化する。「ここではない、どこか」に、外部に越境することではなく「ここ」に、内部に深く潜るための回路を、いま、僕たちは情報技術に、そして虚構そのものに求めつつあるのだ。

宇野常寛『遅いインターネット』(幻冬舎、2020年)

私たちがポピュラー音楽に接するとき、実際には同時に三つのこと──「言葉」「修辞」「声」──が聞こえているとサイモン・フリスは述べた。すなわち、意味の水準としての「歌詞」、音楽的な手法による「歌唱」、パーソナリティに結びつけられる「声質」である。ところが、歌詞分析では歌唱/声と歌詞の関係ではなく、「言葉」=意味の次元におけるリリックのみを対象とする場合が多い。

だが、よく考えるとそれは奇妙である。音楽とは、詩や文学のように読まれるだけの言葉ではない。実際、歌詞だけを読んでその音楽すべてを理解したと思うリスナーはいないだろう。同じ言葉であっても、感情の乗せ方で異なる意味を帯びるし、歌詞はリズムや音程に規定され、歌唱法や演奏が表層の意味を裏切ることさえある。音楽は、あらゆる要素の相互作用=関係性で成り立っているのだ。

北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)

無償の窃視という素朴さ! 「不思議の国」を覗き回ってそれで済まされるという素朴さ! いまやリンクを「踏む」というのは多少なり詐欺(グローバルな)に引っかかることであり、利害の分岐にコミットすることであり、かつてヴァーチャルと言われたネット空間は、厳しい現実にすっかり飲み込まれてしまった。もはやヴァーチャル「でしかない」ものではない。マルチメディアもハイパーリンクも、生臭い食い扶持になってしまった。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

世界に素手で触れていること、その手触りを人間間の相互評価のゲームではなく、開かれた事物の生態系に関与できることで得られる場所であること、それが「庭」の条件として必要になる。これは、これまで確認してきた「庭」のふたつの条件を総合したものでもある。そして、このとき重要なのが、私たちがそこにある事物とその生態系に「かかわる」ことができても、「支配」することはできないということだ。

私たちが庭の花に手を入れたとき、たしかにその場所に関与し、変化を与えることができる。しかし私たちはその場所を、完全に支配することはできない。庭の生態系は庭の外部に常に開かれている。花の種は虫に運ばれて、次の春には私たちが予想もしなかった庭の隅に芽を出すかもしれないし、外側から飛来した見知らぬ草の種が芽吹いて丁寧に刈りこんだ芝生を台なしにしてしまうかもしれない。あるいは、どこからともなく飛来したバッタの群れが、すべてを食い荒らすかもしれない。人間には「庭」を完全に支配し、コントロールすることができないのだ。しかし、この不完全性こそがその場所を、プラットフォームの貧しさから解放するのだ。

宇野常寛『庭の話』(講談社、2024年)

〈演じる〉とは、他者たちの前で「本当の」自分とは異なる「虚構の」人物に扮し、あたかも自分がそうした人物でもあるかのように振舞うことである。つまり、一方に〈演じる〉主体としての「私」がおり、他方に〈演じられる〉対象としての様々な「役」がある。前者は後者を場面に応じて選択し、操作していくことを通じて、〈演じる〉という行為を行っている。そしてその場合、モデルとなっているのが、狭義の「演じる」、すなわち舞台上の俳優の演技であることはいうまでもない。

だがしかし、実のところ舞台上の演技とは、こうした「偽りの」自己の呈示とは、本質的に異なる性質のことがらである。多くの優れた演技においては、〈演じる〉ことの前にそうした操作を行う主体としての「私」やその対象としての「役」が存在しているわけではない。〈演じる〉という操作そのもののなかで、演じる「私」と演じられる「役」が同時的に発生してくるのであり、俳優は、そうした「私/役」の発生の現場に立ち会っているのだ。俳優は、登場人物に扮するのではなく、〈演じる〉ことを通じて登場人物を発見するのである。

[…]

〈演じる〉ことのこうした根源的なあり方が、たんに舞台上での「私」と「役」の成立についてのみ当てはまるものではなく、日常の生活場面における自己と他者の成立にも通底していることはいうまでもない。M・メルロポンティが精密に論証したように、われわれの自己なり他者なりが成立してくる存在論的淵源は、見るものと見られるもの、触わるものと触わられるもの、感じるものと感じられるものが、互いにもののただなかから生起してきて交流し、反響する、その閾に求められる。

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社、2008年)

「水崎氏のこだわりは細かすぎて伝わらないヤツじゃないですか。」

「動きの鑑賞自体は別に珍しくもないんじゃない? 金魚の尻尾がヒラヒラしてるのって綺麗じゃん? 桜吹雪とかもさ。風で舞う様子が素敵なんだし、ダンスも動きのパフォーマンスじゃん。」

「アニメも動きの鑑賞すか。」

「その中でもアニメは 一番濃厚なんだよ。」

「絵に描いたものは作者が意識して描いたものだからね。」

「そう! アニメーションでデフォルメされた動きとかは、地味な仕草でも、「動きの細部に注目して描いてる」って点で強いインパクトを持ってんだよね。そこが実写とは、違うとこ。」

大童澄瞳『映像研には手を出すな!』(小学館、2017年)

アメリカとカナダの研究者であるロビンソンとゴッドベイは、一九九九年の論文で、価値がないと自覚している活動に時間を使う人々の姿を、テレビを例に描出している(実際、テレビを見ることは、多くの人が他の活動より「満足度が低い」と答えている)。なぜ忙しい合間を縫ってまで、わざわざ価値が低いと思っているものに時間を使ってしまうのか。彼らは、テレビが断片的な時間をつぶすのに使える数少ない方法であり、予習も復習も必要なく、最小限の心的、身体的エネルギーしか必要としないからだと指摘する。「忙しい合間を縫って」いるからこそ、私たちには忙しい合間でできるような、ぱっとしない時間の使い方しかもう残されていなかったのである。本当にやりたいことは、断片的にはしづらいのだ。

難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)