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〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。

それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)

「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」

村田沙耶香『コンビニ人間』(文藝春秋、2021年)

マイノリティを差別しないのは、そういう時代だから。そうでない時代を構築した過去を本気で反省し謝罪し改善したいわけではなくて、なんかそういう時代になったから。この感じだと、何十年後、共同体や種が今よりもずっと縮小していて、かつ体内受精を始めとする有性生殖でしか次世代個体を発生させる方法がないままだったら、やっぱり同じようなノリで再び同性愛嫌悪の空気が再構築される可能性めちゃくちゃありますよ。だって、そういう時代だから。

朝井リョウ『生殖記』(小学館、2024年)

どんな集団にもある程度のルールが必要だってことぐらい俺にもわかる。だけど、こいつらの気に食わねぇとこは、頭ん中がルールでガチガチのくせに、自分たちがやっていることを〝個性〟だの〝自由〟だのと呼んでいることだ。

いつも頭の中がルールでガチガチだから、いずれ大学の面接の時期になったら茶髪を黒髪に戻してロン毛を短髪にすることも余裕でやってのける。大学に入ったらまたルールに従ってブリーチして、そんで社会に出るタイミングでまたルールに従って黒髪に戻す。それの何が悪いと言われたら、何も悪くない。むしろ、正しい。そうだ、どうせ正しいんだろ?

若林正恭『青天』(文藝春秋、2026年)

子どもの頃のほうが大人の今よりも自由だった人がどれくらいいるだろうか。扶養されていたぶん、労働せずに済んだという意味で自由だった人はいるだろうけど、代わりに多くの義務を背負わされていたはずだ。

私が大人だなぁと思うのは、その種の義務全般から自由であるような人である。たとえば仕事をほっぽり出して失踪しちゃうような人は「大人〜」って感じる。もちろん、学校をほっぽりだして失踪しちゃう子どもにも「大人〜」と思う。

「大人=無責任」という単純な話ではない。義務のたぐいがあるということを理解していて、その上で、そんなのはゲームのルールに過ぎない、とわかっている人──心の底からはゲームを信じていない人──が大人だと感じる。遊びに心から没頭するのは子どもっぽい。だから、大人は責任や義務からも醒めていなければならない。

品田遊『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』(朝日新聞出版、2022年)

みんな本当は、気づいているのではないだろうか。

自分はまともである、正解であると思える唯一の拠り所が“多数派である”ということの矛盾に。

三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。

朝井リョウ『正欲』(新潮社、2021年)

「あ……! 前に話したことあったっけ? カミュのシーシュポスの神話の話」

「いえ、多分、聞いてないです」

「神話なんだけど、シーシュポスっていう人が、神々から大きな岩を山のてっぺんまで転がして運ぶっていう罰を受けるのよ。で、シーシュポスは言われた通り、岩をてっぺんまで運ぶんだけど、運んだ途端、岩がまた平原まで落とされちゃう。勝手に落ちるのかな? とにかく落ちる。でも、シーシュポスはこの不条理な労働を運命だと受け入れて、平原まで下りて行って、またてっぺんまで岩を運ぶのよ。何度も何度も。永遠に。運んでも何もならないのに。なんでだと思う?」

「何もならないのに……」リプトンの紙パックの中身はすでに空だった。

「ここからは私の解釈なんだけど、運命、それを神からの制約だとしましょうよ。あなたがその遼西高校に、絶対に勝てない存在であることが運命だとして、それにあなたの意志で抗うことは、たとえその運命が変わらないとしても、自由を行使するということ。運命は神が作った制約だとしても、なぜか運命に抗うことは神も止めることができない。人間に決定権がある。だったら、その自由を行使するってことが、自由に生きるってことなんじゃないかしら?」

「運んでも何もならないのにですか?」

「運んだら何かになることばかり社会も学校も勧めるわよね。でも、たとえば、大学受験の勉強をしている最中に死んでしまったら、その勉強は無意味だったか? もし、無意味だと言う人がいたら、その人はきっと結果の世界の住人よね? でも、もし、勉強そのものが楽しくて、この際もう楽しくなくてもいいわ、主体的にその人が勉強をするんだと決めてやっていたら、ごめんね、物語の結末を言うわね。その人のことを幸せな人だと思わねばならぬ、とカミュは言うのよ」

なんの前触れもなく、突然、蛇口を捻られたように涙が溢れ出した。

岩崎が節くれだった手で机の上のクリネックスを取って、目の前に差し出す。その所作がとても洗練されていて、岩崎の人生でこういうことが何度かあったんだろうなと思った。

「負けるのはわかっていて、それでもあなたの意志で毎朝タイヤを押しているなら、それを自由と呼ぶんじゃないかしら? 自由に生きるってことなんじゃないかしら?」

若林正恭『青天』(文藝春秋、2026年)