リンクをコピーしました

世界の多様性。それは世界の複雑性に直結している。この複雑性を豊富さととる人もいれば、難解さととる人もいる。豊富さととる人の中には、それを広げようとする人もいれば、自分たちのためだけにとっておこうとする人もいる。難解さととる人の中には、理解しようとする人もいれば、拒絶する人もいる。その対処からして、多様であって、複雑である。複雑さは決して混沌を意味しない。しかし混沌と見誤っても仕方のないほどのスピードで現代の情報社会は流動し、あれもこれも今すぐいっぺんに押し寄せる。それはほとんど、一個人のキャパシティを超えてしまっている。多くの場合、人々はそれに対し、反射的に畏怖こそすれ、あるがまま愛することは難しい。世界は多様である、という真理と同じくらい、世界はいかに一つであるべきか、という問いの出自は古い。その二つはいわば抱き合わせで、特に一神教をその基盤とする西洋的知性において、何度も繰り返し問われてきた。

鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版、2025年)

多様性を認め合いながら共生するのは、とても素晴らしいことに違いない。けれどそのとき僕の目に映ったのは、見間違えようもないくらいの、どのような異論も認められないほどの、圧倒的な破壊だった。僕はその破壊を誰もが認める「破壊」とするだけの言葉を持っていないけれど、それは破壊だった。そして高額納税者でもなく、世界に何の影響力も持たない一市民が破壊に対してできることといえば、破壊後の新しい世界のルールを誰よりも早く覚えて、適応することしかないのだと、僕にはわかる。そうでもしないととても生き残っていけない。

九段理江『東京都同情塔』(新潮社、2024年)

ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(Jhn Keats, 1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capability)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capability」とは、何かを達成する、あるいは何かを探究して結論に至ることのできる力を意味する。しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて留保することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)

無償の窃視という素朴さ! 「不思議の国」を覗き回ってそれで済まされるという素朴さ! いまやリンクを「踏む」というのは多少なり詐欺(グローバルな)に引っかかることであり、利害の分岐にコミットすることであり、かつてヴァーチャルと言われたネット空間は、厳しい現実にすっかり飲み込まれてしまった。もはやヴァーチャル「でしかない」ものではない。マルチメディアもハイパーリンクも、生臭い食い扶持になってしまった。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

世界に素手で触れていること、その手触りを人間間の相互評価のゲームではなく、開かれた事物の生態系に関与できることで得られる場所であること、それが「庭」の条件として必要になる。これは、これまで確認してきた「庭」のふたつの条件を総合したものでもある。そして、このとき重要なのが、私たちがそこにある事物とその生態系に「かかわる」ことができても、「支配」することはできないということだ。

私たちが庭の花に手を入れたとき、たしかにその場所に関与し、変化を与えることができる。しかし私たちはその場所を、完全に支配することはできない。庭の生態系は庭の外部に常に開かれている。花の種は虫に運ばれて、次の春には私たちが予想もしなかった庭の隅に芽を出すかもしれないし、外側から飛来した見知らぬ草の種が芽吹いて丁寧に刈りこんだ芝生を台なしにしてしまうかもしれない。あるいは、どこからともなく飛来したバッタの群れが、すべてを食い荒らすかもしれない。人間には「庭」を完全に支配し、コントロールすることができないのだ。しかし、この不完全性こそがその場所を、プラットフォームの貧しさから解放するのだ。

宇野常寛『庭の話』(講談社、2024年)

一般的なイメージとは異なり、生物の多様性の高い森というのは、自然状態では長続きしない。「自然の摂理」によって、どのような森もやがて単層林に近づき、そして最終的には荒れ地になる。そしてまた、徐々に動植物が集まり、森が再生していく……というサイクルを繰り返す。したがって同じエリアで長期に生物多様性の高い「豊かな森」を維持するためには、むしろ人間の介入によるメンテナンスが必要なのだ。

アメリカの環境系ジャーナリストとして知られるエマ・マリスはこうした積極的な人間の自然環境への介入を支持する。そして旧来の「手つかずの自然」を崇拝する環境保護論を批判する。彼女の述べるところによれば、そもそも「手つかずの自然」という発想は、大きな矛盾を孕んでいる。人間の影響がゼロの「自然」を想定するのならば、それは人類発生以前の自然への回帰を考えなければいけなくなる。人類の発生から現在までには人間の介入とは無関係な変化も含め地球上の生物はかなり入れ替わってしまっている。では、「手つかずの自然」を信奉する人々はどの時点の状態に戻せと言うのか、と。仮に人類発生以前の自然に「戻す」なら地球を氷期と間氷期を反復する更新世にまで戻す必要がある。

マリスは結論する。「手つかずの自然」とは二十世紀アメリカの消費社会の中で成立したカルト的な信仰に過ぎない、と。消費社会のロマンチックな外部として、実際の地球環境の実情を考慮されずに求められた観念的なものに過ぎない、と。

宇野常寛『ラーメンと瞑想』(集英社、2025年)

まず、神を特段設定していないヒトにとって、善悪は決定的なものではありません。善とは〝共同体が目指すものを促進するもの〟、悪とは〝共同体が目指すものを阻害するもの〟に結びついていることが殆どで、ひどく流動的です(一方、神を設定していれば、自ずと善悪も固定されます。キリスト教徒にとっての善悪は聖書に、イスラム教徒にとっての善悪はクルアーンに、それぞれ記されています)。

たとえば殺人。現時点の日本で殺人は悪です。ですが死刑は認められています。国家という共同体の均衡を保つための行為ならば、特定の個体を殺す行為は悪ではなくなります。

つまり、同じ行為でも、共同体にもたらす影響によっては善にも悪にもなるのです。そして、悪とみなされた場合、所属していた共同体から追放されうるのです。

朝井リョウ『生殖記』(小学館、2024年)