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何不自由ない子供時代を与えてくれて有り難かったとは思うけれど、母のような犠牲者にはなりたくない。色々なことから自由でいたい。たかが、住む場所や食べるもののことで、命や心を削るなんて本末転倒ではないか。本来幸せに暮らすために必要な作業で不幸せになるなんて、これほどの矛盾があるだろうか。

柚木麻子『ナイルパーチの女子会』(文藝春秋、2015年)

遠くに行きたかった。遠くというのはずっと距離のことだと思っていた。両親も弟も繰り返しを繰り返していた。おれは多分それが嫌だった。遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。自転車便をやっていた頃の後輩がいつだったかに言っていた「ゴール」も多分そこのことだった。

「ほんの少しだけ違うことをさ、認めるだけでおんなじような毎日が、だから変わっていくんじゃないかなあ。ぼくもさ、ずっと変わらない毎日を変わっちゃいけない毎日だと思い込もうとしてたから苦しかった気がするんだよなあ」

砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)

「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑をかけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」

村田沙耶香『コンビニ人間』(文藝春秋、2021年)

「べつに子供なんて男でも女でもいいんだよ」疲れ切ったようにパパは笑った。「っしょーじきな話。血まみれの赤ん坊が命がけで産まれてきて、それみて男か女かなんていちいち考えないだろ。それが本当の気持ちだよ。これが本当の親のエゴ。自分の子供なら、親は正直どっちでも可愛いです。まじでどっちでもいいの。親だけの気持ちでいったら、ね? でもさ汽水くん、そんなふうに子育てって決めれないんだよ。君もいつか子供持つか分かんないけど、その子が何をもって幸せかって、親が決めてはいけないんですよ。何をもって健康で、何をもって幸せと定義するのかって、あらかじめ基準がいっぱい決まってるんだよ。

いま、出生前診断っていうので世界的に障害を持った胎児の中絶が増え続けてるっていうのがあるんですけど……年々だよ? それは生まれてくる前の段階から、こうあるべきってことが決められてることも関係があるんだよ。これ綺麗事じゃない。ハーフの子供だってそう。同じようにうんと中絶の対象になってる。汽水くんやモモと同じような子供たちが、生まれてからも児童養護施設にたくさん預けられている現実があるんだよ。君のとこだって、お姉さん二人いるよね。それで末っ子の君が生まれて、その下にはもう、誰も生まれていないよね。そういう男の子が末っ子のきょうだいってすごく多いよ。多いけど、だからって親御さんに全く愛情がない訳じゃないでしょう。むしろ逆だよ。食い物ひとつとってもそう。この子にいいものをたくさん食べさせてあげたいって気持ちで与えるものが、本当にその子にとっていいものなのか。油断したら中毒を起こすかもしれない。それを一個一個親だけで判断するなんて、とても恐ろしくてできないんですよ。絶対に親だけで決めちゃいけないんだってことを、子育てしてると何度も思い知るんだよ。親なんてな、子供のこと、ほぼひとつも決めてあげられないから。 こうすべし、っていうマニュアルを一個一個執拗に潰しながら参照するしかないんだよ。男に生まれたら男に育つのが健康っていう、それが今のルールなら、おれはまずそれを参照する。僕はなるべく、自分の一番大切な子供がそうなれるように、監督する責任がある」

安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社、2024年)

そもそも、人間にはなぜ自由が必要なのでしょうか。ミルの考えでは、それは人間の可謬性と高い修正能力ゆえです。つまり、人間はえてして判断を誤るが、それを自由な討論によって修正する能力にも富んでいるというのです。それゆえ、ミルは自由の確保を「自分自身の可謬性に対して予防策をとる」ことと見なします。これは一種の「リスクヘッジ」と言い換えてもよいでしょう。[…]

人間は誰でも失敗する。この誤謬の可能性を織り込んで、人間の考えを最大限に多様にし、オープンな討論を経て意見を修正してゆくことが、ミル的な自由主義の基本的な考え方です。

福嶋亮大『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』(星海社、2022年)

飲み会や仕事があるとかで、長女の彼氏には結局誰も会うことはなかった。帰る新幹線の座席は、三列シートの通路側にあなたが座って、窓の方を眺めれば、自分が生んだ頭がそこに二つ見えることが、それ同士で笑い合って並んでいるのが不思議だった。小さい頃は銀行ごっこが好きで、お金のシワを伸ばしては、財布や区切った箱にずっと出し入れしていた。二人で向かい合って座り、長い時間絵を描いていた。一つの消しゴムをきちんと譲り合いながら使っていて、ちゃんと、それぞれの考えがあるようで感動した、この子たちほどの喜びはなかった。近くから見守り過ぎて、昔は主語や人称さえ混ざってしまっていた。互いが高校生の一年間は、二人は一切口を利かなかった。どちらかがリビングに来れば片方は舌打ちや威嚇の大きな音を出し、自分の部屋に戻っていった。片方がこちらを向き、窓を指差し楽しそうにあなたに早口で何か言う。この子の体はもう、一人用の座席にぴったりだ、高い声がマスクの中にこもりながら聞こえてくる。二人の目にはきっと、あなたの知らない景色が広がっている。あなたは頷いた、こうして分からなかった言葉があっても、聞き返さないようになっていく。

井戸川射子『この世の喜びよ』(講談社、2024年)

自分はいつか結婚するんだろう、と二谷は思っている。結婚がしたいわけではなくて、結婚したくないと思ったことがないからだった。世の中には一生結婚しないと決めている人もいるけれど、そういうのは確固たる意志がある人だけが決意するものであって、特に何の希望もない自分のような者は、いつか結婚しなければ辻褄が合わない。ならば、喜んでくれる人が多いうちにしてしまうのがいいんだろう、そんなふうに考えていた。

高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』(講談社、2022年)