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何不自由ない子供時代を与えてくれて有り難かったとは思うけれど、母のような犠牲者にはなりたくない。色々なことから自由でいたい。たかが、住む場所や食べるもののことで、命や心を削るなんて本末転倒ではないか。本来幸せに暮らすために必要な作業で不幸せになるなんて、これほどの矛盾があるだろうか。

柚木麻子『ナイルパーチの女子会』(文藝春秋、2015年)

遠くに行きたかった。遠くというのはずっと距離のことだと思っていた。両親も弟も繰り返しを繰り返していた。おれは多分それが嫌だった。遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった。自転車便をやっていた頃の後輩がいつだったかに言っていた「ゴール」も多分そこのことだった。

「ほんの少しだけ違うことをさ、認めるだけでおんなじような毎日が、だから変わっていくんじゃないかなあ。ぼくもさ、ずっと変わらない毎日を変わっちゃいけない毎日だと思い込もうとしてたから苦しかった気がするんだよなあ」

砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)

「あ……! 前に話したことあったっけ? カミュのシーシュポスの神話の話」

「いえ、多分、聞いてないです」

「神話なんだけど、シーシュポスっていう人が、神々から大きな岩を山のてっぺんまで転がして運ぶっていう罰を受けるのよ。で、シーシュポスは言われた通り、岩をてっぺんまで運ぶんだけど、運んだ途端、岩がまた平原まで落とされちゃう。勝手に落ちるのかな? とにかく落ちる。でも、シーシュポスはこの不条理な労働を運命だと受け入れて、平原まで下りて行って、またてっぺんまで岩を運ぶのよ。何度も何度も。永遠に。運んでも何もならないのに。なんでだと思う?」

「何もならないのに……」リプトンの紙パックの中身はすでに空だった。

「ここからは私の解釈なんだけど、運命、それを神からの制約だとしましょうよ。あなたがその遼西高校に、絶対に勝てない存在であることが運命だとして、それにあなたの意志で抗うことは、たとえその運命が変わらないとしても、自由を行使するということ。運命は神が作った制約だとしても、なぜか運命に抗うことは神も止めることができない。人間に決定権がある。だったら、その自由を行使するってことが、自由に生きるってことなんじゃないかしら?」

「運んでも何もならないのにですか?」

「運んだら何かになることばかり社会も学校も勧めるわよね。でも、たとえば、大学受験の勉強をしている最中に死んでしまったら、その勉強は無意味だったか? もし、無意味だと言う人がいたら、その人はきっと結果の世界の住人よね? でも、もし、勉強そのものが楽しくて、この際もう楽しくなくてもいいわ、主体的にその人が勉強をするんだと決めてやっていたら、ごめんね、物語の結末を言うわね。その人のことを幸せな人だと思わねばならぬ、とカミュは言うのよ」

なんの前触れもなく、突然、蛇口を捻られたように涙が溢れ出した。

岩崎が節くれだった手で机の上のクリネックスを取って、目の前に差し出す。その所作がとても洗練されていて、岩崎の人生でこういうことが何度かあったんだろうなと思った。

「負けるのはわかっていて、それでもあなたの意志で毎朝タイヤを押しているなら、それを自由と呼ぶんじゃないかしら? 自由に生きるってことなんじゃないかしら?」

若林正恭『青天』(文藝春秋、2026年)

「ずっと振り回されて生きてきたのに、これからも我慢し続けるなんて無理だよ。そんなのわたしの方が死んでしまう。わたしはママを殺さなくちゃ、自由に生きられないの! もう、ぎりぎりなんだよっ」

「じゃあ、梅野さんが死ぬしかない」

桐生が何でもないことのように告げ、可憐はひゅっと息を吞む。桐生の目には、どんな感情の波もない。

「ひとが己の手で終わらせていいのは、己の命だけだよ。他者の命は決して奪ってはいけない」

強い風が吹き、道路から小さな悲鳴が聞こえた。やだあ、髪が崩れちゃう。どこか浮ついた女の子たちの声がふわふわと響き、遠ざかる。

「絶対に、奪うだけではすまない。命の代わりに大きな罪と臭いを背負って生きなければいけないんだ。その苦しみは、奪って手に入れたものを軽く凌駕する」

そんなはずがない。殺さなければこの不幸から抜け出せない。そう言い返したいのに、言えない。可憐が、いつの間にか滲んだ涙を乱暴に拭うと、桐生が困ったように視線をさ迷わせる。

「ごめん、言い方が悪かったな。おれは喋るのがあまり得意じゃないんだ。ええとね、ひとを殺したって、ちっとも救われないんだ。苦しみが姿を変えるだけ。例えば……君はお母さんが憎いんだよね? でもお母さんを殺すと、今度は『母殺し』という別の苦しみに向き合わないといけなくなる。その罪が明らかになろうが、なるまいが関係ない。自分だけは知ってるんだから。そしてね、お母さんとはいつか縁を切ろうと思えば切れるけど、『母殺し』という自分の苦しみからは一生逃れられないんだ」

「だから、自殺するしかないってこと?」

愛を殺しても、愛との関係のかたちが変わるだけで離れられないというのなら、自分が死ぬしかない。新しい絶望に言葉を失う可憐を見て、桐生は「死ねって言ってるわけじゃなくてさ」と頭をがりがり搔いた。

「ごめん。おれの言い方が完全に悪い。命のやり取りまでしなくても、現状から抜け出せる道は絶対にあるってことを言いたいんだ。 […] 」

町田そのこ『蛍たちの祈り』(東京創元社、2025年)

「まずは、そうね。雅美さんとヒロム、それぞれがきちんと生きていけるように考えてみよ。大事なのはね、『絶対自分で子どもを育てないといけない』と思わないこと。ひとに預けてもいいんだよ。追い詰められた自分と一緒に崖っぷちに立たせるような生活を強いるより、安全な場所で健康なひとにしっかり育ててもらえるほうがいいじゃん。てかほら、食べてる? ピザ冷めちゃう」

花野が明るく言って、ビールをぐいと飲む。これまで苦しみしかなかった雅美の顔に、少しだけ光のような明るさが見えた。

「生きていけるように、考える……」

「そう。『とにかく生きる』が最優先。 […] 」

町田そのこ『宙ごはん』(小学館、2025年)

宙の中の花野像はどんどん変わっていった。綺麗なお姉さんであったり、薄汚い謎のひとであったり、冷酷で自分に関心のないひとだったこともあった。同居人であったり、距離のある友人のようであったり、そしていまはとてもいい母といった感じがする。でも明日には、いい女友達に変わっているかもしれない。それでいいんだと思う。

町田そのこ『宙ごはん』(小学館、2025年)

「宙ちゃん、あたしが淡々としてるから呆れてるんじゃない? これでもちゃんと、哀しんだことも恨んだこともあったんだよ。どうしたらいいんだろうって悩んだ夜は数知れず、だよ。でもね、あたしは悟ったんだ。『母親』を求めて接するから傷つくんだよね。『家族』だと思えばいいの」

ふいに自分の知らない意見が飛び出て、宙は我に返る。首を傾げると、マリーは「お母さんって、特別な響きがあると思わない?」と言った。

「絵本とか漫画、ドラマでもいいんだけど、お母さんってすごく特別に描かれてるよね。包みこむようなやさしさとか、無償の愛とか、そういうの。子どものことを第一に考えて自分は二の次だし、子どものことは何でもお見通し、みたいなイメージ、ない?」

問われてのろのろと頷くと、マリーは力強く頷いて「でもそれって、単なるイメージで、事実じゃないんだよ」と笑った。

「ただの理想なんだよ。アイドルみたいな、ファンタジーみたいな、ええとなんて言うんだっけ。ああそうだ、偶像! 偶像なんだよ。素敵な母親なんてのはどこにも転がっていなくて、お母さんはただの『家族』なわけ」

「ただの、『家族』……」

「そう。家族って、ちゃんとした意味知ってる? あたし、一度辞書で調べたんだ。家族とは、夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団。つまり、『母親』も『子ども』も、ひとつの条件のもとの集まりの中での名称に過ぎないの。そしてね、いまの世の中は辞書に載っていない、いろんな繫がりの『家族』ができてる。新しい意味の『家族』には、『母親』も『子ども』もない。助け合って生きていく集団のことを指すわけ」

町田そのこ『宙ごはん』(小学館、2025年)