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小森はるかは震災後、すぐにボランティアで支援活動をするためにアーティストで友人の瀬尾夏美と東北に行ったが、彼女の記録映画を観ていくと、援助をしにいったはずの彼女たちが、いろいろな家に招かれ、食べ物をご馳走になったり、手土産にフルーツをもらったり、与える以上にたくさん受け取る姿が映し出されている。どちらが支援されているのか、わからなくなる。与える/受け取るという二項対立が曖昧化し、主客の転倒が起こる。

利他には必ず「他」としての受け手が存在する。だから利他を与え手の意志のもと百発百中で成功させることなどできない。それならば、利他行為を直接的に他者へと差し向けるのではなく、主体/客体、能動/受動が流動化していく、利他を生み出す可能性を高める環境を作ることに傾注する必要があるだろう。

「効果的利他主義」はこうした懐疑が前提としてほとんど共有されていない。利他は与え手が意志的に「起こす」ものではなく、受け手によって偶然「起きる」ものである。その可能性を高める環境は、ある程度意識して作り出せるのではないだろうか。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

中島岳志は、「合理的利他主義」が、自ら「利他」だと思った行為が、そのまま利他として受け取られることが前提となっていることの危うさについて触れ、与え手が意思をもって利他的行為をしても、それが利他であるかはわからないという。

自分の行為の結果は所有できるものではない。あくまでも与え手の意思を超えて、 受け手がその行為を「利他的なもの」として受け取ったときに、初めて相手を利他の主体に押しあげることができるのである。

伊藤亜紗は、「私の思い」による利他的な行為が他者をコントロールし、支配することに警鐘を鳴らす。これをすれば相手は喜ぶはずだという利他の心は、善意の押しつけにもなりうるし、容易に他者の支配へと転じるという。

[…] だからこそコントロールを手放す。不確実性を受け入れる。伊藤は「うつわ的利他」という言葉で、相手が入り込める「余白」をもつことの重要性を説いている。 […]

伊藤はまた、他者への「ケアとしての利他」に意外性を見出す。行為者の計画通りに進む利他は押しつけになりがちだが、ケアとしての利他は、計画外の出来事へと開かれ、他者の潜在的な可能性に耳を傾け、それを引き出すと論じる。さらにそこには自分自身も変化する可能性があるという。一方的でない利他とは「他者の発見」であると同時に「自分の変化」をともなうのである。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

たとえば、家を支える「骨組み」がドラムとベースのリズム隊だとすれば、ギターとキーボードは「デザイン」、ヴォーカルは「住人」だといってよいかもしれない。住んでいる人が変わってしまえば、もはや家全体が違うものになる。「骨組み」の違いはわかる人にはわかるが、変わっても素人には一見わかりにくい。だが、「デザイン」は誰が見ても違いが一目でわかってしまう。

北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』(文藝春秋、2022年)

ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(Jhn Keats, 1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capability)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capability」とは、何かを達成する、あるいは何かを探究して結論に至ることのできる力を意味する。しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて留保することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)

環境に浸っているのではなく、環境から「浮いている」ような状態。

まずこのことを「例外的」に存在している、と概念化してみます。環境に溶解しないモノらしいモノ。いささか唐突ですが、ここで私は精神分析的に「ファルス」(男根の象徴)の概念を参照するのがひとつの手ではないかと考えます。ファルスとは単一の、まさしく特権的な例外者です。人間の身体においてそれは、その場所だけ特権的に出っ張っている例外的なものです。精神分析の基本的な図式によれば、ファルスはエロスの集中する性感帯として特権的な場所であり、性感帯ではない通常の場所はそれに対立している。したがって、モノらしく切断的にある建築とは「例外的ではない=通常の」エリアから「屹立」したモノ、すなわちファルスを連想させる、と考えてみましょう。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

だが、大学は本来、「わかる」ことばかりを積み重ねていくだけではなく、「わからなさ」と向きあう場所でもある。いや、大学こそ後者を「知恵」として涵養する場所のはずだった。何かを知る、わかる、というのも大事だが、大学ではむしろ、当然だと思っていたこと、前提である知識を疑うことが何より必要になる。

だから課題を発見し、「問いを立てる」ことの重要性が執拗に叫ばれる。予備校が大学合格を目的としているのに対して、大学はそれ以上に、問題を見つけ、いかに乗り越えるかを考えることに時間をかけるのだ。

北村匡平『遊びと利他』(集英社、2024年)

ひとはみずからの身体を駆使してさまざまなものを「思いどおりになる」よう操作し、変形してきた。そのことで「自然の主」(デカルト)になろうとしてきた。けれどもそういう操作という行為の媒体である身体という存在が、よりによってじぶんの意のままにならないということ。このこともまた、病気一つ取り上げるまでもなく人びとが日常よく経験してきたことである。ここにも《所有》の両義的な構造がしかと映しだされている。ここでわたしたちが突き当たるのは、あらゆる《所有》の媒体である「わたしの身体」をわたしは所有するのではないという事態である。

鷲田清一『所有論』(講談社、2024年)