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無償の窃視という素朴さ! 「不思議の国」を覗き回ってそれで済まされるという素朴さ! いまやリンクを「踏む」というのは多少なり詐欺(グローバルな)に引っかかることであり、利害の分岐にコミットすることであり、かつてヴァーチャルと言われたネット空間は、厳しい現実にすっかり飲み込まれてしまった。もはやヴァーチャル「でしかない」ものではない。マルチメディアもハイパーリンクも、生臭い食い扶持になってしまった。

千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社、2018年)

痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる。これまでこうやって痛みと渡り合って来た。痛みから遠ざかろうとすると、それが激しくなった時にどれほど遠くに逃げたと思っても必ず追いついてくる。とにかく見続けるのだ。すると痛みは痛みのまま熱さと痺れと重さのような要素に分解される。痛いは痛いが、こうなればしめたものであとは耐えられる。

砂川文次『ブラックボックス』(講談社、2023年)

消えたいと思ったけれど、死ぬのは面倒くさくてたまらないから、できることなら森のにおいのする緑色のバブになって、家の浴槽で、泡となり、緑色のお湯となり、最後は円を描きながらするすると何処かへ流れたいと思った。それはもう願うように、祈るように、思っていた。しかし、そううまくはいかないもので、私はじりじり生きていた。しつこくたしかに生きていた。

小原晩『これが生活なのかしらん』(大和書房、2023年)

「 […] でもね、言葉はどこまでいっても不便な道具です。使い慣れる、ということがない。僕は未だに和子と喧嘩するよ。たまに会う若い学生さんの言葉を遮りもする。誰かの言っているとが全然分からなくて、耳が悪いふりで誤魔化したり……その代わりになるものがなかなか見つからないから、ずっと使っているだけのことでさ。僕はねぇ、こう考えたことだってあるんだよ? 例えばセックスはどうだろうって?」

學がこんな露骨な単語を口にすることに統一は眉を顰めると同時に、思わず姿勢を正してしまう。

「うん、これは言葉より確かだ。近く感じる。何より温かい。でも続かない。やはり、僕は言葉の方が性に合う。何かと刹那的な感覚に辟易している世代だから、不変的な、それでいて普遍的なものが欲しいんですね。そして、結局、僕には祈りしかなかったんだよ。つまり、今自分が語っている限界のある言葉を、聖霊が翻訳して、神に届けてくれる。それによって、何はともあれ、すべてやがてよしとなる、と信じること。もしかしたら、あらゆる言葉は何らかの形で祈りになろうとしている、ともいえるかもしれない、とこう思うんだね……や、悪いなぁ、君にはいつもこうやってお説教をしてしまって。 […] 」

鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版、2025年)

そして繰り返すが、「仮想現実から拡張現実へ」というキャッチフレーズは情報産業のトレンドの変化を表現するもの以上の意味を帯びている。それは僕たちの虚構観そのものの変化でもあるのだ。20世紀的な劇映画は、ディズニーのプリンセスストーリーたちや『スター・ウォーズ』、そしてMCUが代表するように半ばグローバルなコミュニケーションツールとなり、そして『ポケモンGO』が代表する21世紀的なアプリゲームは通勤や買い物といった生活そのものを娯楽化する。「ここではない、どこか」に、外部に越境することではなく「ここ」に、内部に深く潜るための回路を、いま、僕たちは情報技術に、そして虚構そのものに求めつつあるのだ。

宇野常寛『遅いインターネット』(幻冬舎、2020年)

音楽を人に届ける段階に入って必要なのはやっぱりコミュニケーションで、独りっきりで思い込みの強い状態でやるよりも複数人とやったほうがより多くの人に届くだろう、というのはいつも思うことである。いわばアレンジャーやレコード会社の人、MV監督というのは最初にアーティストが思いついたアイデアを世間に伝えるコミュニケーションのプロなのである。ただこうしてフィルターが多数入っていくと、ただでさえぼんやりした音楽というものの輪郭がさらにぼやけてしまい、自分の作ったもの、という感覚から離れてしまうような錯覚に陥る。自分に関して言えば一定の割合以下の作業しかしていないものに関しては急激に記憶の中から薄れてしまうという現象がある。自分が決めている範囲というのは個性を決定する上でとても大事な要件だと思う。

tofubeats『トーフビーツの難聴日記』(ぴあ、2022年)