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当たり前のことだが、どんなにすばらしいものであっても、誰もがそれにとりさらわれるわけではない。ならば自分はいったい何にとりさらわれるのか? 人は楽しみながらそれを学んでいく。

思考は強制されるものだと述べたジル・ドゥルーズは、映画や絵画が好きだった。彼の著作には映画論や美術論がある。そのドゥルーズは、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか? その努力はいったいどこから来ているのか?」という質問に答えてこう言ったことがある。「私は待ち構えているのだ」。

ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。〈動物になること〉が発生する瞬間を待っている。そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。彼の場合は美術館や映画館だった。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)

ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(Jhn Keats, 1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capability)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capability」とは、何かを達成する、あるいは何かを探究して結論に至ることのできる力を意味する。しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて留保することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)

しかし、むしろ、物語的に世界を理解することには危険が伴うのではないだろうか。人生を一貫した物語として描くことは、個々の経験の断片性や曖昧さを排除し、特定の解釈を人生に押し付けることになる。さらには過去を書き換え、未来を固定化する危険がある。逆にいえば、自らの人生を明確なナラティブとして語ることができない場合、人は自身の生が意味を欠いたものなのではないか? という不安にさらされることになる。

例えば、アメリカに長らく住む一人の白人男性が、移民によって就労の機会が奪われていると感じたり、性的少数者のためにばかり国家が支援を行っている──白人こそが迫害されているのだ、という物語を信じていたとして、この人が信じる物語は正しいのだろうか。もちろん、この人の苦しみはリアルであり真実である。だが、その真実の苦しみの理由として信じる物語は、フェイクであり嘘であるかもしれない。移民や性的少数者のせいではなく、巨額の富を得ている人々がさらにその富を殖やすために、アメリカの格差を放置し続けていただけかもしれない。だが、物語というものはおしなべてリアリティがありすぎて、それに反駁することが難しい点に危険があるのだ。

難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版、2025年)

世界に素手で触れていること、その手触りを人間間の相互評価のゲームではなく、開かれた事物の生態系に関与できることで得られる場所であること、それが「庭」の条件として必要になる。これは、これまで確認してきた「庭」のふたつの条件を総合したものでもある。そして、このとき重要なのが、私たちがそこにある事物とその生態系に「かかわる」ことができても、「支配」することはできないということだ。

私たちが庭の花に手を入れたとき、たしかにその場所に関与し、変化を与えることができる。しかし私たちはその場所を、完全に支配することはできない。庭の生態系は庭の外部に常に開かれている。花の種は虫に運ばれて、次の春には私たちが予想もしなかった庭の隅に芽を出すかもしれないし、外側から飛来した見知らぬ草の種が芽吹いて丁寧に刈りこんだ芝生を台なしにしてしまうかもしれない。あるいは、どこからともなく飛来したバッタの群れが、すべてを食い荒らすかもしれない。人間には「庭」を完全に支配し、コントロールすることができないのだ。しかし、この不完全性こそがその場所を、プラットフォームの貧しさから解放するのだ。

宇野常寛『庭の話』(講談社、2024年)

昨今、多くの企業や個人が創造性やイノベーションの創出やその体系化に躍起になっている。だが、創造性やイノベーションの本質は、文化人類学者レヴィ・ストロースが言うところの「ブリコラージュ」(相互に異様で異質な物事が出会うことで新しい「構造」が生まれるという意味)にあり、創造性やイノベーションの非予定調和的な性質は体系化に馴染みづらいと私は考えている。

一方で、創造性やイノベーションが生まれやすい、確率を高くする環境や土壌を創出することは可能である。イノベーションの打率を上げることと言ってもよい。創造性やイノベーションの本質がブリコラージュにあるとすれば、これまで出会わなかったヒト、モノ、コトが偶発的に出会い、交配する機会を最大化することが創造性やイノベーションの源泉となる(法学者ジョナサン・ジットレインの言葉を借りれば、「生成力(generativity)」を高める、ということになる)。そのためには可能な限り多くの情報、事物など、有形・無形のあらゆるリソース(資源)を誰もが自由にアクセスし、利用できること、リソースの自由利用性=「コモンズ」を確保することが重要になる。コモンズは、他分野からの参入障壁を破壊し、価格や品質をコモディティ化することで、その分野の境界を融解し、創造性やイノベーションを促進するのである。

水野祐『法のデザイン—創造性とイノベーションは法によって加速する』(フィルムアート社、2017年)

これは次のことを意味する。楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、 楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、 思考に対して開かれている。

しかも、楽しむためには訓練が必要なのだった。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。

これは少しも難しいことではない。

食べることが大好きでそれを楽しんでいる人間は、次第に食べ物について思考するようになる。美味しいものが何で出来ていて、どうすれば美味しくできるのかを考えるようになる。映画が好きでいつも映画を見ている人間は、次第に映画について思考するようになる。これはいったい誰が作った映画なのか、なぜこんなにすばらしいのかを考えるようになる。他にいくらでも例が挙げられよう。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮社、2021年)

春のアカデミー賞で候補になった『バービー』『オッペンハイマー』『哀れなるものたち』『アメリカン・フィクション』『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』といった映画はどれも、二十世紀に白人が残した負の遺産をセルフ懺悔するコンセプトを持っていた。バービー人形という白人ルッキズムと資本主義の合成物。原爆。男女差別。黒人と白人の格差。ネイティブアメリカン虐殺。もう誰の責任か追及できないぐらい昔の、すでに起きてしまった過ちを、白人俳優たちが「私たちは自分の愚かさをちゃんと分かってます」って顔で演じてみせる映画を、ハリウッドは強迫観念のような勢いで量産した。それが単発の作品に止まらなかったのは、ひとつ大きなメリットを獲得したから。それは「白人たちの懺悔ショーであれば今まで通り白人ばかりが中心にいても問題視されない」という暗黙の了解だった。それは、作る側にも観る側にもずっと溜まっていた「白人だけのロマンスを蘇らせたい」という欲望を叶える光だった。作品賞を受賞した『関心領域』もまた、ナチスのホロコーストをスタイリッシュにまとめた、白人懺悔の文脈を引く作品といえた。ナチスの政権下、すぐ近くで起きているホロコーストの気配を無視して優雅に暮らす人々。「これこそが今パレスチナで進行中の虐殺に対する、我々の無関心さを表現しているのだ」というメッセージを、私たち観客はこの映画を観るまでもなく把握した。多くの観客が望んだのは「関心領域」の外に目を向けることでも「関心領域」の内で無慈悲に暮らすことでもなく、そうした図式そのものをシンプルに把握することだった。もう誰も本編を観ない。しんどくてめんどうな時間を一方通行に、まともな速度で過ごしたい人なんて私たち観客のなかにはほとんど残っていない。コンセプトだけでいいのだ。細かい議論は切り捨てられた。

安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社、2024年)