The shoulders of Giants
記憶
かつて写真は非常に限られたタイミングでしか撮られず、それが現在との断絶を印象づけ、写真に備わる一種の「思い出性」とでも呼べる性質を支えていた。これは人間の記憶に似ている。大部分を忘れてしまうからこそ、覚えているごく少数の記憶が思い出として重宝される。思い出とは、その少なさに支えられている。[…]
量の問題は写真にとってとても重要だ。死ぬときに見るという走馬灯は、大部分を忘れたダイジェストだから可能な現象だろう。インスタグラムの「ストーリーズ」は写真をあくまで思い出の領域にとどめておこうとする試みのように思える。
(大山顕、2020『新写真論 スマホと顔』株式会社ゲンロン)
幼い日の畑で、祖父母が飲んでいた水筒の中のポカリスエットは、きっと少し生ぬるかったろう。毎朝、日課のようにそれを缶から水筒に移しかえていた祖母の姿も、むわっとした暑さに満ちた畑で空を仰ぐようにカップを傾けていた祖父の姿も、時が経てば経つほど、なぜか、歳月に補われるように逆に鮮明になっていく。覚えていたい、と思うからかもしれない。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? […] 展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」
蒔野はそう言うと、少し間を取ってから言った。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
(平野啓一郎、2019『マチネの終わりに』コルク)