疎外は,社会学の言説から抜け出して,メデイアの解説や日常言語に入り込んでいる.たとえば,一つの世代全体が「社会から疎外」されている,とか,若者のサブカルチャーは,主流の文化から若い人びとが疎外されている状態を表している,などという言い方を耳にするであろう.この場合,隔たりや分離といった観念が含まれていることは明らかであるが,社会学において疎外といえば,資本主義社会の不平等と関連していることに注意したい.マルクスの史的唯物論のアプローチは,人びとが仕事を組織して財とサービスをつくり出す方法から始まる.マルクスにとって,「疎外されている」とは,真の帰結へと至る客観的条件のもとにおかれていることであり,その条件を変える鍵は,私たちの考えや信念を変えることではなく,自分の状態をコントロールする力を増し加えるために,生きる方法を変えることなのである.かつての労働生活とは,より骨の折れる肉体的労役であったように思われるが,小作農や職人など多くの社会集団にとっては,熟練を要する,それ自体満足できる仕事であり,現代の製造業や大規模なオフイス環境,コールセンターやファストフード店などよりも,仕事に対するコントロールの幅が大きかった.今日の仕事は,肉体的には以前ほど重労働ではないかもしれないが,コントロールの余地を与えられていないため,より大きな疎外を生み出し続けているのである.
(友枝敏雄・友枝久美子、2018『ギデンズ 社会学コンセプト事典』丸善出版)