2025-05-25
今日のハイライト: 2025/05/26
KJと、鶴屋町に新しくできたスシローに行ってきた。
台湾から帰ってきて以来、回転寿司ばかり行っている。カウンターの向こうから次々に流れてくる小皿を思考停止で迎え撃ちたくなる日々が続いているのだ。

どうでもいい話だが、僕は大学生になるまで回転寿司に行ったことがなかった。
僕の両親は、回転寿司を寿司と認めていなかった。「こんなものを子どもに食べさせるなんてありえない」という、かなり強めのポリシーがあったように思う。ちなみにファミレスの類もNGだった。(そのため、僕が中学生で初めてひとり旅をしたとき、まず最初にしたことは「ファミレスに入って巨大なパフェを注文すること」だった。)
両親の頭の中では、「回転寿司 = 本物の寿司の廉価版」みたいな構図があったのだと思う。でも、実際のところ(多くの人が体験的に知っているように)回転寿司は寿司の下位互換なんかではなく、まったく別の料理であり、別の体験であり、「外食エンタメ」として独自の進化を遂げた産業でさえある。
回転寿司で回っているのは寿司ではない。寿司に擬態した何かである。これは「本物の寿司に味が劣る」という話ではなく、位相の違いだ。
たとえば、回転寿司のサーモンにはチーズが当然のような顔で乗っている。軍艦にはコーンマヨやツナマヨが詰められている。タルタルソースが惜しみなく盛られたえび天や、イベリコ豚、ローストビーフ、ハンバーグ寿司なんてのも回ってくる。逆輸入されたカルフォルニアロールや、韓国のキンパも回っており、国際色も豊かだ。メニューには唐揚げやフライドポテト、ラーメン、ハンバーガー、たこ焼きなんてのもある。プリン、コーヒーゼリー、ガトーショコラ、みたらし団子、フレッシュパインなど、デザートに凝っているところも多い。突如パチンコ的演出が発動し、オモチャが転がり落ちてくる。タブレットでの注文や、衛生面に配慮された配達の仕組みなど、技術的な工夫にも目を見張るものがある。これはもう近代日本の食と遊びと技術が交差した、総合アミューズメント施設といったほうがいい。そこには格式ではなく、発明がある。
したがって、僕の両親が回転寿司を「寿司の代用品」として拒んでいたのは、たぶん的外れだった。ただ、彼らは決して頭が固いわけではなく、こうした面白さが伝わる感性の持ち主ではあるので、いつか油断しているときに回転寿司に連れ込んでやりたいと思っている。

さて、寿司をつまみながら、KJからTikTokの「#founderstory」というハッシュタグの話を聞いた。

スタートアップを立ち上げた人が「ハーイ! 私の名前はイヴァンカ。先週Googleを辞めて新しいプロダクトを立ち上げたの。世の中にあるこんな課題をどうしても解決したくなったからね。今日から100日でこの課題を解決するサービスを育てていくから、その様子をみんなにシェアしていくね〜!」みたいなノリで投稿する、一連のマーケティング系動画コンテンツらしい。
まだ自分でちゃんと確認したわけではないので、あまり分かったフリをしないようにはしておきたいが、とりあえず僕はこれを「物語消費的なものの一形態だな」と理解した。ナラティブのスナック化だなあ、などと思う。

KJはこのハッシュタグを指して「AIが台頭してくるなかで『人(ニン)を売る』ことの重要性が増している」と説明した。「プロダクトにおける『人(ニン)の含有量』をどう増やすかだ」とも言った。たしかにその通りだろう。AIが機能を量産する時代には、つくった人間の顔つきや手触りが、判断材料としていっそう重要になるのだと思う。
ただ「これやってみたら?」とすすめられたものの、自分には向いていないだろうなという気がした。
僕もそれなりに情報発信というか、言葉で伝えることはきちんとやっているつもりだけれど、自分の主戦場はこういうブログのように、ある程度まとまった文字数を書ける場所にしておきたい、という思いがある。
これはリアルなコミュニケーションでも同じで、瞬間的なリアクションをどれだけもらっても、あまり心が動かない。拍手や笑い声のような即時の応答よりも、できれば少し時間を置いて、相手が自分の言葉を受け取り、それをいったん自分の中に通してから返してくれるようなやり取りの方が、ずっと意味のある時間だと思っている。
言い換えれば、僕が大事にしたいのは、情報の交換というよりも思考の共有なのだろう。その場限りの感情ではなく、その人自身の文脈を通じて構築された返答を受け取るとき、ようやくそこに対話が生まれる気がする。お互いの価値観や語彙、ものの見方を一時的に借り合うような、相手の頭を通してもう一度自分の言葉に出会い直す、そういうコミュニケーションのあり方が好きだ。
もちろん、反射的なリアクションが悪いわけではないし、そこにはそこにしかない温度や励ましがある。けれど、自分の感受性のあり方として、そういったもので満たされる部分が少ないのだと思う。
できることなら、「僕の言葉をどう受け取ったか」を、相手の論理や感情の構造ごと見せてもらえるような、そういうやり取りの中にいたいと思っている。