2024-03-12
人混みは脳にクる
年始早々に台湾に渡り、約二ヶ月ぶりに日本に帰ってきた。
空港からバスに乗り込んで横浜駅に到着し、冷たい冬の風を頬で感じつつ、懐かしい気持ちで駅の周りを歩いていると、なんだか胸の奥から不快感がこみ上げてきた。東口の歩道橋の端にスーツケースを置いて座り込む。それが人混みに酔ったのだと気づくまでには少し時間がかかった。僕はこれまで人混みに酔うような体質ではなく、「人混みが苦手だ」という人々の気持ちはまったく理解できなかったからだ。
地面に座り込み、深呼吸をしながら目を閉じると、周囲の喧騒が一層鮮明に耳に届いてきた。通行人の会話の断片が風に乗って流れ込んでくる。そしてふと、その感覚が久しぶりであることに気づいた。また同時に、体調不良の原因もこれかもしれない、という考えがよぎった。
台湾では、僕は中国語を理解できないため街を歩いていても頭は休んでいるが、日本に戻ってくると、言語の意味を自動的に処理する脳がフル稼働を始める。言葉の意味が分かるということは、それだけ脳に負担がかかるということでもある。久しぶりに叩き起こされた脳の部分が「勘弁してくれ」と音を上げているのだ。
思うに「人混みが疲れる」という現象は、人口密度の問題以上に、実は言語処理の問題が大きいのではないか。以前までの僕が人混みを苦にしなかったのは、無意識のうちに行える言語処理のキャパシティや強度が高かったからかもしれない。上京したての人が人混みにやられるのは、慣れない標準語の言語処理に特別な負荷がかかっているという説も考えられる。
「いいかい、こいつらの話に大した意味なんてないんだ。理解しようとしなくていいんだよ」
僕は自分の脳にやさしく語りかけ、ふらふらと立ち上がって家路についたのだった。
2024-03-14
必殺仕事記号
アニメ『葬送のフリーレン』の人気には、昨今のジャンプ系アニメの勢力が強大過ぎたからこそ生まれた、という側面があると思う。『SPY×FAMILY』『【推しの子】』『マッシュル』『呪術廻戦』『鬼滅の刃』など、個々にユニークな魅力はあるものの、同じ「ジャンプ味」のアニメばかり食べていたところに、サンデーから少し違った味が出されたからこそ多くの人々に深く刺さった、という見方だ。
そんな『フリーレン』の非・ジャンプ的なノリに一役買っているのが、句点記号「。(マル)」の存在である。サンデーの漫画には、セリフの最後に文末を示すマルが付く、という特徴がある。これによって このことがサンデー漫画には、特にフリーレンには深い影響を与えている。ジャンプ漫画と、サンデーマンガのノリの差に影響している。
『フリーレン』はJRPGの冒険ファンタジーの世界をベースにしており、魔族との激しい戦闘シーンもあるが、キャラクター同士の会話は文章的な言葉のやりとりを主体としている。それによって喜びも悲しみも落ち着いたトーンで穏やかに描かれ、コミカルな部分についても、キャラクターたちの訥々とした喋りが笑いを誘う形で成り立っている。こうした作風とマルの相性は非常に良い。恐らく、アニメにおいても、声優が読み上げる際の調子に影響を与えているだろう。(余談だが、なろう原作で同じく小学館からコミカライズされている『薬屋のひとりごと』でも、同様にマルがよく働いている気がする。)
マルについては最近、こちらは不名誉な働きとして「マルハラ問題」というものがあった。LINEのやり取りにおいて文末にマルが付いていると、読み手が「冷たい」「怖い」「威圧的」といった印象を受けるというものだ。こうした感じ方は若年層に多く、世代間ギャップとしても話題になった。
マルのない文体で話すジャンプのキャラクターがメインストリームを占めているからこそ『フリーレン』のキャラクターの言葉遣いが際立つように、SNSやLINEではマルのない投稿ばかりだからこそ、わざわざ付けられたマルは特別な存在として、元来期待された以上の働きを見せるようになっている。マルは人々の生活から影を潜めながら、ここぞというところで出てきてズバッと力を発揮する「必殺仕事記号」として世に暗躍しているのである。