2024-05-13
「そのとき鹿はどこにいくんだ」「それは…どこか別の場所に」
伊勢佐木町にあるミニシアター・シネマリンで、映画『悪は存在しない』を観てきた。『偶然と想像』や『ドライブ・マイ・カー』で国際的な評価を得た濱口竜介監督の最新作である。
この映画で、僕は自分の鑑賞態度に関するちょっとした発見をした。
それは、自分が映画を観るときに、登場人物に対して「この人は悪役だな」とか「これは主人公と敵対する存在だな」というような了解を得ながら鑑賞を進めている、ということだ。セリフや表情から感情を読むだけでなく、その向こう側にある「物語上の役割」に気を配っているイメージである。
これは決して僕が作品に対して一方的に行っているわけではない。作品の側もそのコミュニケーションを意図しており、さまざまな記号を通じて「この人物は悪役ですよ」とか「このキャラクターは対立関係にありますよ」と示唆し、鑑賞者に了解を与えるよう働きかけている。叙述トリックもこのようなコミュニケーションの一環と考えれば分かりやすい。
しかし、『悪は存在しない』については、普段のように「了解を得ながら観る」ことが難しかった。悪そうな人物が登場しても、「この人にも違った一面があるのだろう」とか「この行動はその人間性ではなく、立場がそうさせているのだろう」と踏みとどまって考えてしまう。なぜなら、タイトルが「悪は存在しない」だからだ。このタイトルが鑑賞者に楔を打ち込み、悪かどうかの判断を下せないまま進むことになる。
判断保留の状態のまま人物たちを眺め続けることで、やがて、悪とは存在の「性質」ではなく、読み手が存在に与える「認識」であることが分かってくる。悪はそこに「存在する」のではなく、僕たちがその存在や行為を悪として「認識することが可能である」という見方だ。言い換えれば、置かれた状況(社会)と自分の関係次第では、誰もがいつでも悪として語られる可能性を持っている、ということでもある。
濱口監督の作品には、観客が無意識に持っている期待を少しずつ外しながら進んでいく場面が多い。例えば、人物同士のやりとりが一段落し、こちらとしては「ここでシーンが切り替わるだろう」という期待があるにもかかわらず、それが裏切られ、会話のシーンがだらだらと続いたりする。
このちょっとした裏切りが積み重なることで、鑑賞者の認知はだんだんと不安定な状態に追い込まれていく。彼の作品に齎される独特の緊張感は、そうやって鑑賞者が絶えず注意を払い続けることによって生まれるものだと思う。
「ここでシーンが切り替わるだろう」という僕の期待は、これまで様々な作品に接することで形成された単なるパターン認識に過ぎないのだが、濱口作品には、そうした普段意識しないような理解や認知のクセを自覚させられる面白さがある。
2024-05-16
散歩のススメ
友達と散歩をしながら話すのが好きだ。「久しぶりに会って話そう」と自分から連絡をするとき、それはほとんど必ず散歩の誘いになる。友達からの連絡では、僕がお酒を飲まないので飲みの席ということはないのだけれど、レストランやカフェが指定されることは少なくない。そんな場合でも、僕はできる限り、「まず散歩をしよう」と提案するようにしている。
僕が散歩を好きな理由はいくつかあるが、まず一つは、しばらく会っていなかった者同士が必要とする調整の時間を取ることができるからだ。久しぶりに会う相手とは、しばしば会話のリズムが合わずにぎこちなくなることがある。しかし、駅で待ち合わせ、適当にテイクアウトした飲み物を片手に繁華街の喧騒を並んで歩いていると、次第にその「ズレ」が解消され、適切な感覚が戻って来ることを感じる。
恐らく「歩く」という行動を主体としながら「ついでに話している」という状況が、心理的な負担を軽減させているのだと思う。歩きながら話すというシチュエーションにおいて、言葉はあくまで「ついでに紡がれている」に過ぎない。だから、返答に時間がかかったり、適切な言葉を探すための沈黙も気にならない。様子を見ながらゆっくりと会話のリズムを整えていくことができるし、表情や視線を意識しなくていい。コミュニケーション(形式)にかかる労力を減らして、メッセージのやり取り(中身)に集中できるようになる。
店内での会話では、こうはいかない。飲食店に入ると、基本的に机を挟んで向かい合って座ることになる。きちんと向き合って相手の顔を見て話すことは、社会的に正しい(マナーに則った、礼儀正しい)コミュニケーションとされているが、正直に言えば、僕はこれをあまり居心地のよいものだとは思わない。互いに正対したまま話していると、言葉を身体に直接ぶつけられているような感じがするからだ。
一方、散歩のように横並びで話している場合、発した言葉は両者の前の共有空間に投げ入れられ、眼前をふわふわと漂うようになる。それはまるで一つの画用紙にそれぞれがペンで文字や図形を書き込んでいくような感覚で、ただ会話をしているだけなのに、何だか共創的な営みをしているような気持ちになるのだ。
横並びという状態に限って言えば、バーカウンターでも同じかもしれないが、僕はここに「歩く」という動作が加わることが重要だと考えている。
歩きながら会話することの最大の魅力は、互いの思考が協調的に働き、新たな洞察が生まれることだ。これは必ずしも意見の一致を意味するわけではない。相手の立場や考え方を理解し、取り入れながら、自分自身の考えを再構築していくプロセスだ。プログラミングに例えると、単にレスポンスを読むだけでなく、ログを読み解きながらアルゴリズムを想像するようなイメージである。
実際に僕は、友達との散歩の最中に物事への新しい(自分的ではない)視点を得ることがよくある。これは奇妙な現象だが、恐らく散歩における歩幅や歩行速度などの身体的な同期が影響しているのではないか、と僕は考えている。並んで歩くという行為は、互いに相手のペースを感知しながら、自身の歩調を調整し続けることになる。これは無意識に行われていることだが、文字通り「歩調を合わせる」という動作が、他者の思考を引き寄せる土壌を育んでいるのではないだろうか。さらに、このとき自分の身体は、普段とは異なるリズムを味わうことになる。それが脳の働きにも影響を与え、新たな視点に気づかせているのではないかと思う。
ときどき、一人で散歩をしていると、ふいにその道で交わした会話を思い出すことがある。会わなかった間の出来事や心境の変化など、景色と共に話した事柄が頭に浮かび、そして「ハッ」と当時は気がつかなかったことに気づく。その瞬間、僕はまるで友達に呼びかけられたような気持ちになり、またスマホを取り出して連絡先を手繰り始めているのだ。