欧米でも日本でも、個が「自律/自立する」ことを重んじる価値観が多数派である一方、「依存する」あるいは「関係性をむすぶ」というケアの価値観はまだまだ少数派のものである。資本主義社会において 新自由主義 的な文化が支配的な文脈では、〈ケア〉の価値が貶められてきたからだ。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
欧米でも日本でも、個が「自律/自立する」ことを重んじる価値観が多数派である一方、「依存する」あるいは「関係性をむすぶ」というケアの価値観はまだまだ少数派のものである。資本主義社会において 新自由主義 的な文化が支配的な文脈では、〈ケア〉の価値が貶められてきたからだ。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
たとえば誰かを介護しなければならないとして、そのときその人に自分の全生活を捧げてしまったら、介護者は生きていけなくなってしまいます。あるいは、介護される側からしても、援助は必要だけれど、それが過剰になると監視されていると感じるようになってしまいます。たとえ人間関係においてつながりが必要だとしても、そこには一定の距離、より強く言えば、無関係性がなければ、我々は互いの自律性を維持できないのです。つまり、無関係性こそが存在の自律性を可能にしているのです。
(千葉雅也、2022『現代思想入門』講談社)
村上春樹の主人公が特定のパートナーと継続的な関係を維持できず、次々と別の女性と関係を持つことに象徴されるように「所有」は一過性の欲望だ。対して「関係性」は持続性を要求する欲望だ。二者間の双方向的なコミュニケーションの結果として事後的に立ち上がる関係性は、その二者の間だけに発生する固有のもので、それが触れ続けられていることによってのみ維持し、確認される。仮にたった一度の触れ合いで得た体験の記憶が特権化されたとき、それは既に名付けられたものであり、所有されたものであり、そして一方向的なものだ。その相手が同じように記憶の中で、その一回の接触を特別なものと位置づけているとは限らないからだ。関係性は持続され、反復されることによってのみ成立する。「関係性」とは一定の距離感と進入角度のことを指すのではなく、二者の接触によってその都度、距離感と進入角度が共創的に試行錯誤し続けられる「状態」のことを指すのだ。
(宇野常寛、2022『砂漠と異人たち』朝日新聞出版)
「鈴先生と一星と深夜は、太陽と月と地球みたいな関係だな。ああいう関係は、恋とか愛とか、単純な名前はつけられないな。一列に並んだり、陰になったり、欠けたり満ちたりしながら。三つは回り続けている。」
(ドラマ『星降る夜に』9話、北斗千明のセリフ)
インタビューに限らず、人は本来、誰かに自分のことを聞いてもらえるのは嬉しいはずだ。仕事でも日常会話でも、「あなたに興味がある」という態度を示すことから関係は始まる。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
しかし、その一方で、私が本当に付き合いに悔いを残している人、謝りたい、お礼が言いたいけど叶わない―――、望まぬ形で別れてしまった人たちというのは、絶対に連絡をしてこない。
けれど、それでもなお、今の私が小説を書いていられるのは、急に連絡してくる“親友”たちではなく、もう二度と会うことはないかもしれないその人たちのおかげだ。もう連絡できないくらいの後悔や過ちの記憶まで含め、彼らが、私と、私の小説を作ってくれた。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
ベトナムには「シンチャオ(こんにちは)」だけ覚えて行った。たった1語でも、意識して覚えようとしなければ頭に入らない。1語も身につかず帰った旅もある。1語でも、その国に暮らす人々の表情がよく見えた。レストランで、市場で、土産店で、とにかく「シンチャオ!」と言っていた。こんにちはの一言さえあれば、旅が見学じゃなくて体験になる。世界に触るか触らないか、くらいの大きな差があった。
(藤岡みなみ、2022『パンダのうんこはいい匂い』左右社)
疎外は,社会学の言説から抜け出して,メデイアの解説や日常言語に入り込んでいる.たとえば,一つの世代全体が「社会から疎外」されている,とか,若者のサブカルチャーは,主流の文化から若い人びとが疎外されている状態を表している,などという言い方を耳にするであろう.この場合,隔たりや分離といった観念が含まれていることは明らかであるが,社会学において疎外といえば,資本主義社会の不平等と関連していることに注意したい.マルクスの史的唯物論のアプローチは,人びとが仕事を組織して財とサービスをつくり出す方法から始まる.マルクスにとって,「疎外されている」とは,真の帰結へと至る客観的条件のもとにおかれていることであり,その条件を変える鍵は,私たちの考えや信念を変えることではなく,自分の状態をコントロールする力を増し加えるために,生きる方法を変えることなのである.かつての労働生活とは,より骨の折れる肉体的労役であったように思われるが,小作農や職人など多くの社会集団にとっては,熟練を要する,それ自体満足できる仕事であり,現代の製造業や大規模なオフイス環境,コールセンターやファストフード店などよりも,仕事に対するコントロールの幅が大きかった.今日の仕事は,肉体的には以前ほど重労働ではないかもしれないが,コントロールの余地を与えられていないため,より大きな疎外を生み出し続けているのである.
(友枝敏雄・友枝久美子、2018『ギデンズ 社会学コンセプト事典』丸善出版)
「要するに、同性愛者を『気持ち悪い』なんて言う人間は、頭の中で、同性愛者の体と過剰に一体化して、男同士でキスしたりするところを想像するからなんだよ。だから、そういう連中は、誰かがスゴい婆さんとつきあってるって聞いても、やっぱり『気持ち悪い』って言うよ。人の勝手だって、思えないんだよ。これはさ、AVを見てるとわかるんだ。性に関しては、人間は、簡単に他人をアバター化するから。俺はさ、中年のオッサンのアソコをじっと見つめてろなんて言われても、まあ、絶対にイヤだね。だけど、AVで女優と絡んでる時には、嬉々として凝視してるんだよ。その関係性に入り込んで、その男優の体と一体化して。」
(朝井リョウ、2021『正欲』コルク)
『相棒』シリーズを〝国民的ドラマ〟と呼ぶことに抵抗を感じる人は、まずいないだろう。そして、国民的ドラマである、ということは、こういうことなのだ。それは、ただ単に多くの人から支持されている、ということではなくて、こんなふうに愛情を持って語ることの幸せを、一人一人がそれぞれの形で持っている、ということに他ならない。家族だったり、友人だったり、同僚だったり。優れたドラマはそれだけで人の距離を近づけ、私たちの共通言語になる。[…]
誰かと語り合い、それを楽しみにすることで毎日を頑張れたりするものが、自分にあることは尊い。国民的ドラマを愛することの幸せが、そこにはある。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
自分の小説に冠ができることを喜ぶ気持ちより、受賞したことで、それまで自分なりにエッジが立った気持ちで書いてきた小説が鋭さを失ってしまうのではないかという不安の方が、ずっとずっと強かった。「大人が薦める本」の一つになどなってたまるか、という意地があった。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
ケアの倫理は、抽象的な理念ではなく、目の前の状況を敏感に感じ取る能力、生き物に対する気づかい、真の共感を要する倫理でもある。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
子どもの頃のほうが大人の今よりも自由だった人がどれくらいいるだろうか。扶養されていたぶん、労働せずに済んだという意味で自由だった人はいるだろうけど、代わりに多くの義務を背負わされていたはずだ。
私が大人だなぁと思うのは、その種の義務全般から自由であるような人である。たとえば仕事をほっぽり出して失踪しちゃうような人は「大人〜」って感じる。もちろん、学校をほっぽりだして失踪しちゃう子どもにも「大人〜」と思う。
「大人=無責任」という単純な話ではない。義務のたぐいがあるということを理解していて、その上で、そんなのはゲームのルールに過ぎない、とわかっている人――心の底からはゲームを信じていない人――が大人だと感じる。遊びに心から没頭するのは子どもっぽい。だから、大人は責任や義務からも醒めていなければならない。
(品田遊、2022『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』朝日新聞出版)
サプライズのために消してくれていたハロゲンライトが再び点灯し、引率者たちの顔が夜の山に浮かび上がった。こちらに向けられている笑顔をまじまじと見てみたが、全員驚くほど馴染みがない。曲がりなりにも今日1日を一緒に過ごした仲だというのに。怒られなくて済んだし、こんな私のためにケーキを用意してくれたのも嬉しいけれど、一度しかない19歳の誕生日を全然知らない人と過ごしているなぁ、としみじみ思ったのを覚えている。こういうのが、大人の世界なのかもしれない、とも。
(藤岡みなみ、2022『パンダのうんこはいい匂い』左右社)
孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。──同時代に対する水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力。それが、他者の存在のどこを探ってみても、見出せないということ。
(平野啓一郎、2019『マチネの終わりに』コルク)
「そのために、……死の予定を立てる、ということですか? 看取ってくれる人と、スケジュールを調整するために?」
「人生のあらゆる重大事は、そうでしょう? 死だけは例外扱いすべきでしょうか? 他者と死を分かち合うというのは、臨終に立ち会うだけじゃない。時間を掛けて、一緒に話し合う時間を持つ、ということです。」
(平野啓一郎、2021『本心』コルク)
「もちろん、人に迷惑をかけない大人になることは大事なんだけど、最近、子育ての正解ってそこにないんじゃないかって思うこともあって」
「じゃ、どんなことが正解なの?」
「成長した子どもが、大人になってから親の子育てを肯定できるかどうか」
(辻村深月、2018『噛みあわない会話と、ある過去について』講談社)
そもそも、人間にはなぜ自由が必要なのでしょうか。ミルの考えでは、それは人間の可謬性と高い修正能力ゆえです。つまり、人間はえてして判断を誤るが、それを自由な討論によって修正する能力にも富んでいるというのです。それゆえ、ミルは自由の確保を「自分自身の可謬性に対して予防策をとる」ことと見なします。これは一種の「リスクヘッジ」と言い換えてもよいでしょう。[…]
人間は誰でも失敗する。この誤謬の可能性を織り込んで、人間の考えを最大限に多様にし、オープンな討論を経て意見を修正してゆくことが、ミル的な自由主義の基本的な考え方です。
(福嶋亮大、2022『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』星海社)
〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる。
(國分功一郎、2011『暇と退屈の倫理学』朝日出版社)
そして繰り返すが、「仮想現実から拡張現実へ」というキャッチフレーズは情報産業のトレンドの変化を表現するもの以上の意味を帯びている。それは僕たちの虚構観そのものの変化でもあるのだ。20世紀的な劇映画は、ディズニーのプリンセスストーリーたちや『スター・ウォーズ』、そしてMCUが代表するように半ばグローバルなコミュニケーションツールとなり、そして『ポケモンGO』が代表する21世紀的なアプリゲームは通勤や買い物といった生活そのものを娯楽化する。「ここではない、どこか」に、外部に越境することではなく「ここ」に、内部に深く潜るための回路を、いま、僕たちは情報技術に、そして虚構そのものに求めつつあるのだ。
(宇野常寛、2020『遅いインターネット』幻冬舎)
言葉は光だ。私が目で世界を見ているのは、光があるから。同じように言葉で照らせばそこに世界が浮かぶ。
(藤岡みなみ、2022『パンダのうんこはいい匂い』左右社)
ZINEやリトルプレスと呼ばれるような小さな出版物をよく手に取ります。とりわけ惹かれるのは日記です。日常を綴るための言葉、普段遣いの言葉は、辞書には載っていなかったり、文法的に見たらおかしなところがあったりするかもしれないけれど、いわんとすることは実感としてたしかに伝わってくる。このうねり、グルーヴ感に身を委ねていたいと感じるような言葉。校正を通した出版物ではあまり見ることのない、野の言葉とでも呼びたいような言葉にふれると、書くことはもっと自由でいいのにと思います。
(牟田都子、2022『文にあたる』亜紀書房)
昨今、多くの企業や個人が創造性やイノベーションの創出やその体系化に躍起になっている。だが、創造性やイノベーションの本質は、文化人類学者レヴィ・ストロースが言うところの「ブリコラージュ」(相互に異様で異質な物事が出会うことで新しい「構造」が生まれるという意味)にあり、創造性やイノベーションの非予定調和的な性質は体系化に馴染みづらいと私は考えている。
一方で、創造性やイノベーションが生まれやすい、確率を高くする環境や土壌を創出することは可能である。イノベーションの打率を上げることと言ってもよい。創造性やイノベーションの本質がブリコラージュにあるとすれば、これまで出会わなかったヒト、モノ、コトが偶発的に出会い、交配する機会を最大化することが創造性やイノベーションの源泉となる(法学者ジョナサン・ジットレインの言葉を借りれば、「生成力(generativity)」を高める、ということになる)。そのためには可能な限り多くの情報、事物など、有形・無形のあらゆるリソース(資源)を誰もが自由にアクセスし、利用できること、リソースの自由利用性=「コモンズ」を確保することが重要になる。コモンズは、他分野からの参入障壁を破壊し、価格や品質をコモディティ化することで、その分野の境界を融解し、創造性やイノベーションを促進するのである。
(水野祐、2017『法のデザイン—創造性とイノベーションは法によって加速する』フィルムアート社)
かつて写真は非常に限られたタイミングでしか撮られず、それが現在との断絶を印象づけ、写真に備わる一種の「思い出性」とでも呼べる性質を支えていた。これは人間の記憶に似ている。大部分を忘れてしまうからこそ、覚えているごく少数の記憶が思い出として重宝される。思い出とは、その少なさに支えられている。[…]
量の問題は写真にとってとても重要だ。死ぬときに見るという走馬灯は、大部分を忘れたダイジェストだから可能な現象だろう。インスタグラムの「ストーリーズ」は写真をあくまで思い出の領域にとどめておこうとする試みのように思える。
(大山顕、2020『新写真論 スマホと顔』株式会社ゲンロン)
幼い日の畑で、祖父母が飲んでいた水筒の中のポカリスエットは、きっと少し生ぬるかったろう。毎朝、日課のようにそれを缶から水筒に移しかえていた祖母の姿も、むわっとした暑さに満ちた畑で空を仰ぐようにカップを傾けていた祖父の姿も、時が経てば経つほど、なぜか、歳月に補われるように逆に鮮明になっていく。覚えていたい、と思うからかもしれない。
(辻村深月、2015『図書室で暮らしたい』講談社)
何処か遠くの、自分にはまったく馴染みのない国で作られた作物を食べるということ。それは、その作物を育んだ土地の歴史を肉体の一部として所有することです。こういう言い方がロマンチック過ぎるのであるならば、少なくともその地の一定の時間的経過を物質の形で摂取することだと言い換えてもいいでしょう。その作物を育んだ土が提供する栄養は、そもそもの地質と、気象条件と、そこで起こった様々なこと(戦場であったこともあれば、荒野であったこともあるでしょうし、その後に耕され、肥料を与えられたことも含めて)とが複雑に影響しあった結果です。
(平野啓一郎、2006『文明の憂鬱』新潮社)
「いや、ヘンじゃないです、全然。音楽ってそういうものですよ。最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? […] 展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」
蒔野はそう言うと、少し間を取ってから言った。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
(平野啓一郎、2019『マチネの終わりに』コルク)
「現代の日本は、目に見える身分差別はもうないですけれど、一人一人が自分の価値観に重きを置きすぎていて、皆さん傲慢です。その一方で、善良に生きている人ほど、親の言いつけを守り、誰かに決めてもらうことが多すぎて、“自分がない”ということになってしまう。傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代なのだと思います」
(辻村深月、2019『傲慢と善良』朝日文庫)
妻をめとらば 才たけて
みめ美わしく 情けある
友を選ばば 書を読みて
六分の侠気 四分の熱
(与謝野鉄幹、1901『鉄幹子』「人を恋ふる歌」)
金森さやか「水崎氏のこだわりは細かすぎて伝わらないヤツじゃないですか。」
水崎ツバメ「動きの鑑賞自体は別に珍しくもないんじゃない? 金魚の尻尾がヒラヒラしてるのって綺麗じゃん? 桜吹雪とかもさ。風で舞う様子が素敵なんだし、ダンスも動きのパフォーマンスじゃん。」
金森さやか「アニメも動きの鑑賞すか。」
水崎ツバメ「その中でもアニメは 一番濃厚なんだよ。」
浅草みどり「絵に描いたものは作者が意識して描いたものだからね。」
水崎ツバメ「そう! アニメーションでデフォルメされた動きとかは、地味な仕草でも、「動きの細部に注目して描いてる」って点で強いインパクトを持ってんだよね。そこが実写とは、違うとこ。」
(大童澄瞳、2017『映像研には手を出すな!』小学館)
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
(日本国憲法・前文)
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
[…]
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
(伊丹万作、1946『映画春秋』創刊号)
トイレに行ってインスタントコーヒーを作って戻ってきた私は酸素飽和度が97に戻るのを待ってからiPhoneを手にする。
<中絶がしてみたい>
暫く考えてみて、そのツイートは下書き保存する。私はノートパソコンのブラウザからEvernoteを開く。炎上しそうな思いつきは取り敢えずここに吐き出して冷却期間を置くのだ。
<中絶と妊娠がしてみたい>
<私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう>
<出産にも耐えられないだろう>
<もちろん育児も無理である>
<でもたぶん妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから>
<だから中絶と妊娠はしてみたい>
<普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です>
[…]
1996年にはやっと障害者も産む側であることを公的に許してやろうよと法が正されたが、生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺しは結局、多くのカップルにとってカジュアルなものとなった。そのうちプチプラ化するだろう。
だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃない?
それでやっとバランスが取れない?
(市川沙央、2023『ハンチバック』文藝春秋)
たとえばセックスから介助まで、身体の接触を伴うコミュニケーションでは、言語外の、無意識の領域も含めた双方向的なコミュニケーションが発生する。このとき相手を独立した存在として尊重しつつ、互いの身体の一部を同化させることが要求される。こうしたコミュニケーションが成功したとき、自己の一部が他者と融解することで、自己を維持したまま他者に向けて開かれる。
セックスにおける相互の自己滅却の欲望が交錯した結果もたらされる生成から、介助者と被介助者との間に発生する生成まで、ときにロマンチックな修辞を凝らして語られるコミュニケーションの共通点は、自己を部分的に滅却し、他者と部分的に同一化することが、その対象を他の人間と交換することのできない存在であると認識させる点にある。このとき「私」は「私たち」になる。
(宇野常寛、2022『砂漠と異人たち』朝日新聞出版)
厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負担をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、ーーー5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。[…]
こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、[…] 紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。
(市川沙央、2023『ハンチバック』文藝春秋)
多様性を認め合いながら共生するのは、とても素晴らしいことに違いない。けれどそのとき僕の目に映ったのは、見間違えようもないくらいの、どのような異論も認められないほどの、圧倒的な破壊だった。僕はその破壊を誰もが認める「破壊」とするだけの言葉を持っていないけれど、それは破壊だった。そして高額納税者でもなく、世界に何の影響力も持たない一市民が破壊に対してできることといえば、破壊後の新しい世界のルールを誰よりも早く覚えて、適応することしかないのだと、僕にはわかる。そうでもしないととても生き残っていけない。
(九段理江、2024『東京都同情塔』新潮社)
なぜ人間がコミュニケーション=交換を行うかを問うても意味はない。コミュニケーションをし続ける存在が、つまり人間なのだ。
ここで「私という中心がある」ことを前提とする西洋的な近代哲学が解体されることになる。「私」が自由意志によって誰かとコミュニケーションしようとする、という前提は、「コミュニケーションの環を途切れさせないために、私がいる」というふうに、まるっと転倒させられる。人間がコミュニケーションを道具として「使っている」のではなく、コミュニケーションに人間が道具として「使われている」。[…]
イルカと一緒に泳ぐ時に、言語とは違うカタチで人間とイルカはコミュニケーションを交わす。農家が「明日は風が強そうだ」と予想して畑の作物に覆いを被せるのは、人間と植物のコミュニケーションだ。
自分の外側にある異なるものと自分の身体が相互にコミュニケーションした結果、そのフィードバック(作用)として私というものがあらわれる。最初から確固とした「私」がいるわけではなく、誰かとコミュニケーションを交わしてはじめて「私」が見えてくる。
(小倉ヒラク、2017『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』木楽舎)
「お金を稼ぐためにしかたなくすること」
「プライベートと反対の緊張する時間」
「どんどん規模を大きく発展させなければいけない」
こういう仕事観は、果たして自明なのだろうか。お金も休みも発展も必要だが、でもそれ自体は目的ではない。大事なのは、人が仕事を通して「何に気づくのか」だろう。お金や規模などの「結果」ではなく、働くことで自分の世界を豊かにしていく「プロセス」なのではないか。自分がどんな世界に生き、どんな存在と関わっているのか気づき、その気づきの解像度を上げていく。プロセスにこそ仕事の本質的な価値がある。
(小倉ヒラク、2017『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』木楽舎)
ロマン主義時代に生きたジョン・キーツ(John Keats, 1795-1821)の「ネガティヴ・ケイパビリティ」(negative capability)という概念は、共感力をもつ自己像を表しているといえる。「ケイパビリティ=capability」とは、何かを達成する、あるいは何かを探究して結論に至ることのできる力を意味する。しかし、キーツのこの概念は、知性や論理的思考によって問題を解決してしまう、解決したと思うことではない。そういう状態に心を導くことをあえて留保することをさす。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、相手の気持ちや感情に寄り添いながらも、分かった気にならない「宙づり」の状態、つまり不確かさや疑いのなかにいられる能力である。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
「異性の性器に性的な関心があるのは、どうして自然なことなんですか」
寺井検事、と、越川の声が聞こえる。
「ひとりの異性に何十年も性的に興奮し続けることは、誰かにこうして取り調べられることがないくらい自然なことなんですか」
(朝井リョウ、2021『正欲』新潮社)
みんな本当は、気づいているのではないだろうか。
自分はまともである、正解であると思える唯一の拠り所が“多数派である”ということの矛盾に。
三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。
(朝井リョウ、2021『正欲』新潮社)
あまり自覚されることはないが、20世紀とは「映像の世紀」であるのと同程度には「エンジンの世紀」でもあった。そして前世紀後半のオートバイと自動車の大衆化は、先進国に「交通戦争」とすら呼ばれる状況をもたらした。つい半世紀前まで、この国でも交通事故の死者は1万人を超えていた。しかし、今日においてそれはおよそ1/3以下に減っている。自動車の安全性能の向上、政府の法規制と啓蒙の強化がその主要因と言われているが、同時に人類がエンジンのもたらすスピードという幻想、それを手にしておよそ100年で醒めつつあることが指摘できる。片岡義男(『スローなブギにしてくれ』『彼のオートバイ、彼女の島』)からしげの秀一(『バリバリ伝説』『頭文字D』)まで、20世紀のポップカルチャーにおいて定位置を占めていたこれらの機械への欲望は大きく後退している。強く、大きく、そして「速い」機械による身体拡張の快楽に人類は酩酊し、それがつい数十年前までは工業社会下における男性性の成熟と重ね合わされていた。しかし、21世紀の今日に生活の必要とは無縁にこのような文化に親しむ人々は、次第にかつての香港のカンフー映画を愛好する人々のようにレトロな文化に親しむ趣味人と見なされつつある。
(宇野常寛、2023「いま必要なのは「新しい生活様式」の反省と再評価だという話」note)
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
(新約聖書「コリントの信徒への手紙」12章 15〜19節)
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