The shoulders of Giants
共感
すると自分を正当化しようとして、イエスに言った、「では、わたしの隣人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負おわせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリオン銀貨二枚を取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行ないをした人です」。そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
(新約聖書「ルカによる福音書」10章 29〜37節)
ケアの倫理は、抽象的な理念ではなく、目の前の状況を敏感に感じ取る能力、生き物に対する気づかい、真の共感を要する倫理でもある。
(小川公代、2021『ケアの倫理とエンパワメント』講談社)
目の前で苦しんでいるひとがいたら、自分の利害はともかく、とりあえず放っておけないという憐れみの感情。反省以前の情念。精神分析の言葉を用いるならば「無意識」の反応。じつはローティは、たいへん興味深いことに、そのような心の状態こそを「リベラル」と呼ぼうという提案を行っている。「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びとが、リベラルである」と彼は宣言している。これはずいぶんと奇妙な提案である。というのも、「リベラル」ないし「リベラリズム」は一般には、あらためて指摘するまでもなく、自由という理念を重視する人々、およびその思想を意味する政治用語であり思想用語だからである。にもかかわらず、ローティは、それをあえて、理念を必要としない、身体的な反応を意味する言葉として捉え返した。ここには明らかに、自由とは、抽象的な理念ではなく、むしろ、動物としての人間がたがいに憐れみを抱き感情移入をしあう、その具体的な状態をこそ意味する言葉だったのではないか、そのような問題提起が込められている。
(東浩紀、2011『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社)
そして彼の中のひとりの律法学者が、イエスを試そうとして質問した。「先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい』。これが一番大切な、第一の戒めである。第二もこれと同様に大切である。『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』」。
(新約聖書「マタイによる福音書」22章 35〜39節)